古今和歌集残巻(関戸本):日本書道史を代表する国宝の名筆
日本の書道史において、ひときわ崇高な輝きを放つ名筆があります。「古今和歌集残巻(関戸本)」——平安時代の11世紀に書写された、日本最初の勅撰和歌集『古今和歌集』の写本断簡です。国宝に指定されたこの作品は、流麗な仮名書道の極致として、書道愛好家のみならず、日本文化に関心を持つすべての方を魅了し続けています。
『古今和歌集』は、醍醐天皇の命により紀貫之らが編纂し、延喜5年(905年)に奏上された日本初の勅撰和歌集です。全二十巻に1,100首を超える和歌を収め、以後の和歌文化の規範となりました。関戸本は、その『古今和歌集』の写本の中でも、書の美しさにおいて最も名高いもののひとつであり、文学的内容と書道芸術の両面で極めて高い評価を受けています。
歴史と伝来
「関戸本」という名称は、明治15年(1882年)以降にこの写本を所蔵した名古屋の豪商・素封家の関戸家に由来します。それ以前は、加賀藩の前田家に伝来していました。江戸時代初期の公家・中院通村による奥書から、当時1冊48丁の冊子本であったことがわかっています。
もともと『古今和歌集』全二十巻を上下2冊の綴葉装冊子本として書写したものと考えられていますが、時代を経る中で分割・散逸が進みました。昭和27年(1952年)には関戸家所蔵の冊子本がさらに切断分割され、現在は27丁分が冊子として残っています。それ以外にも、江戸時代以前に切り離された断簡が、ニューヨークのメトロポリタン美術館、名古屋の徳川美術館、東京の五島美術館、永青文庫、大阪の逸翁美術館、福岡の九州国立博物館など、国内外の諸機関・個人に分蔵されています。
国宝に指定された理由
古今和歌集残巻(関戸本)が国宝に指定されたのは、いくつもの卓越した価値が認められたためです。
第一に、平安時代の仮名書道を代表する最高峰の名筆であることです。筆をくねらせるような連綿(文字を続けて書く技法)の冴え、緩急抑揚に富んだ筆致、巧みな墨継ぎ(墨の補充による濃淡の変化)——これらが一体となって、比類ない書の美を生み出しています。
第二に、料紙の美しさです。雁皮を原料とした鳥の子紙に、紫・藍・茶・黄・緑などの染色を施した豪華な染紙が用いられています。色の濃淡を交互に配する構成は、繧繝彩色(うんげんさいしき)の効果を意識したものとされ、文字と料紙の色彩が織りなすハーモニーは、まさに平安貴族文化の粋と言えるでしょう。永青文庫蔵と逸翁美術館蔵の2枚の断簡には、金銀箔を散らした装飾料紙が用いられており、さらに華やかな趣を見せています。
第三に、平安時代の書物制作と書写文化を伝える貴重な歴史的資料としての価値です。綴葉装(列帖装)という装丁形式や、料紙の選択・配色など、当時の冊子本制作の実態を知る上で欠かせない情報を提供しています。
書の魅力と見どころ
関戸本の書は、古来より藤原行成(ふじわらのゆきなり/こうぜい、972〜1027)の筆と伝えられてきました。藤原行成は、小野道風・藤原佐理とともに「三蹟」と称される平安時代を代表する能書家です。しかし現在の研究では、行成よりやや後の時代、11世紀後半に活躍した優れた能書家による書写と推定されています。
書風の特徴として、まず挙げられるのが、小ぶりな文字が重なり合うように書き連ねられる緻密さです。女手(おんなで)を主体としながら草を交え、珍しいことに片仮名も用いられています。字形はよく整いながらも、運筆には大胆な緩急抑揚がつけられ、形式的な美しさよりも変化に富んだ表現が重視されています。
執筆法においては、俯仰法(ふぎょうほう)が巧みに用いられています。これは筆を持つ手の掌を上下に傾けながら書く技法で、線の太さや方向に変化を生み出します。筆管を手前に倒すことで縦画は細く、横画には独特の質感が生まれ、さらに手首の回転を加えることで、一律にならない豊かな表現が実現されています。
墨の濃淡による表現も見逃せません。たっぷりと墨を含んだ力強い筆致から、墨が薄れゆく繊細なかすれへと移り変わる様子は、まるで音楽のクレッシェンドとデクレッシェンドのように、見る者の目をリズミカルに導きます。染紙の鮮やかな色彩との対比が、その効果をさらに際立たせています。
『古今和歌集』——日本文学の礎
関戸本の価値を十分に理解するためには、書写された『古今和歌集』そのものの文化的重要性を知ることが大切です。
『古今和歌集』は、紀貫之・紀友則・凡河内躬恒・壬生忠岑の四名が撰者となり、醍醐天皇の勅命により編纂された日本最初の勅撰和歌集です。春夏秋冬の四季の歌に始まり、恋、旅、哀傷、賀など全二十巻にわたるテーマ別構成は、以後の勅撰和歌集の範となりました。
巻頭に置かれた紀貫之による仮名序は、「やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」という有名な一節で始まり、日本独自の歌論の出発点として文学史上極めて重要な位置を占めています。また、日本の国歌「君が代」の歌詞は、この『古今和歌集』に収められた賀歌に由来しています。
中世の歌人・藤原俊成が「歌の本躰には、ただ古今集を仰ぎ信ずべき事なり」と述べたように、『古今和歌集』は和歌を学ぶ者にとって最も重要な手本として、何世紀にもわたって尊ばれ続けてきました。
断簡を鑑賞できる場所
関戸本の本体は個人所有のため、常時公開はされていません。しかし、分割された断簡(切)は、国内外のいくつかの美術館に所蔵されており、特別展などで鑑賞の機会が設けられることがあります。
- 徳川美術館(名古屋市)——岡谷家寄贈の断簡(重要美術品)を所蔵。尾張徳川家の至宝とともに、平安の書の世界を堪能できます。
- 五島美術館(東京都世田谷区)——巻第十六の断簡を所蔵。「高野切」とともに展示されることもあります。
