はじめに:火山と人の営みが織りなす景観
熊本県北東部、阿蘇カルデラの外輪山と九重山麓が交差する場所に、産山村(うぶやまむら)があります。人口約1,400人の小さな村ですが、ここには千年以上にわたって受け継がれてきた農村景観が広がり、2017年10月に国の重要文化的景観に選定されました。
都会の喧騒から遠く離れたこの高原では、今も季節の移ろいとともに暮らしが営まれています。あか牛が草原を悠々と歩き、清らかな湧水が棚田を潤し、早春には野焼きの炎が山肌を駆け抜ける。それは博物館に収められた過去の遺産ではなく、今この瞬間も息づいている生きた文化遺産なのです。
文化的景観とは
文化的景観は、2004年の文化財保護法改正によって新たに設けられた文化財の類型です。建造物や美術工芸品といった個別の文化財とは異なり、「地域における人々の生活又は生業及び当該地域の風土により形成された景観地」を対象としています。
阿蘇の文化的景観は、阿蘇郡市7市町村にまたがる広大な景観で、その総面積は14,592ヘクタールに及びます。産山村の農村景観はその一部として、65.3ヘクタールの草地、原生林、湧水地、棚田などが一体となった景観が選定されています。この選定は、単一の名所旧跡の価値を認めるものではなく、人と自然が長い年月をかけて創り上げてきた「暮らしの景観」そのものを守り伝えていこうという趣旨に基づいています。
産山村が選定された理由:垂直的土地利用の価値
産山村が重要文化的景観に選定された背景には、この地域特有の地理的条件と、それに適応してきた人々の知恵があります。
産山村は、約27万年前から約9万年前にかけて発生した阿蘇山の巨大噴火による火砕流堆積物と、九重火山群からの堆積物が複合する地域に位置しています。このため、波状の高原地形が広がり、火山性の地層を通って濾過された地下水が各所で湧き出ています。
火山灰土壌は本来、農業には不向きな痩せた土地です。しかし、産山村の人々は地形に応じた土地利用を発達させることで、この環境に適応してきました。谷底には湧水を利用した水田や棚田を開き、中腹には集落を構え、斜面には森林を、そして高原部には広大な草地を維持してきたのです。
この「耕地―集落―森林―草原」という垂直的な土地利用パターンは、阿蘇地域全体に共通する特徴ですが、産山村ではその姿が特に良好に保たれています。草地から得られる草肥は、酸性の火山灰土壌を改良するための貴重な資源であり、この循環的な農法が何世代にもわたって受け継がれてきたことが、現在の文化的景観を形作っているのです。
千年の草原:野焼きと放牧の伝統
産山村を含む阿蘇地域の草原は、自然に形成されたものではありません。千年以上にわたる人間の営みによって維持されてきた「半自然草原」なのです。平安時代に編纂された『延喜式』には、すでに阿蘇に牧場があったことが記されており、近年の研究では縄文時代(約13,000年前)から野焼きが行われていた可能性も指摘されています。
日本の気候条件では、草原は放置すれば次第に森林へと遷移していきます。これを防ぎ、草原を維持するために行われてきたのが「野焼き」です。毎年2月後半から4月にかけて、枯れた草を焼き払うこの伝統的な農作業は、阿蘇に春を告げる風物詩として知られています。
野焼きには多くの効果があります。枯草を除去して新芽の成長を促進させること、害虫や病原菌を駆除すること、低木の侵入を防いで草原の状態を維持すること、そして火災の延焼を防ぐことなどです。また、野焼きを繰り返すことで土壌中に大量の炭素が蓄積され、地球温暖化防止にも貢献しているとの研究結果もあります。
野焼きの実施には、秋に行う「輪地切り」(防火帯となる草刈り)から始まる入念な準備が必要です。風向きや湿度、火の動きを読みながら安全に作業を進めるには、長年の経験と地域の連携が欠かせません。近年は農家の減少や高齢化により担い手不足が深刻化していますが、ボランティア活動への参加や、阿蘇草原再生協議会の取り組みなどによって、この伝統は今も守り継がれています。
