比叡山麓に佇む、知られざる桃山の宮殿
琵琶湖西岸、比叡山の麓に広がる坂本の町。延暦寺の門前町として栄えたこの地に、四百年以上の時を超えて桃山時代の華やぎを今に伝える建築が静かに佇んでいます。「桃山御殿」の異名を持つ盛安寺客殿は、かつて天下人たちが愛でた美の結晶です。
京都の有名寺院のような喧騒とは無縁のこの場所で、長谷川派の絵師たちが描いた極彩色の花鳥図、伝説の石工集団・穴太衆が積み上げた石垣、そして聖衆来迎を表現した枯山水庭園に出会うことができます。知る人ぞ知る、本物の日本美に触れる旅がここにあります。
寺名に刻まれた一人の武将の物語
盛安寺の創建は古く、寺伝によれば古代の高穴穂宮(たかあなほのみや)の跡地に建立されたと伝えられています。その後、時代の波に翻弄され荒廃した寺を甦らせたのが、越前国(現在の福井県)の戦国大名・朝倉氏の家臣であった杉若盛安でした。
文明18年(1486年)、この地の霊験に感銘を受けた盛安は寺の再興に尽力し、やがて自らも出家してこの寺に入りました。寺の名「盛安寺」は、まさにこの杉若盛安の名を後世に留めたものなのです。
その後、盛安寺は戦国時代から安土桃山時代にかけて、明智光秀や豊臣秀吉といった天下の覇者たちの庇護を受けました。寺には光秀から賜ったと伝わる陣太鼓が今も大切に保管されており、激動の時代を生き抜いた寺の歴史を物語っています。
重要文化財に指定された理由
盛安寺客殿が国の重要文化財に指定されたのは、その建築的・美術的価値が極めて高いと認められたためです。指定の根拠となった主な要素をご紹介します。
建築様式の価値
客殿は17世紀前半の建築と推定され、南面が入母屋造、北面が切妻造という独特の二重構造の屋根を持ち、桟瓦葺で仕上げられています。この建築様式は、周辺に位置する西教寺客殿や聖衆来迎寺客殿との比較研究においても重要な位置を占めており、近江地方における寺院客殿建築の発展を知る上で貴重な存在です。
伏見城との繋がり
言い伝えによれば、この客殿は豊臣秀吉が築いた伏見城の廃材を用いて建てられたとされています。天下人の居城の一部が、この地で新たな命を与えられ、「桃山御殿」として生き続けているのです。この伝承は、建物が持つ歴史的重層性を際立たせています。
長谷川派の障壁画
客殿最大の見どころは、上段の間と次の間を飾る極彩色の障壁画です。これらは日本絵画史に名を刻む長谷川派の作と伝えられ、華麗な花鳥図が桃山文化の粋を今に伝えています。襖絵や腰高障子に描かれた鮮やかな色彩は、四百年の時を経てなお見る者を魅了します。障壁画の制作年代は、客殿の建築時期を推定する重要な手がかりとなっています。
見どころと魅力
穴太衆積みの石垣
境内に足を踏み入れる前から、訪れる者を圧倒するのが見事な石垣です。これは、この地を故郷とする伝説の石工集団「穴太衆(あのうしゅう)」の手によるものです。
穴太衆は、古墳時代に渡来した石工の末裔とされ、比叡山延暦寺の石垣造りを代々担ってきました。元亀2年(1571年)、織田信長による比叡山焼き討ちの際、いくら壊そうとしても崩れない石垣の堅牢さに驚いた信長は、安土城築城に穴太衆を召し抱えました。以後、彼らは全国の名城の石垣造りに携わり、その技術は「穴太衆積み」として今日まで伝えられています。
盛安寺の石垣は、加工せずに自然石をそのまま巧みに組み上げる「野面積み」の技法で築かれており、まるで城郭のような威容を誇ります。石工たちの故郷に残るこの石垣は、彼らの技の原点ともいえる存在です。
聖衆来迎を表現した名勝庭園
客殿に面して広がるのは、滋賀県指定名勝の枯山水庭園です。江戸時代初期に作庭されたこの庭は、阿弥陀如来と聖なる菩薩たちが浄土から迎えに来る「聖衆来迎図」の世界を表現したものとされています。
客殿の広い縁先からは、一面に広がる杉苔の絨毯の向こうに、椿や樫の生垣で囲まれた築山が見えます。大小さまざまな石組みが自由に配され、築山の右手には枯滝を表現した石組みが見られます。縁先中央には豪華な沓脱台が設けられ、門まで続く飛石が変化を与えています。苔、築山、石組みのバランスが絶妙で、静かに座して眺めるだけで心が洗われる思いがします。
井上靖の小説に登場した十一面観音
観音堂(収蔵庫)には、平安時代作の木造十一面観音立像が安置されています。この仏像は重要文化財に指定されており、ノーベル文学賞候補にもなった作家・井上靖の小説『星と祭』に登場したことで広く知られるようになりました。四臂(四本の腕)を持つ珍しい作例で、穏やかな表情で参拝者を迎えてくださいます。
十一面観音像の拝観は、5月・6月・10月の毎週土曜日、ゴールデンウィーク、正月三が日に限られていますので、ご訪問の際はご注意ください。
周辺情報
盛安寺は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている坂本の町並みの中に位置しています。界隈には穴太衆積みの石垣が連なり、歴史情緒あふれる散策が楽しめます。
日吉大社
盛安寺から徒歩約15分。全国に約3,800社ある日吉・日枝・山王神社の総本宮です。約2,100年前の創建と伝えられ、比叡山延暦寺の鎮守社として発展しました。境内には国宝の東西本宮をはじめ多くの重要文化財が残り、約3,000本の紅葉が彩る秋は特に見事です。神の使いである神猿(まさる)は「魔が去る」「勝る」に通じ、縁起物として親しまれています。
西教寺
盛安寺が属する天台真盛宗の総本山。境内には明智光秀一族の墓所があり、光秀ゆかりの寺として知られています。こちらの客殿も伏見城の遺材で建てられたと伝えられ、狩野派の障壁画が見どころです。
比叡山延暦寺
坂本からケーブルカーで気軽にアクセスできる、天台宗の総本山。最澄が開いた日本仏教の母山であり、ユネスコ世界文化遺産に登録されています。東塔・西塔・横川の三塔十六谷に広がる境内は、一日かけても回りきれないほどの広さです。
旧竹林院
延暦寺の僧侶の隠居所であった里坊のひとつ。主屋の座卓に庭園の景色が映り込む「リフレクション」で有名になり、多くの写真愛好家が訪れます。四季折々に表情を変える美しい庭園は必見です。
本家鶴喜そば
坂本観光の際にはぜひ立ち寄りたい、創業約300年を誇る老舗のそば処。比叡山延暦寺の御用達として名を馳せ、現在も伝統の味を守り続けています。
Q&A
- 拝観に予約は必要ですか?