- メトロポリタン美術館(ニューヨーク)——2020年に取得された七夕の歌を含む断簡を所蔵しています。
- 九州国立博物館(福岡県太宰府市)——巻第一の断簡を所蔵。美しい緑色の染紙に書かれた作品です。
紙に書かれた書跡は光による劣化を防ぐため、展示期間が限定されています。各美術館の展示スケジュールを事前にご確認の上、お出かけください。春と秋の特別展で公開されることが多いようです。
名古屋周辺の文化スポット
関戸本が最も深い縁を持つ名古屋を訪れれば、関連する文化財とともに豊かな歴史に触れることができます。
- 徳川美術館——国宝「源氏物語絵巻」をはじめ、尾張徳川家伝来の名品を展示。書跡コレクションも充実しており、関戸本の断簡を含む平安の名筆を鑑賞できます。
- 名古屋城——近年復元された本丸御殿の障壁画は圧巻。日本の城郭建築の粋を体感できます。
- 熱田神宮——三種の神器のひとつ「草薙神剣」を祀る、日本を代表する神社のひとつです。
- 名古屋市博物館——地域の歴史・文化に関する展示を行っており、書道や文学に関する特別展が開催されることもあります。
書道に特に関心のある方は、東京の五島美術館や根津美術館、大阪の逸翁美術館なども合わせて訪問されると、平安時代の仮名書道の世界をより深く味わうことができるでしょう。
Q&A
- 古今和歌集残巻(関戸本)を実際に見ることはできますか?
- 本体は個人所有のため常時公開されていませんが、断簡は徳川美術館(名古屋)、五島美術館(東京)、九州国立博物館(福岡)、メトロポリタン美術館(ニューヨーク)などに所蔵されています。これらの美術館で開催される書道関連の特別展で鑑賞できる場合がありますので、各館の展示スケジュールをご確認ください。
- 関戸本を書いたのは誰ですか?
- 古来より「三蹟」のひとりである藤原行成(972〜1027)の筆と伝えられてきましたが、現代の研究では、行成より後の時代にあたる11世紀後半の優れた能書家による書写と推定されています。実際の筆者は特定されていませんが、行成の書風の伝統を継ぐ極めて高い技量を持つ書家であったことは間違いありません。
- 関戸本が他の古今和歌集写本と異なる点は何ですか?
- 関戸本の最大の特徴は、緩急抑揚に富んだ筆致と巧みな連綿による卓越した書の美しさです。また、紫・藍・茶・黄・緑など多彩な染紙を使用し、濃淡を交互に配して繧繝彩色の効果を出している点も他に類を見ません。書と料紙が一体となった総合芸術として、平安古筆の中でも最高峰に位置づけられています。
- 海外の方が日本の書道を学ぶにはどうすれば良いですか?
- 日本各地で外国人向けの書道体験教室が開催されています。名古屋や東京、京都などの観光地では、短時間で仮名や漢字の基本を学べるワークショップに参加できます。関戸本のような古筆の臨書用料紙も市販されていますので、書道専門店で購入して練習することもできます。
- 『古今和歌集』の英語訳はありますか?
- はい、複数の英訳が出版されています。ローレル・ラスプリカ・ロッドとメアリー・キャサリン・ヘンケニウスによるプリンストン大学出版局からの翻訳や、ヘレン・クレイグ・マカローの英訳などがあります。海外の方が和歌の世界を理解する手助けとなるでしょう。
基本情報
| 名称 | 古今和歌集残巻〈(関戸本)〉 |
|---|---|
| ふりがな | こきんわかしゅうざんかん(せきどぼん) |
| 指定区分 | 国宝 |
| 種別 | 書跡・典籍 |
| 時代 | 平安時代・11世紀後半 |
| 伝称筆者 | 藤原行成(ふじわらのゆきなり、972〜1027) |
| 品質・形状 | 彩箋墨書(染紙に墨書)、綴葉装冊子本 |
| 料紙 | 鳥の子紙(雁皮紙)、紫・藍・茶・黄・緑などの染紙 |
| 寸法(1丁あたり) | 縦約21.1cm × 横約17.4cm |
| 現存 | 冊子本27丁(個人蔵)、および諸家蔵の断簡数十点 |
| 所在都道府県 | 愛知県 |
| 所有 | 個人蔵 |
参考文献
- 関戸本古今和歌集 — Wikipedia
- https://ja.wikipedia.org/wiki/関戸本古今和歌集
- 古今和歌集巻二十断簡(関戸本) — 文化遺産オンライン
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/534472
- 古今和歌集巻第一断簡(関戸本) — 文化遺産オンライン
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/569746
- 関戸本古今和歌集切 こゝろかへ — 徳川美術館
- https://www.tokugawa-art-museum.jp/collections/関戸本古今和歌集切
- 関戸本古今集切 伝藤原行成筆 — 五島美術館
- https://www.gotoh-museum.or.jp/2020/10/04/08-014/
- 関戸本古今集(伝藤原行成)の特徴は? — 書道専門店 大阪教材社
- https://www.osakakyouzai.com/osaka_kyouzai/?p=625
- Four Poems from the Sekido Version — The Metropolitan Museum of Art
- https://www.metmuseum.org/art/collection/search/827502
- 国指定文化財等データベース — 文化庁
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/searchlist
最終更新日: 2026.03.19