野焼きによって維持された草原には、ヒゴタイ(平江帯)やキスミレなど、希少な植物が生育しています。これらの植物は、定期的な野焼きによって維持される環境でなければ生存できず、千年以上にわたる人間の営みがこの生態系を支えてきたことを物語っています。
扇棚田:日本の棚田百選に輝く景勝地
産山村の文化的景観を象徴する風景として、「扇棚田」があります。産山村役場から約9キロメートル離れた標高820メートルの高原に、まるで扇を開いたように広がるこの棚田は、1999年に「日本の棚田百選」に選定され、2022年には農林水産省の「つなぐ棚田遺産」にも認定されました。
現在、扇棚田は16枚の水田で構成されていますが、昭和37年頃には59枚もの小さな田が連なっていたといいます。農地改良により複数の田をつなげて機械化に対応した結果、現在の姿になりました。水源は1.3キロメートル上流にある「山吹水源」。飲料水としても利用できるほど清らかな湧水が、棚田を潤しています。
扇棚田の魅力は、その美しい形状と周囲の景観との調和にあります。晴れた日には、阿蘇山、九重山、祖母山という九州の名峰三山を一望でき、田植えの時期には水を張った棚田に「逆さ九重」が映り込むこともあります。16枚の棚田と3本の杉の木が織りなす風景は、季節や時間帯によって刻々と表情を変え、多くの写真愛好家を魅了してきました。
棚田の上部は放牧地となっており、牛たちがのんびりと草を食む姿を見ることができます。棚田の維持管理は、中山間地域等直接支払制度による「山吹集落協定」に基づき、地域住民が草刈りや水路の修繕などを行いながら、伝統的な農業を守り続けています。
名水の郷:池山水源と山吹水源
産山村は「水の村」とも呼ばれるほど、清らかな湧水に恵まれた土地です。その代表が、環境省の「名水百選」および熊本県の「名水百選」に選ばれた「池山水源」と「山吹水源」です。
池山水源は、樹齢200年を超える杉の巨木に囲まれた原生林の中にあります。毎分約30トンという豊富な湧水量を誇り、水温は年間を通じて13.5度で安定しています。この水は、約27万年前から9万年前にかけての阿蘇山噴火で生じた火砕流堆積物の亀裂部に貯留された地下水が湧出したものです。
水源池は、透明度が極めて高く、水底の砂がもくもくと舞い上がる様子を見ることができます。水中に茂る水藻は冬でも緑を保ち、水の養分の豊かさを物語っています。駐車場から水源まではバリアフリー対応の遊歩道が整備されており、車椅子やベビーカーでも訪れることができます。水汲み場も設けられており、県内外から多くの人がこの名水を求めて訪れています。
山吹水源は、扇棚田の上流に位置する「隠れた名水」です。駐車場から原生林の小道を10分ほど歩くと、ほぼ円形の神秘的な水源池にたどり着きます。毎分30トンの湧水量、水温13.5度という条件は池山水源と同じですが、こちらは九重火山群の飯田火砕流堆積物を水源としており、水質はやや異なります。周囲の原生林が水面に映り込む光景は、特に紅葉の季節に息をのむほどの美しさです。
両水源の水は、最終的に大野川水系となって別府湾へと注いでいます。産山村の清らかな水は、この地の暮らしを潤すだけでなく、九州全体の水循環を支える源流としての役割も担っているのです。
あか牛:阿蘇の草原を守る褐色の和牛
阿蘇の草原で悠々と草を食む「あか牛」の姿は、この地域を象徴する風景の一つです。正式名称は「褐毛和種(あかげわしゅ)」。熊本県の在来種とスイス原産のシンメンタール種を交配して改良された品種で、暑さ寒さに強く、放牧に適した穏やかな性格を持っています。
産山村では、古くからあか牛の飼育が盛んで、畜産は村の主要産業の一つとなっています。あか牛の母牛は4月から11月頃まで草原に放牧され、1日に40~50キログラムの草を食べながら、5~8キロメートルほどを歩き回って暮らします。この自然な飼育方法により、あか牛は余分な脂肪がつかず、健康的で病気になりにくい体質を維持しています。
