国宝・線刻釈迦三尊等鏡像 ── 直径15cmの鏡面に広がる平安仏教の小宇宙

京都・東山の鹿ヶ谷、哲学の道のほど近くに佇む泉屋博古館。その所蔵品の中に、日本の金属工芸の最高峰に数えられる至宝があります。それが国宝「線刻釈迦三尊等鏡像(せんこくしゃかさんぞんとうきょうぞう)」です。

12世紀の平安時代に制作されたこの白銅製八稜鏡は、わずか直径15.1センチメートルという小さな鏡面の上に、釈迦如来をはじめとする大小9体の仏像を精緻極まりない線刻で表現した奇跡のような作品です。鏡像(きょうぞう)という日本独自の信仰美術の中でも、「稀に見る優品」と高く評価されています。

鏡像(きょうぞう)とは ── 神仏習合が生んだ祈りの美術

鏡像とは、銅鏡の表面に仏教やShinto(神道)の尊像を線刻あるいは描画した信仰の対象物です。平安時代後期(11〜12世紀)に盛んに制作されるようになりました。

古来、鏡は神道において神の依代(よりしろ)──神霊が宿る器──として崇められてきました。一方、「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」という思想のもと、日本の神々は仏教の諸仏が姿を変えて現れたものと解釈されるようになります。鏡像は、まさにこの神仏習合の精神を形にしたもの。神道の聖なる器である鏡に、仏教の尊像を刻むことで、神と仏が一体であるという信仰を目に見える形で表現したのです。

こうした鏡像は「御正体(みしょうたい)」とも呼ばれ、神社や寺院に奉納され、信仰の対象として大切に守られてきました。

作品の詳細 ── 鏡面に刻まれた仏の世界

本作品は白銅(はくどう)──銅にニッケルを含む合金──で鋳造された八稜鏡です。八稜鏡とは外周が八つの尖った角を持つ形状の鏡で、各稜が蓮の花びらを模しており、鏡そのものが蓮華の象徴となっています。美しい銀白色の表面が特徴で、現在の50円硬貨や100円硬貨と同じ素材にあたります。

鏡面(表面)── 精緻な線刻による九尊の仏像

鏡面には、毛彫り(けぼり)と呼ばれる極めて細い線で彫り込む技法によって、大小9体の仏像が巧みに配されています。

中央上部に鎮座するのは釈迦如来です。蓮弁・敷茄子・華盤・反花を備えた精緻な台座の上に坐し、蓮弁には宝相華文が施され、瓔珞(ようらく)が垂れています。光背は宝相華文を刻んだ二重円光で、火焔が付けられています。

釈迦如来の左右には菩薩像が坐しています。さらにその斜め下方には、白象の上の蓮華座に合掌して坐す普賢菩薩(ふげんぼさつ)と、獅子の上の蓮華座に坐して右手に剣、左手に梵篋(ぼんきょう:経箱)を載せた蓮華を持つ文殊菩薩(もんじゅぼさつ)が配されています。釈迦如来と合わせて「釈迦三尊」を構成しています。

下方にはやや大きく二体の護法神が立ちます。左には不動明王(ふどうみょうおう)。忿怒の表情で牙をむき、右手に剣、左手に羂索(けんさく)を握り、遍身火焔光を背にして岩座に立つ姿です。左右には矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ)の二童子が侍っています。右には毘沙門天(びしゃもんてん)。甲冑をまとい、左手に塔、右手に三叉戟を握り、輪宝火焔光を背にして岩座に立っています。

三尊の前には花が供えられ、散華(さんげ)が舞い散る様子が表現されています。大小9体の尊像がこのわずか15センチの世界に見事に収められた、まさに仏教宇宙の縮図です。

鏡背(裏面)── 華やかな吉祥文様

裏面もまた見事な出来栄えです。圏線で内区と外区に分けられ、内区は花文座鈕(はなもんざちゅう)を中心に瑞花(ずいか)と鴛鴦(えんおう:おしどり)を交互に旋転するように配しています。外区には胡蝶と小鳥が置かれ、その間を唐草文でつないでいます。鋳造の仕上がりが非常に良く、文様の細部まで鮮明に表現されています。

なぜ国宝に指定されたのか

本作品は1953年(昭和28年)11月14日に重要文化財に指定され、翌1954年(昭和29年)3月20日に国宝に格上げされました。文化庁は以下の点を特筆すべき価値として認めています。

第一に、大小9体の仏像を限られた空間に巧みに配した構図の卓越性です。釈迦三尊を頂点とし、脇侍菩薩を中段に、護法神を下段に配する階層的な構成は、一つの曼荼羅的世界を見事に凝縮しています。

