和銅8年の銘をもつ伏鉢 ― 1953年に国宝

大和国粟原寺三重塔伏鉢は、奈良県にある奈良時代の青銅製の伏鉢で、1953年(昭和28年)3月31日に国宝に指定された。それに先立つ1902年(明治35年)4月17日には重要文化財となっている。員数は1箇、種別は考古資料、指定番号は00012。読みは「やまとのくにおうばらでらさんじゅうのとうふせばち」である。

指定の対象は三重塔ではなく、伏鉢である。伏鉢は塔の屋根の上に立つ相輪の一部で、露盤の上に置かれる椀を伏せた形の部材をいう。粟原寺の三重塔そのものは失われており、現存するのはこの伏鉢である。

文化庁のト書は「和銅八年四月在銘」と記す。和銅8年は715年にあたり、年代欄と西暦欄はいずれも715である。解説文は「奈良時代の資料。」の一行のみで、評価の言葉は残されていない。

銘文が寺の由緒を伝える

この伏鉢が重んじられるのは、刻まれた銘文による。

桜井市の記録によれば、銘文には次のことが刻まれている。中臣朝臣大嶋が天武天皇と持統天皇の息子である草壁皇子をしのび創立を誓願したが、果たさず没した。比売朝臣額田が二十二年を要してこの地に伽藍を建て、丈六釈迦仏像を安置し、三重塔を建立し、草壁皇子と発願者の大嶋などの冥福を祈った。

誓願した人、引き継いだ人、要した年数、建てたもの、祈った相手が、一つの銘文に収まっている。桜井市はこれを「建立年代、造営過程など寺の由緒がわかる貴重な文化財」と評する。

比売朝臣額田については、かつて天武天皇の妻であった万葉歌人の額田王であり、大嶋は額田王の晩年の夫ではなかったかという説もある。ただしこれは説であって確定していない。銘文に記されているのは比売朝臣額田という名である。

談山神社の宝物庫から出た

この伏鉢は、粟原寺跡から発掘されたものではない。

桜井市の記録は、江戸中期に談山妙楽寺(現在の談山神社)の宝物庫から発見されたと記す。寺跡ではなく、別の寺の宝物庫から出たという経緯である。

粟原寺は桜井市東部、竜門山塊の北麓にあった寺で、集落の南側にある天満宮の裏手のやや高い場所に跡が残る。塔跡などの礎石が残っているが、発掘調査は行われておらず、伽藍配置など詳細は不明である。

塔跡にある心礎は直径約61センチメートル、深さ15センチメートルで、すでに原位置を保っていない。一方、周囲の四天柱・側柱の礎石は原位置を保っている。塔の中心を示す石は動かされ、周囲の石は残ったという状態である。

寺跡は別に史跡である

粟原寺跡は国の史跡に指定されている。伏鉢の指定とは別の枠組みである。

遺物は国宝、寺跡は史跡という二つの指定が並んでいる。伏鉢は寺跡から出たものではないため、両者は出土関係で結びついているのではなく、銘文に記された寺と寺跡が同じであるという関係にある。

銘文から分かるのは、丈六釈迦仏像を安置したことと三重塔を建立したことである。丈六は仏像の高さの規格で、坐像の場合は約2.4メートルとなる。塔も仏像も現存しない。

指定番号00012という若い番号は、考古資料としての早い時期の指定であることを示す。重要文化財が明治35年(1902年)、国宝が昭和28年(1953年)である。

鑑賞

文化庁のデータベースは所在地欄と保管施設欄をいずれも空欄とする。公的記録から現在の保管場所が読み取れない物件である。

談山神社の宝物として伝えられてきた経緯があり、奈良国立博物館の展覧会に出陳された記録もある。実物を見たい場合は、談山神社または奈良国立博物館の案内で公開予定を確認したい。

粟原寺跡は桜井市粟原にある。礎石が残るのみで建物はないが、心礎と四天柱・側柱の礎石を見ることができる。遺物と寺跡は別の場所にある。

粟原寺跡へは、近鉄大阪線の桜井駅から車を利用することになる。

Q&A

Q大和国粟原寺三重塔伏鉢とは何ですか。
A塔の屋根の上に立つ相輪の一部で、露盤の上に置かれる椀を伏せた形の部材です。指定の対象は三重塔ではなく、この伏鉢です。粟原寺の三重塔そのものは失われており、現存するのは伏鉢だけです。
Qいつ国宝に指定されましたか。
A1953年(昭和28年)3月31日です。それに先立つ1902年(明治35年)4月17日に重要文化財となっています。員数は1箇、種別は考古資料、指定番号は00012。ト書は「和銅八年四月在銘」で、和銅8年は715年にあたります。
Q銘文には何が書かれていますか。
A桜井市によれば、中臣朝臣大嶋が草壁皇子をしのび創立を誓願したが果たさず没し、比売朝臣額田が二十二年を要して伽藍を建て、丈六釈迦仏像を安置し三重塔を建立して、草壁皇子と大嶋などの冥福を祈ったと刻まれています。誓願した人、引き継いだ人、要した年数が一つの銘文に収まっています。
Qどこから出たのですか。
A粟原寺跡から発掘されたものではありません。桜井市の記録は、江戸中期に談山妙楽寺(現在の談山神社)の宝物庫から発見されたと記します。寺跡ではなく別の寺の宝物庫から出たという経緯です。
Q伏鉢と寺跡は見られますか。
A文化庁のデータベースは所在地欄と保管施設欄をいずれも空欄としており、公的記録から現在の保管場所が読み取れません。実物は談山神社または奈良国立博物館の案内で公開予定を確認してください。粟原寺跡は桜井市粟原にあり、礎石が残っています。

基本情報

名称大和国粟原寺三重塔伏鉢(やまとのくにおうばらでらさんじゅうのとうふせばち)
所在地奈良県(文化庁データベースの所在地欄は空欄)/寺跡は桜井市粟原
指定区分国宝(考古資料)/指定番号00012/粟原寺跡は別に国の史跡
指定年1902年(明治35年)4月17日 重要文化財/1953年(昭和28年)3月31日 国宝
員数1箇
寸法青銅製の伏鉢。三重塔の相輪の一部で、露盤の上に置かれる椀を伏せた形の部材。ト書は和銅八年四月在銘で、715年にあたる
所有者文化庁データベースの所有者名欄は空欄
公開状況常設の公開はない。談山神社または奈良国立博物館の案内で公開予定を確認

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース 大和国粟原寺三重塔伏鉢
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/844
桜井市観光協会 粟原寺跡(国史跡)
https://sakuraikanko.com/remains/
談山神社 公式サイト
https://www.tanzan.or.jp/
奈良国立博物館 公式サイト
https://www.narahaku.go.jp/

最終更新日: 2026.09.04