放牧は草原の維持管理にも貢献しています。牛が草を食べることで、草刈りの手間が省けるだけでなく、草原の開放的な景観を保つことにもつながっています。産山村の畜産農家の中には、「放牧型粗飼料多給飼育方法」と呼ばれる独自の飼育法を実践し、草原で育った牧草をたっぷり与えてあか牛を育てている方もいます。
草を食べて育ったあか牛の肉は、赤身が多くさっぱりとした後味が特徴です。口に入れると旨味のある肉汁が広がり、噛むほどに複雑な味わいが楽しめます。産山村内には、自家牧場で育てたあか牛を提供する農家レストランがあり、この地ならではの味覚を堪能することができます。
四季の見どころと訪問のベストシーズン
産山村の文化的景観は、四季を通じてさまざまな表情を見せてくれます。訪問の目的に合わせて、最適な季節を選んでお越しください。
春(3月~5月)は、野焼きの季節です。2月後半から4月にかけて、天候条件を見ながら行われる野焼きは、炎が草原を駆け抜ける壮大な光景を見ることができます。野焼き後、黒く焼けた大地からわずか1週間ほどで新芽が萌え出し、4月中旬からはあか牛の放牧も始まります。5月下旬には扇棚田の田植えが行われ、水を張った棚田が鏡のように空を映し出します。
夏(6月~8月)は、草原が最も緑濃くなる季節です。7月下旬から8月にかけては、ヒゴタイ公園でヒゴタイの花が見頃を迎えます。青紫色の球形の花は、産山村を代表する野草として親しまれています。早朝には谷間に霧が立ち込め、幻想的な風景に出会えることもあります。
秋(9月~11月)は、棚田が黄金色に輝く収穫の季節です。周囲の森も紅葉に彩られ、特に山吹水源では水面に映る紅葉の美しさが格別です。空気が澄む秋は、扇棚田の水面に星空や天の川を撮影するのにも最適な季節です。
冬(12月~2月)は、静かな季節。時折雪化粧した高原は、モノトーンの世界の中に棚田や草原の造形美が際立ちます。湧水は年間を通じて一定の温度を保つため、冷えた空気の中で水面から立ち上る湯気が神秘的な雰囲気を醸し出します。
周辺の見どころ
産山村は阿蘇くじゅう国立公園の一角に位置し、周辺には多くの観光スポットがあります。
「一覧三山の台」は、うぶやま保育園向かいにある展望スポットです。ここからは阿蘇山、九重山、祖母山という九州の名峰三山を一望でき、明治時代のジャーナリスト徳富蘇峰がこの名を付けたと伝えられています。360度のパノラマビューを楽しめる贅沢な場所です。
「ヒゴタイ公園」では、春のハルリンドウ、夏のヒゴタイ、秋のコスモスなど、四季折々の山野草を楽しむことができます。公園内のビジターセンターでは、草原の生態系や伝統的な農業についての展示も行われています。入園料は一般400円、小・中学生250円(冬季は無料開放)。
「UBUYAMA PLACE」は、雄大な景色を眺めながら地元産のチーズを使った窯焼きピッツァやイタリアンが楽しめる複合施設です。敷地内にはパークゴルフ場もあり、ブラウンスイス種の乳牛から作られた乳製品も販売されています。
車で約30分の場所には、九州を代表する温泉地「黒川温泉」があります。風情ある温泉街で湯めぐりを楽しんだ後、産山村の文化的景観を訪れるというルートもおすすめです。
アクセス方法
産山村は高原に位置するため、公共交通機関でのアクセスは限られています。お車でのお越しがおすすめです。
お車の場合、熊本ICから国道57号を阿蘇方面へ進み、約1時間30分。大分方面からは、やまなみハイウェイ経由で九重ICから約50分です。扇棚田へは、産山村役場を目印に、案内看板に従ってお進みください。
公共交通機関をご利用の場合、最寄り駅はJR豊肥本線の波野駅または滝水駅ですが、駅から村中心部まで10キロメートル以上離れています。2024年10月より「うぶやま乗合バス」がオンデマンド運行を開始し、波野駅や宮地駅、豊後竹田駅から利用できます(曜日限定・要予約)。詳細は産山村役場にお問い合わせください。
Q&A
- 水源や棚田の見学に入場料はかかりますか?