第二に、「精緻かつ流麗」と評される線刻技法の高さです。毛彫りの線には深浅・濃淡の抑揚があり、金属面に刻まれた仏像でありながら、まるで絵画を見るような趣があります。その表現は平安末期から鎌倉初期の白描図像に近いとされ、線彫りの芸術性において他に類を見ません。

第三に、鏡背の文様の鋳造品質が極めて高いことです。表裏ともに非凡な技術が発揮されたこの作品は、現存する鏡像の中でも「稀に見る優品」として、日本美術史上きわめて重要な位置を占めています。

魅力と見どころ

この国宝との出会いは、大きな仏像や壮大な伽藍とは異なる、親密で静謐な鑑賞体験を提供してくれます。わずか15センチという小さな鏡に凝縮された仏の世界に目を凝らす時間は、まるで瞑想のようです。

泉屋博古館で展示される際には、独立したケースに立てて展示されることが多く、表面の線刻と裏面の文様の両方を鑑賞できます。鑑賞のコツとしては、真正面からよりも少し上方から見下ろすような角度で見ると、毛彫りの細やかな線がより鮮明に浮かび上がります。

白銅の銀白色に美しく輝く表面で、照明の角度によって線刻の仏像が浮き上がったり沈んだりする様子は、まさに「生きた」仏の姿を感じさせます。それはこの鏡が単なる美術品ではなく、人々の祈りを受け止めた信仰の対象であったことを思い起こさせてくれます。

一部の展覧会では撮影が許可されたこともありますが、展示によって方針が異なりますので、来館時にご確認ください。

泉屋博古館について ── 住友コレクションの宝庫

線刻釈迦三尊等鏡像を所蔵する泉屋博古館(せんおくはくこかん)は、住友家が蒐集した美術品を保存・公開するために1960年(昭和35年)に設立された美術館です。

館名は、江戸時代の住友家の屋号「泉屋」と、中国宋代に皇帝の命で編纂された青銅器図録『博古図録』に由来します。コレクションの中心は中国古代青銅器で、その質と量は世界的にも高く評価されています。所蔵品は国宝2件、重要文化財19件、重要美術品60件を含む約3,500件にのぼり、中国・日本の書画、仏教彫刻、茶道具、能面・装束など多岐にわたります。

もう一つの国宝は、南宋時代の絵画「秋野牧牛図(あきのまきぎゅうず)」(伝閻次平筆)です。こちらもぜひご覧いただきたい名品です。

京都本館は大規模な改修を経てリニューアルオープンし、照明やバリアフリー設備が向上しました。鏡類も以前の寝かせた展示から立てた展示に改善され、格段に見やすくなっています。東京・六本木には泉屋博古館東京があり、特別展で本作品が出品されることもあります。

なお、開館期間は春季(3月〜6月頃)と秋季(9月〜12月頃)に限られますので、訪問前に必ず公式サイトで開館スケジュールをご確認ください。

周辺情報 ── 京都・鹿ヶ谷と哲学の道エリア

泉屋博古館が位置する鹿ヶ谷(ししがたに)は、東山山麓の文化が凝縮された京都屈指の散策エリアです。美術館の訪問を、周辺の名所めぐりと組み合わせることで、充実した一日を過ごすことができます。

美術館のすぐそばを通る「哲学の道」は、琵琶湖疏水の支流に沿った約2キロメートルの散歩道です。京都大学の哲学者・西田幾多郎が日々の思索のために歩いたことに由来する名前で、「日本の道百選」にも選ばれています。春には約450本の桜が咲き誇り、秋には紅葉に彩られる、京都を代表する景勝地です。

周辺の主な文化スポットには、紅葉の名所として名高い永観堂(禅林寺)、壮大な伽藍と水路閣で知られる南禅寺、世界遺産の銀閣寺(慈照寺)、苔の美しい静寂の寺・法然院、哲学の道南端に鎮座する熊野若王子神社などがあります。

界隈にはおしゃれなカフェや伝統工芸の店も点在しており、ゆったりとした時間を過ごすことができます。京都中心部の賑やかな観光地とは一味違う、落ち着いた文化散策をお楽しみください。

アクセス・訪問のヒント

泉屋博古館へは、京都市バス5番・93番・203番・204番で「東天王町」バス停下車、東へ徒歩約200メートルです。「宮ノ前」バス停は館のすぐ前ですが、通る路線が少ないため「東天王町」の利用が便利です。

地下鉄東西線「蹴上」駅からは徒歩約20分。南禅寺の境内を抜ける風情ある散歩道を楽しめるルートです。

海外からのお客様へ:館内は主に日本語での案内ですが、公式サイトに英語ページがあり、展覧会スケジュールやアクセス情報を確認できます。コインロッカー(無料)を完備しており、落ち着いた雰囲気の中でゆっくりと鑑賞を楽しむことができます。

