蒼柴垣神事:神話の世界が現代に蘇る神秘の祭礼
島根半島の東端に位置する静かな港町・美保関。毎年4月7日、この地で日本でも類を見ない神秘的な神事が執り行われます。蒼柴垣神事(あおふしがきしんじ)は、古事記に記された国譲り神話を現代に伝える、生きた神話の儀礼です。
えびす様として親しまれる事代主神(ことしろぬしのかみ)が、国譲りの後に青い柴垣を作り海中に身を隠したという故事。この神話を儀礼化した蒼柴垣神事では、氏子から選ばれた當屋(とうや)が神がかりの状態となり、柴垣で飾られた御船に乗って港内を巡幸します。千年以上の時を超えて受け継がれてきたこの神事は、日本の精神文化の深淵を垣間見ることができる、貴重な無形民俗文化財です。
国譲り神話:蒼柴垣神事の起源
蒼柴垣神事の起源は、日本最古の歴史書『古事記』(712年)に記された「国譲り神話」にあります。この神話では、高天原の天照大神から派遣された使者・建御雷神(たけみかづちのかみ)らが、出雲の国を治める大国主神(おおくにぬしのかみ)のもとを訪れ、国土の譲渡を求めます。
大国主神は、美保の岬で魚釣りをしていた息子の事代主神に相談しました。事代主神は国譲りに同意し、「天の逆手」(あまのさかて)という神秘的な動作を行うと、乗っていた船を青い柴垣の神域に変化させ、その中に身を隠されたと伝えられています。古語で「隠れる」ことは「死ぬ」ことを意味し、この出来事は神の死と再生を象徴するものと解釈されています。
蒼柴垣神事は、この神話的出来事を毎年儀礼として再現することで、神霊を新たにし、氏子の地域に豊穣と繁栄をもたらすと考えられてきました。
無形民俗文化財としての価値
蒼柴垣神事は1973年(昭和48年)11月5日、「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」として国から選択されました。この指定は、神事が持つ文化的・学術的価値の高さを示すものです。
第一に、古事記の具体的な神話内容と直接結びついた祭祀が、現代まで継承されている点が極めて貴重です。第二に、當屋による一年間にわたる精進潔斎、御船の海上渡御、當屋定め、祝舞、當為知の相撲など、多様な古習俗と故実が複合的に含まれています。
特筆すべきは「神がかり」の実践です。當屋は断食と暗室での隔離によってトランス状態に入り、神事の間、神の依り代となります。このような古代的な宗教実践が現代まで維持されている例は、全国的にも稀有なものです。
神事の流れ:十日間に及ぶ聖なる儀礼
蒼柴垣神事は、4月7日の本祭当日だけでなく、3月31日から約十日間にわたって様々な儀式が執り行われます。
神事の中心となる「當屋」は、特定の家筋から籤(くじ)によって選ばれた夫婦です。一ノ當・二ノ當の2組の當屋は、選定後一年間にわたり厳格な精進潔斎を行います。毎夜、子の刻(真夜中)に海に入って心身を清める「潮掻」(しおかき)を欠かさず、鶏肉・鶏卵を食べない、夫婦別床で過ごすなど、数多くのしきたりを守りながら神事に備えます。万が一、日参中に他人と出会えば「穢れた」として最初からやり直さなければなりません。
3月31日夜、「明日はお祭りはじめでござーる、トーメー」のお触れが港内に響き渡り、神事が始まります。4月1日から6日にかけて様々な準備と儀式が進められ、4月6日には2隻の御船が用意されます。御船の四隅には黒木の柱と榊が立てられ、周囲には神紋入りの幕と注連縄が張られます。
4月7日の本祭当日、斎館に籠り断食と瞑想によって神がかりの状態に入った當屋は、白装束に黒頭巾の男性と、赤い衣に顔を覆った女性として御船に乗り込みます。大漁旗をはためかせた漁船に囲まれながら港内を一周した後、美保神社拝殿に昇殿し、最も重要な儀式「奉幣」(ほうへい)を行います。これは神がかり状態の當屋が御幣を左右に奉じることで、大神さまの神霊が新たになる瞬間です。