- 通常の拝観時間内であれば、予約なしで境内や客殿を見学できます。ただし、重要文化財の十一面観音立像の拝観は、5月・6月・10月の毎週土曜日、ゴールデンウィーク、正月三が日のみとなっています。団体での拝観や特別な解説をご希望の場合は、事前にお寺にご連絡ください。
- 外国語の案内はありますか?
- 大津市が設置した多言語看板により、英語・中国語・韓国語での解説が用意されています。また、大津市のウェブサイトから各言語のPDFガイドをダウンロードできますので、事前に準備されることをおすすめします。
- 見学にはどのくらい時間がかかりますか?
- 客殿、庭園、観音堂(公開時)をじっくり見学する場合、30分から45分程度が目安です。日吉大社や西教寺など周辺の名所と合わせて巡る場合は、半日程度のコースとしてお楽しみいただけます。
- おすすめの季節はいつですか?
- 四季それぞれに魅力があります。春は周辺の桜、梅雨時は苔庭の緑が美しく、秋は坂本一帯が紅葉で彩られます。十一面観音像の特別公開がある5月・6月・10月は、仏像ファンには特におすすめの時期です。冬の雪景色も風情があります。
- 客殿内部の写真撮影はできますか?
- 撮影の可否については、当日お寺でご確認ください。一般的に、庭園や外観は撮影可能なことが多いですが、障壁画などの文化財保護の観点から、内部の撮影は制限される場合があります。フラッシュ撮影は文化財を傷める原因となりますのでお控えください。
基本情報
| 正式名称 | 瑞應山 盛安寺 客殿(ずいおうざん せいあんじ きゃくでん) |
|---|---|
| 文化財指定 | 国指定重要文化財(建造物) |
| 建築年代 | 17世紀前半(桃山時代後期〜江戸時代初期) |
| 建築様式 | 南面:入母屋造/北面:切妻造/桟瓦葺 |
| 宗派 | 天台真盛宗(西教寺末寺) |
| 本尊 | 阿弥陀如来 |
| 所在地 | 〒520-0113 滋賀県大津市坂本1丁目17-1 |
| 交通(電車) | 京阪電鉄石山坂本線「穴太駅」下車、徒歩約5分 |
| 交通(車) | 湖西道路 下阪本ICより約10分 |
| 駐車場 | 普通車約7台 |
| 拝観料 | 300円(10名以上の団体は270円) |
| 拝観時間 | 通年(十一面観音像の拝観は5月・6月・10月の毎土曜日、GW、正月三が日のみ) |
| お問い合わせ | TEL:077-578-2002 |
| その他文化財 | 木造十一面観音立像(重要文化財)、本堂(大津市指定有形文化財)、庭園(滋賀県指定名勝) |
参考文献
- 盛安寺 客殿 - 大津市公式ウェブサイト(多言語看板データ)
- https://www.city.otsu.lg.jp/bz/a/03/15/60674.html
- 盛安寺 - 滋賀県観光情報公式サイト(びわこビジターズビューロー)
- https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/436/
- 盛安寺 - 大津市歴史博物館 歴史事典
- https://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/db/jiten/data/048.html
- 盛安寺 - Wikipedia
- https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%9B%E5%AE%89%E5%AF%BA
- 穴太衆積み石垣 - 大津市歴史博物館 歴史事典
- https://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/db/jiten/data/050.html
- 穴太衆 - Wikipedia
- https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%B4%E5%A4%AA%E8%A1%86
- 日吉大社 - Wikipedia
- https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%90%89%E5%A4%A7%E7%A4%BE
最終更新日: 2026.01.27
近隣の国宝・重要文化財
- 穴太廃寺跡
- 大津市穴太
- 日吉大社末社東照宮
- 滋賀県大津市坂本本町
- 日吉大社末社東照宮
- 滋賀県大津市坂本本町
- 日吉大社末社東照宮
- 滋賀県大津市坂本本町
- 延暦寺
- 滋賀県大津市坂本本町、同坂本四丁目
- 比叡山鉄道ケーブル坂本駅舎
- 滋賀県大津市坂本本町4244
- 大津市坂本
- 滋賀県大津市
- 延暦寺坂本里坊庭園/雙厳院庭園/宝積院庭園/滋賀院門跡庭園/佛乗院庭園/旧白毫院庭園/旧竹林院庭園/蓮華院庭園/律院庭園/実蔵坊庭園/寿量院庭園
- 大津市
- 本家鶴喜そば主屋
- 滋賀県大津市坂本4-11-40
- 日吉大社日吉三橋
- 滋賀県大津市坂本本町