国宝「五部心観」— 密教美術の最高峰
滋賀県大津市の三井寺(園城寺)には、日本が誇る密教美術の至宝「紙本墨画五部心観(しほんぼくがごぶしんかん)」が守り伝えられています。唐時代の中国で制作されたこの巻物は、金剛界曼荼羅の諸尊を墨線のみで描いた白描図像であり、現存する世界最古級の密教絵画として極めて高い価値を持っています。9世紀に智証大師円珍によって請来されたこの至宝は、日本仏教の発展に計り知れない影響を与えてきました。
五部心観とは何か
五部心観とは、金剛界曼荼羅を構成する五部(仏部・金剛部・宝部・蓮華部・羯磨部)の諸尊を図示した密教の観法書です。「五部」とは金剛界曼荼羅の中心的な五つの仏様のグループを指し、「心観」とは心に観じて修行するための教えを意味します。
本作品は「白描(はくびょう)」と呼ばれる技法で描かれており、墨線のみで仏尊の姿を表現しています。画面は上中下の三段に分かれ、上段には諸尊の像容(姿形)、中段には梵字で尊名と真言、下段には三昧耶形(シンボル)・羯磨印・手印が描かれています。この構成により、修行者は巻物を繰りながら諸尊の修法を視覚的に体得することができました。
描かれた仏尊の姿は、インド由来の豊満で官能的な肉身を持ち、流麗で格調ある描線によって表現されています。これは盛唐期の密教図像の特色を今に伝えるものであり、美術史的に見ても極めて貴重な作品です。
智証大師円珍と五部心観の請来
五部心観を日本にもたらしたのは、天台宗の高僧・円珍(814-891)です。円珍は讃岐国(現在の香川県)に生まれ、弘法大師空海の甥(または姪の子)にあたる人物でした。15歳で比叡山に登り、12年間の籠山修行を経た後、仁寿3年(853年)に唐へと渡りました。
唐での5年間、円珍は天台山、長安、洛陽など中国各地の名刹を巡礼し、天台教学と密教を深く学びました。とりわけ長安の青龍寺では、師である法全和尚から密教の大法を授かりました。五部心観は大中9年(855年)、法全和尚が所持していた秘蔵本を特別に授与されたものです。巻末には「この法は善無畏三蔵より伝わるものである」との記述があり、インドから中国へと伝わった正統な密教の系譜を示しています。
天安2年(858年)に帰国した円珍は、園城寺(三井寺)を天台別院として再興し、唐から持ち帰った経典・仏画類を納める唐院を建立しました。円珍が伝えた密教は、東密・台密の区別を超えて広く各宗派に浸透し、日本仏教に大きな影響を及ぼしています。
国宝に指定された理由
紙本墨画五部心観は、昭和28年(1953年)3月31日に国宝に指定されました。その価値は以下の点から認められています。
第一に、本作品は唐時代の原本であり、後世の模写ではないという点です。円珍自筆の奥書により請来の経緯が明確に記録されており、9世紀の中国における密教美術の実態を直接伝える稀少な遺品として高く評価されています。
第二に、描線の芸術的価値です。のびやかな張りのある描線は晩唐風の特色を示し、仏尊の威厳と美しさを見事に表現しています。彩色を用いない白描でありながら、豊かな表現力を持つ本作品は、日本に伝わる唐代絵画の中でも最高水準のものと言えます。
第三に、密教史における重要性です。五部心観は善無畏三蔵の系統に属するもので、金剛智・不空系の密教(真言宗が継承)とは異なる天台宗請来の密教を伝えます。これは『金剛頂経』の研究において極めて重要な資料であり、日本密教の源流を探る上で欠かせない存在です。
完本と前欠本
園城寺には五部心観が二巻伝わっており、いずれも国宝に指定されています。
第一の巻は「完本(かんぽん)」と呼ばれ、円珍が唐から直接持ち帰った原本です。寸法は縦29.9cm、横1808.9cmに及ぶ長大な巻物で、唐時代9世紀の作品です。円珍自筆の奥書が残されており、請来の経緯を今に伝えています。
第二の巻は「前欠本(ぜんけつぼん)」と呼ばれ、巻頭部分が欠損していることからこの名が付けられました。これは完本をもとに平安時代後期(11世紀頃)に写されたもので、寸法は縦29.6cm、横1171.6cmです。原本に忠実な転写であり、日本における密教伝承の実態を示す貴重な資料となっています。
近年の研究により、法明院に伝わる別の写本が江戸時代末期の作とされていたものの、実際には平安時代(西暦1000年前後)に制作された可能性があることが明らかになりました。藤原道長とその姉・詮子が、道長の娘・彰子の入内に際し皇子誕生を祈願して作らせたとの見方も示されており、今後の研究が期待されています。
三井寺(園城寺)について
五部心観を所蔵する三井寺は、天台寺門宗の総本山として1300年以上の歴史を誇る名刹です。正式名称は「長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)」といい、境内に天智・天武・持統の三天皇の御産湯に用いられた霊泉(井戸)があることから「御井(みい)の寺」、転じて「三井寺」と呼ばれるようになりました。
国宝の金堂をはじめ、近江八景の一つ「三井の晩鐘」、西国三十三所第十四番札所の観音堂など、見どころは尽きません。国宝・重要文化財は100点を超え、桜の名所としても知られています。広大な境内を巡れば、日本仏教の歴史と文化を肌で感じることができるでしょう。
五部心観は文化財収蔵庫に保管されており、秘仏として通常は公開されていません。しかし、特別展示や博物館への貸し出しなど、拝観の機会が設けられることもあります。最新の公開情報は三井寺の公式ウェブサイトをご確認ください。
周辺情報と観光
三井寺周辺は、琵琶湖の景観と歴史的遺産に恵まれた魅力的なエリアです。三井寺の高台からは日本最大の湖・琵琶湖を一望でき、特に夕暮れ時の景色は格別です。
京阪電車石山坂本線沿線には、同じく世界遺産候補の延暦寺への参詣ルートである坂本地区、紫式部ゆかりの石山寺など、見どころが点在しています。また、大津市街では近江牛や琵琶湖産の鮒寿司、湖魚料理など、地元の食文化も楽しめます。
三井寺境内にある「三井寺辨慶力餅」では、参拝の合間に名物の力餅でひと休みすることもできます。広い境内を歩き回った後の甘味は格別です。
Q&A
- 五部心観は常時拝観できますか?
