はじめに:歴史に名を刻んだ武人の墓の発見
天保2年(1831年)、大和国宇陀郡八滝村(現在の奈良県宇陀市榛原区八滝)で、一人の農民が耕作中に地中から不思議な品々を発見しました。それは、約1,100年の時を経て姿を現した一人の武人の墓でした。その武人の名は文祢麻呂(ふみのねまろ)。672年に起こった壬申の乱で大海人皇子(後の天武天皇)に従い、勝利に貢献した功臣です。
文祢麻呂墓出土品は、現在国宝に指定され、東京国立博物館に収蔵されています。墓誌、緑瑠璃壺、金銅壺からなるこの出土品は、古代日本における仏教式火葬の受容、渡来系氏族の活躍、そして律令国家形成期の葬送文化を今に伝える第一級の歴史資料です。日本最古の年代が明確な火葬墓の墓誌として、考古学・歴史学において計り知れない価値を持っています。
文祢麻呂とは何者か:渡来系武人の生涯
文祢麻呂は、西文氏(かわちのふみうじ)という渡来系氏族の出身です。西文氏は、応神天皇の時代に百済から渡来したとされる王仁(わに)を始祖とし、河内国古市郡(現在の大阪府羽曳野市周辺)を本拠地としていました。「文」の名が示すように、本来は文筆をもって大和朝廷に仕えた氏族でしたが、祢麻呂は武人として頭角を現しました。
西文氏は大和国の東漢氏(やまとのあやうじ)と並ぶ有力な渡来系氏族であり、先進的な大陸文化の導入に大きく貢献しました。氏寺として西琳寺を建立するなど、仏教文化にも深く関わっていたことが知られています。
壬申の乱:日本古代史上最大の内乱
壬申の乱は、天武天皇元年(672年)に勃発した皇位継承をめぐる内乱です。天智天皇の崩御後、その息子である大友皇子と弟の大海人皇子との間で皇位をめぐる争いが起こりました。
天智天皇は当初、弟の大海人皇子を後継者に指名していましたが、後に大友皇子を太政大臣に任命して後継者とする姿勢を見せました。これを察した大海人皇子は吉野宮に退き、出家する意思を表明しました。しかし天智天皇の崩御後、大友皇子が即位すると、大海人皇子は挙兵を決意します。
文祢麻呂は、大海人皇子の舎人(とねり、側近の一人)として吉野から東国へ向かう一行に加わりました。美濃国に到着した大海人皇子は軍勢を二手に分け、近江国への侵攻軍と大和国への侵攻軍を編成しました。祢麻呂は村国男依(むらくにのおより)、和珥部君手(わにべのきみて)らとともに近江方面の将軍に任命されました。
祢麻呂率いる軍は、息長横河(おきながのよこかわ)、鳥籠山(とこのやま)、安河浜(やすのかわはま)と連戦連勝を重ね、ついには近江大津宮の近くの瀬田で大友皇子軍を破りました。大友皇子は自害し、壬申の乱は大海人皇子の勝利に終わりました。大海人皇子は天武天皇として即位し、日本の律令国家体制を大きく推進することになります。
墓の発見:江戸時代の大発見
天保2年(1831年)の発見の経緯は、代官所の調書によって詳細に記録されています。農民が耕作中に土中から銅製の箱を発見し、その中には文字を刻んだ銅板(墓誌)が納められていました。そのかたわらからは金銅製の壺が出土し、その中には火葬骨の灰が詰まった緑色のガラス製の壺(緑瑠璃壺)が入っていました。銅箱や金銅壺の周囲には、保存のために敷き詰められた多量の木炭がありました。
発見後、出土品は地元の龍泉寺に安置されました。昭和27年(1952年)、これらの品々は一括して国宝に指定され、現在は東京国立博物館が所蔵しています。
国宝の構成:三つの至宝
墓誌(ぼし)
鋳銅板の表面に刻まれた墓誌には、「壬申年将軍左衛士府督正四位上文祢麻呂忌寸慶雲四年歳次丁未九月廿一日卒」という銘文があります。これは「壬申の年(672年)の将軍で、左衛士府の長官、正四位上の位を持つ文祢麻呂忌寸は、慶雲4年(707年)丁未の年の9月21日に亡くなった」という意味です。