美保神社:全国えびす社の総本宮
蒼柴垣神事が執り行われる美保神社は、全国に3,000社以上あるえびす神社の総本宮として知られています。御祭神は事代主神(えびす様)と三穂津姫命(みほつひめのみこと)の二柱。出雲国風土記にも「美保社」として記される古社で、海上安全・大漁満足・商売繁盛の神として篤い信仰を集めています。
本殿は「美保造」または「比翼大社造」と呼ばれる独特の建築様式で、2棟の大社造りの社殿を装束の間でつなぎ、あたかも2羽の鳥が翼を並べて立つような姿をしています。現在の本殿は文化10年(1813年)の再建ですが、国の重要文化財に指定されています。
また、えびす様が鳴り物好きとされることから、音楽の神としても親しまれ、日本最古のオルゴールや大太鼓など約800点の貴重な楽器が奉納されています。優れた音響効果を持つ拝殿では、奉納演奏も行われます。
出雲大社の大国主神(大黒様)と美保神社のえびす様を合わせてお参りする「えびすだいこく両参り」は、より良いご縁に恵まれるとして人気の参拝方法です。
美保関:時が止まった港町を歩く
美保神社が鎮座する美保関は、かつて北前船の寄港地として栄えた歴史ある港町です。江戸時代には50軒もの廻船問屋が軒を連ね、大坂と日本海沿岸を結ぶ海運の要衝として繁栄しました。
美保神社から仏谷寺へと続く「青石畳通り」は、江戸時代から敷かれた石畳の小路です。雨に濡れると青く光ることからこの名が付けられました。島根県の景観大賞にも選ばれたこの通りには、格子窓やレトロなガラス戸を持つ古い建物が並び、タイムスリップしたような懐かしい風情を楽しめます。
明治時代の日本を旅した作家ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)も美保関を訪れ、その著書『知られぬ日本の面影』の中で、夜ごとに芸者の三味線や太鼓の音が響き渡る賑やかな港町の様子を生き生きと描写しています。
周辺の見どころ
島根半島の東端には、美保神社以外にも訪れる価値のある名所が点在しています。
美保関灯台は、明治31年(1898年)に建設された山陰地方最古の石造灯台です。「世界の歴史的灯台100選」に選ばれ、2022年には国の重要文化財にも指定されました。水面からの高さ83メートルの断崖に立ち、晴れた日には隠岐の島まで見渡せる絶景が広がります。隣接する旧宿舎を改装したカフェでは、日本海を眺めながら食事を楽しむことができます。
仏谷寺は聖徳太子が建立したと伝えられる古刹で、山陰最古とされる重要文化財の仏像5体を安置しています。後鳥羽上皇・後醍醐天皇が隠岐へ向かわれる際に滞在された歴史ある寺院です。
関の五本松公園では、4月下旬から5月上旬にかけて約5,000本のツツジが咲き乱れ、美保湾を一望できる展望台からの眺めは格別です。
境港市へ足を延ばせば、漫画家・水木しげる氏の故郷として知られる水木しげるロードがあり、妖怪ブロンズ像が並ぶ商店街や水木しげる記念館を楽しめます。
訪問のご案内
美保神社と美保関の町並みは年間を通じて訪問できますが、蒼柴垣神事を見学されたい方は4月7日に合わせてお越しください。御船の海上渡御は港周辺の公開エリアから見学することができます。
神事は現役の宗教行事であり、観光パフォーマンスではないことをご理解いただき、敬意を持って見学をお願いいたします。儀式の一部では撮影が制限される場合があり、静粛な観覧が求められます。
古代神話の息吹を今に伝える神秘の神事、風情ある港町の町並み、そして日本海の絶景。美保関は、観光地化されていない本当の日本を体験したい旅行者にとって、かけがえのない目的地となることでしょう。
Q&A
- 蒼柴垣神事はいつ開催されますか?