おすすめの訪問時期は、桜の季節(3月下旬〜4月)と紅葉の季節(11月中旬〜12月初旬)です。哲学の道の散策と合わせてお楽しみください。

Q&A

Q線刻釈迦三尊等鏡像は常時展示されていますか?
A常設展示ではありません。泉屋博古館の青銅器館や企画展・特別展で定期的に公開されますが、常に見られるわけではありません。また、他の美術館での特別展に出品されることもあります。来館前に必ず泉屋博古館の公式サイトで展示状況をご確認ください。
Q小さな鏡ですが、線刻の細部はよく見えますか?
A鏡の直径は約15.1センチ(手のひらより少し大きいサイズ)ですが、独立ケースに立てて展示され、照明も工夫されているため、毛彫りの細やかな線を十分に観察できます。真正面よりも少し上方から見下ろすような角度がおすすめです。
Q鏡に刻まれた9体の仏像はどのような配置ですか?
A中央上部に釈迦如来、その左右に菩薩が坐し、下方に象に乗る普賢菩薩と獅子に乗る文殊菩薩が配されて「釈迦三尊」を構成しています。さらに下方には不動明王と二童子(矜羯羅・制多迦)、毘沙門天が立ち、合計9体が階層的に配置されています。
Q泉屋博古館には他にも国宝がありますか?
Aはい。もう一つの国宝は南宋時代の絵画「秋野牧牛図」(伝閻次平筆)です。そのほか重要文化財19件、重要美術品60件を含む約3,500件の所蔵品があり、中国古代青銅器コレクションは世界有数の質と量を誇ります。
Q美術館と周辺観光を組み合わせることはできますか?
Aもちろんです。泉屋博古館は哲学の道の南端付近に位置しており、永観堂、南禅寺、法然院、銀閣寺など、京都を代表する名所が徒歩圏内に集まっています。特に春の桜と秋の紅葉の時期は、鹿ヶ谷・東山エリアの散策と合わせて充実した一日をお過ごしいただけます。

基本情報

指定名称 線刻釈迦三尊等鏡像(せんこくしゃかさんぞんとうきょうぞう)
別称 線刻仏諸尊鏡像(瑞花鴛鴦八稜鏡)
種別 国宝(美術工芸品・工芸品)
時代 平安時代(12世紀)
材質・形状 白銅製八稜鏡、毛彫り(線刻)
法量 径15.1cm、縁厚1.2cm
員数 1面
国宝指定日 1954年(昭和29年)3月20日
重要文化財指定日 1953年(昭和28年)11月14日
所有者 公益財団法人泉屋博古館
所在地(京都本館) 〒606-8431 京都市左京区鹿ヶ谷下宮ノ前町24
開館時間 10:00〜17:00(最終入館 16:30)
休館日 月曜日(祝日の場合は翌平日)、展示替期間、その他臨時休館日
開館期間 春季(3月〜6月頃)・秋季(9月〜12月頃)※年度により異なる
入館料 一般:1,000円(特別展 1,200円)、学生:600円(特別展 800円)
アクセス 京都市バス5・93・203・204番「東天王町」下車、東へ徒歩約200m/地下鉄東西線「蹴上」駅から徒歩約20分
電話番号 075-771-6411
公式サイト https://sen-oku.or.jp/kyoto/

参考文献

文化遺産データベース ── 線刻釈迦三尊等鏡像
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/148528
国宝を巡る ── 線刻釈迦三尊等鏡像
https://www.national-treasure.jp/?p=74
WANDER 国宝 ── 国宝-工芸|線刻釈迦三尊等鏡像[泉屋博古館/京都]
https://wanderkokuho.com/201-00443/
泉屋博古館 公式サイト(京都東山・鹿ヶ谷)
https://sen-oku.or.jp/kyoto/
奈良国立博物館 ── 泉屋博古館の名宝(特集展示ページ)
https://www.narahaku.go.jp/exhibition/special/feature_exhibition/202407_senoku/
京都国立博物館 ── 鏡像と懸仏(名品紹介ページ)
https://www.kyohaku.go.jp/old/eng/theme/floor1_5/past/1F-5_20220208.html
泉屋博古館 ── Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/泉屋博古館
仏像探訪記 ── 泉屋博古館の国宝鏡像
https://www.butsuzoutanbou.org/
泉屋博古館東京 リニューアルオープン記念展Ⅲ(ARTPR プレスリリース)
https://www.artpr.jp/senoku-tokyo/2022_kobijutsushoyo

最終更新日: 2026.02.17

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