- 池山水源、山吹水源、扇棚田いずれも入場無料で、年間を通じて見学できます。ただし、水源の水は飲料水として利用されているため、水の中に手足や撮影機材を入れないようお願いいたします。
- 棚田の撮影に最適な時期はいつですか?
- 5月下旬から6月上旬の田植え時期が最も人気があります。水を張った棚田が鏡のように空や山を映し出し、早朝や夕方は特に美しい光景が広がります。夜は星空や天の川の撮影も可能です。なお、牛の放牧地でもあるため、ドローン撮影は原則禁止されています。
- 湧水を持ち帰ることはできますか?
- はい、両水源とも指定の場所で水汲みが可能です。容器はご持参ください。池山水源の水は硬度26mg/ℓの超軟水で、そのまま飲むことができます。コーヒーやご飯を炊くのに最適と評判で、遠方から汲みに来る方も多くいらっしゃいます。
- 地元の食事を楽しめる場所はありますか?
- 産山村には、自家牧場で育てたあか牛を提供する農家レストランや、山吹水源の水で育てたヤマメ料理が楽しめる「産山水魚園」、地元チーズを使ったイタリアンが味わえる「UBUYAMA PLACE」などがあります。週末は予約がおすすめです。
- 野焼きを見学することはできますか?
- 野焼きは毎年2月後半から4月にかけて、天候条件を見ながら実施されます。実施日程は直前まで確定しないことが多いですが、道の駅阿蘇などで野焼き見学ツアーが企画されることもあります。見学の際は安全な場所から観覧し、作業の妨げにならないようご配慮ください。
基本情報
| 文化財名称 | 阿蘇の文化的景観 産山村の農村景観 |
|---|---|
| 指定区分 | 重要文化的景観 |
| 選定年月日 | 2017年(平成29年)10月13日選定、2023年(令和5年)3月20日追加選定 |
| 面積 | 65.3ヘクタール |
| 所在地 | 熊本県阿蘇郡産山村 |
| 標高 | 約600~900メートル |
| お問い合わせ | 産山村役場 企画振興課 電話:0967-25-2211 |
| アクセス | 熊本ICから車で約1時間30分、九重ICから車で約50分 |
| 駐車場 | 池山水源:30台、山吹水源:15台、扇棚田:5~6台 |
| 入場料 | 無料(全施設通年開放) |
参考文献
- 文化遺産データベース - 阿蘇の文化的景観 産山村の農村景観
- https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/409215
- 国指定文化財等データベース - 阿蘇の文化的景観 産山村の農村景観
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/412/00004015
- 阿蘇を世界遺産に - 国選定「重要文化的景観」
- http://www.asosekaibunkaisan.com/property/landscapes/icl/
- 産山村公式サイト - 観光スポット
- https://www.ubuyama-v.jp/villagepromotion/996.html
- 熊本県観光サイト - 扇棚田
- https://kumamoto.guide/spots/detail/12481
- 阿蘇草原再生プロジェクト - 守り継ぐ草原
- https://www.asogreenstock.com/sougensaisei/see/inherit/
- 阿蘇地域世界農業遺産 - 続く草原
- https://www.giahs-aso.jp/value/grassland-maintenance/
- つなぐ棚田遺産 in KUMAMOTO - 産山村 扇棚田
- https://tanada-kumamoto.com/ougi.html
- 産山村観光協会 - 山吹水源
- https://ubu-lab.com/spot/山吹水源/
- 熊本県ホームページ - 阿蘇の文化的景観の追加選定について
- https://www.pref.kumamoto.jp/soshiki/125/161554.html
最終更新日: 2026.01.27