- 本祭は毎年4月7日に執り行われます。ただし、関連する儀式は3月31日から始まり、4月8日の後宴祭まで約十日間にわたって続きます。御船の海上渡御は4月7日の午前中に行われます。
- 観光客も蒼柴垣神事を見学できますか?
- はい、御船の海上渡御など、港周辺で行われる神事は公開エリアから見学できます。ただし、拝殿内での儀式など、一部は見学が制限される場合があります。神事への敬意を持ち、神社関係者の指示に従ってご見学ください。
- 美保神社へのアクセス方法を教えてください。
- JR松江駅から一畑バス「美保関ターミナル(万原)」行きで約45分、万原バスターミナルで美保関コミュニティバスに乗り換え「美保関」下車(約30分)。JR境港駅からは、コミュニティバスで宇井渡船場乗り換え、約25分です。車の場合は、松江市内から国道431号線・県道2号線経由で約40分です。
- 美保神社の拝観料はかかりますか?
- 美保神社の参拝は無料です。境内の見学や参拝に拝観料は必要ありません。特別な祈祷や授与品については別途初穂料が必要となります。
- 美保神社の他の祭事について教えてください。
- 毎年12月3日には「諸手船神事」が執り行われます。これは国譲り神話のもう一つの場面、天津神の使者が美保の地を訪れる様子を再現した神事です。また、毎月7日はえびす様のご縁日「七日えびす祭」が行われ、この日限定の「金色の鯛守」(数量限定)が人気です。
基本情報
| 名称 | 蒼柴垣神事(あおふしがきしんじ)/青柴垣神事 |
|---|---|
| 開催地 | 美保神社(島根県松江市美保関町美保関608) |
| 開催日 | 毎年4月7日(関連儀式は3月31日~4月8日) |
| 文化財指定 | 記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財(1973年11月5日選択) |
| 美保神社について | 全国3,000社以上のえびす神社の総本宮。本殿は国指定重要文化財(美保造/比翼大社造) |
| 御祭神 | 事代主神(ことしろぬしのかみ/えびす様)、三穂津姫命(みほつひめのみこと) |
| アクセス | JR松江駅からバスで約75分/松江市内から車で約40分(国道431号線・県道2号線経由) |
| 関連神事 | 諸手船神事(毎年12月3日) |
| 問い合わせ | 美保神社 TEL: 0852-73-0506 |
参考文献
- 蒼柴垣神事 - 文化遺産オンライン
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/200136
- 青柴垣神事 | 特殊神事 | 美保神社公式サイト
- http://mihojinja.or.jp/sinji/02.php
- 美保神社の蒼柴垣神事 - 文化庁広報誌「ぶんかる」
- https://www.bunka.go.jp/prmagazine/rensai/matsuri/matsuri_027.html
- 青柴垣神事 | しまね観光ナビ|島根県公式観光情報サイト
- https://www.kankou-shimane.com/destination/21556
- 美保神社 | しまね観光ナビ|島根県公式観光情報サイト
- https://www.kankou-shimane.com/destination/20254
- 氏子の祭祀組織 | 特殊神事 | 美保神社
- http://mihojinja.or.jp/sinji/04.php
- 美保神社神事保存会 | 松江市ホームページ
- https://www.city.matsue.lg.jp/soshikikarasagasu/bunkasportsbu_bunkashinkoka/bunkaryoku/2/traditionalculturecouncil/17864.html
- 周辺観光情報 | 美保神社
- http://mihojinja.or.jp/kanko/
- アクセス | 美保関公式観光ガイド
- https://www.mihonoseki-kankou.jp/access/
- 美保神社 – 國學院大學 古典文化学事業
- https://kojiki.kokugakuin.ac.jp/jinjya/mihojinja/