- 五部心観は秘仏(秘蔵の宝物)として通常は非公開となっています。特別展示や博物館への貸し出しの際に拝観できる場合があります。公開情報は三井寺公式ウェブサイトや、京都国立博物館などの展覧会情報をご確認ください。
- 五部心観の「五部」とは何を指しますか?
- 「五部」とは金剛界曼荼羅を構成する五つの仏様のグループを指します。具体的には、仏部(如来部)・金剛部(金剛薩埵を中心とするグループ)・宝部(宝生如来のグループ)・蓮華部(阿弥陀如来のグループ)・羯磨部(不空成就如来のグループ)の五つです。
- 智証大師円珍とはどのような人物ですか?
- 円珍(814-891)は平安時代前期の天台宗の高僧で、弘法大師空海の甥にあたります。唐に渡り密教を学んだ入唐八家の一人であり、帰国後は園城寺を再興して天台別院としました。第五代天台座主を務め、延長5年(927年)に「智証大師」の諡号を贈られています。2023年には「智証大師円珍関係文書典籍」がユネスコ「世界の記憶」に登録されました。
- 三井寺の拝観にはどのくらい時間がかかりますか?
- 主要な堂宇と境内を巡るには1時間半から2時間程度を見込んでください。文化財収蔵庫の見学や展望台からの眺望を楽しむ場合は、さらに時間に余裕を持つことをおすすめします。境内は広く階段も多いため、歩きやすい靴でお越しください。
- 外国語対応はありますか?
- 三井寺では多言語対応のウェブサイト(英語、中国語簡体字・繁体字、韓国語、フランス語、タイ語、スペイン語、イタリア語、ドイツ語、インドネシア語)が用意されています。境内の案内板にも英語表記があります。音声ガイドについては、訪問前に公式サイトでご確認ください。
基本情報
| 正式名称 | 紙本墨画五部心観(巻初を欠く) |
|---|---|
| 指定区分 | 国宝(昭和28年3月31日指定) |
| 分類 | 絵画(密教図像) |
| 時代 | 完本:唐時代(9世紀)/前欠本:平安時代(11世紀) |
| 法量 | 完本:29.9×1808.9cm / 前欠本:29.6×1171.6cm |
| 所有者 | 園城寺(三井寺) |
| 所在地 | 〒520-0036 滋賀県大津市園城寺町246 |
| 拝観時間 | 9:00~16:30(受付終了16:00)年中無休 |
| 拝観料 | 大人600円 / 中高生300円 / 小学生200円 |
| アクセス | 京阪石山坂本線「三井寺駅」より徒歩約10分 / JR「大津駅」「大津京駅」より京阪バス「三井寺」下車すぐ / 名神高速道路大津ICより車約10分 |
| 駐車場 | あり(大型バス30台、乗用車350台)有料 |
| お問い合わせ | TEL: 077-522-2238 |
| 公式サイト | https://miidera1200.jp/ |
参考文献
- 国指定文化財等データベース - 紙本墨画五部心観(巻初を欠く)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/76
- 文化遺産オンライン - 紙本墨画五部心観(巻初を欠く)
- https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/125274
- 五部心観 | 智証大師円珍 関係文書典籍
- https://miidera-museum.jp/unesco/contents/gobushinkan/
- 五部心観(ごぶしんかん)- コトバンク
- https://kotobank.jp/word/五部心観-65909
- 智証大師円珍関係文書典籍 – 日本・中国の文化交流史 – 三井寺
- https://miidera1200.jp/unesco/
- 参拝案内 | 三井寺(園城寺)
- https://miidera1200.jp/information
- 円珍 - Wikipedia
- https://ja.wikipedia.org/wiki/円珍
- 三井寺(園城寺) | 滋賀県観光情報
- https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/92/
最終更新日: 2026.01.02