1件の窯跡 ― 1929年に国の指定
額田部窯跡は、奈良県大和郡山市額田部北町にある鎌倉時代の窯跡で、1929年(昭和4年)4月2日に国の指定を受けた。区分は史跡である。
ふりがなは、ぬかたべかまあとである。
大和郡山市は、額安寺五輪塔の西側約30メートルの地点で昭和3年に発見されたもので、鎌倉時代の瓦を焼いた窯である、と記す。窯跡は、焼き物や瓦を焼いた窯の跡をいう。
床に細長い堤をもつ、小さな平窯
窯のなかの床に、細長い仕切りが設けられている。
大和郡山市は、窯は全長1.5メートル、幅1メートルの小規模なもので、焼成室の床面に細長い堤をもついわゆるロストル式平窯とよばれるものである、と記す。
焼成室は、瓦や焼き物を並べて焼く部屋をいう。その床に並ぶ細長い堤をロストルと呼ぶ。堤と堤のあいだを炎と熱が通る。
続けて、薪などの燃料を燃やす燃焼室は南側にあり、焼成室の床面より一段低くなっている、とある。火を焚く場を低くし、熱を上の部屋へ送る。
全長1.5メートル、幅1メートルは、畳一枚ほどの広さにあたる。
中之坊稲荷社は建築面積1.4平方メートルだった。焼き物の窯も、建物と同じほどの大きさで測られることになる。
三基のうち、一基だけが覆屋の下に残る
見つかった窯のうち、いま見られるのは一つだけである。
大和郡山市は、全部で3基が東西にならんだ状態で検出された、と記す。
続けて、現在、最も西側に位置する1基が覆屋をかけて保存されている、とある。覆屋は、遺構や建物を覆って守るための建物をいう。
金隈遺跡では、発掘調査現場に屋根をかけるように展示館が建てられ、甕棺や人骨が発見されたままの状態で見られた。
本件は、三基のうち一基に覆屋をかける。残る二基の現状について、市の記録は触れていない。
東西に並ぶという並び方は、瓦を焼く作業の場が横に連なっていたことを示す。
寺の再興のために焼き、発見の翌年に指定された
窯が造られた理由と、指定までの早さが記されている。
大和郡山市は、鎌倉時代の瓦の破片が出土していることから、額安寺の再興に際し、所用の瓦を焼くために操業したと考えられている、と記す。
寺を建て直すために、その寺のすぐ近くに窯を築き、必要な瓦を焼く。窯は一つの工事のために営まれたことになる。
窯が見つかったのは昭和3年、つまり1928年である。国の指定はその翌年の1929年で、発見から1年しか経っていない。
文祢麻呂墓は1831年に農作業の途中で見つかり、指定は153年後だった。
本件は、見つかってすぐに指定へ進む。同じく偶然に見つかった遺跡でも、指定までの時間は大きく違うことになる。
見学
所在は奈良県大和郡山市額田部北町である。
窯跡は額安寺の五輪塔の西およそ30メートルにあり、その五輪塔は別の文化財になっている。
大和郡山市は、管理上、施錠しているので見学希望の際はまちづくり戦略課に連絡してほしい、と記す。見学の条件は変わることがある。訪問前に確認したい。
文化遺産オンラインには、この史跡の項目は見当たらない。本記事は大和郡山市の記録によっている。
指定は1929年で、発見から1年後にあたる。
Q&A
- 額田部窯跡はいつ指定されましたか。
- 1929年(昭和4年)4月2日に国の指定を受けました。区分は史跡です。
- ロストル式平窯とは何ですか。
- 焼成室の床面に細長い堤(ロストル)をもつ平窯です。本件は全長1.5メートル、幅1メートルの小規模なものです。
- 窯はいくつ見つかったのですか。
- 全部で3基が東西にならんだ状態で検出され、現在は最も西側の1基が覆屋をかけて保存されています。
- 何のための窯ですか。
- 大和郡山市は、額安寺の再興に際し、所用の瓦を焼くために操業したと考えられている、と記します。
- 見学できますか。
- 管理上施錠されており、見学希望の際は市のまちづくり戦略課に連絡することとされています。
基本情報
| 名称 | 額田部窯跡(ぬかたべかまあと) |
|---|---|
| 所在地 | 奈良県大和郡山市額田部北町 |
| 指定区分 | 史跡/建造物や美術品ではなく遺跡としての指定 |
| 指定年 | 1929年(昭和4年)4月2日 指定 |
| 員数 | 1件の窯跡。3基が検出され、1基が保存されている |
| 寸法 | 窯は全長1.5メートル、幅1メートル。焼成室の床面に細長い堤をもつロストル式平窯で、燃焼室は南側にあり床面より一段低い |
| 所有者 | 記録に記載なし |
| 公開状況 | 管理上施錠されており、見学希望は市のまちづくり戦略課へ連絡 |
参考文献
最終更新日: 2026.09.24