この墓誌は、火葬墓に伴う墓誌としては年代が明らかな日本最古の例です。日本でこれまでに発見された古代の墓誌はわずか16例しかなく、その中でも本例は初期の墓誌として極めて貴重な資料です。墓誌の長さは26.2センチメートルです。
緑瑠璃壺(みどりるりつぼ)
火葬骨を納めた緑色のガラス製の壺です。平底の身に、宝珠形のつまみを持つ蓋が付いています。8世紀の日本においてガラスは非常に貴重な素材であり、骨蔵器としてガラス製の壺が用いられることは極めて稀でした。
この緑瑠璃壺の使用は、文祢麻呂が壬申の乱の功労者として高い地位を与えられていたことを物語っています。このような贅沢な骨蔵器は、皇族や高位の貴族にのみ許されたものでした。
金銅壺(こんどうつぼ)
緑瑠璃壺の外容器として用いられた金銅製の壺です。低い高台(台座部分)を持つ身と、やはり宝珠形のつまみがついた蓋からなります。壺の内部には、緑瑠璃壺を包んでいた布の痕跡が残されていました。
遺灰をガラス容器に納め、容器を布で包んでから外容器に収納するという方法は、仏舎利(しゃくしゃのしゃり、釈迦の遺骨)の納置法に準じています。つまり、文祢麻呂の遺骨は、仏陀の聖遺物と同様の敬意をもって扱われたのです。
なぜ国宝に指定されたのか
文祢麻呂墓出土品が国宝に指定された理由は、複数の観点から説明できます。
第一に、考古学的価値です。火葬墓に伴う墓誌として年代が明確な最古の例であり、日本における火葬文化の受容と墓誌を納める大陸の風習の導入を示す貴重な証拠です。
第二に、歴史的価値です。『日本書紀』や『続日本紀』に名を残す実在の人物の墓から出土した品々であり、文献と考古資料を直接結びつけることができる稀有な例です。
第三に、工芸的価値です。緑瑠璃壺は8世紀の日本において最高級の素材と技術を用いて作られたものであり、金銅壺もまた優れた金工技術を示しています。
第四に、完全性です。墓誌、内容器、外容器という火葬墓の構成要素が揃って出土しており、当時の葬送文化を総合的に理解することができます。
仏教と火葬:古代日本の葬送文化の転換点
日本における火葬の習慣は、仏教の伝来とともに6世紀半ばに伝わったとされています。それ以前の日本では、古墳(土を盛り上げた墓)に遺体を埋葬する方法が一般的でした。火葬の導入は、死と身体に対する日本人の考え方に大きな変革をもたらしました。
文祢麻呂が火葬されたことは、渡来系氏族が先進的な仏教文化の受容において先駆的な役割を果たしていたことを示しています。西文氏のような渡来系氏族は、大陸の技術や宗教・思想を日本にもたらす媒介者としての役割を担っていました。
緑瑠璃壺を布で包み、金銅壺に納めるという方法は、仏舎利の奉安方法に倣ったものです。これは、文祢麻呂が仏教的な世界観の中で、聖者に準じる敬意をもって弔われたことを意味しています。壬申の乱の功臣にふさわしい、最高級の葬送儀礼だったと言えるでしょう。
東京国立博物館での鑑賞
文祢麻呂墓出土品は、東京国立博物館に収蔵されています。東京国立博物館は、日本最古かつ最大規模の博物館であり、約12万点の文化財を所蔵しています。そのうち国宝は89件、重要文化財は649件に上ります。
考古資料は通常、平成館の1階にある「日本の考古」展示室で展示されています。この展示室では、旧石器時代から江戸時代までの日本の考古学的遺産を見ることができ、文祢麻呂墓出土品を日本の歴史の流れの中で理解することができます。
ただし、国宝は保存のため常時展示されているわけではなく、展示替えや貸し出しにより見られない場合があります。確実に鑑賞したい場合は、事前に博物館のウェブサイトで展示情報を確認されることをお勧めします。
周辺情報
東京国立博物館は、上野恩賜公園内に位置しています。上野公園は、博物館や美術館が集中する日本有数の文化ゾーンです。
同じ公園内には、ル・コルビュジエ設計の国立西洋美術館(ユネスコ世界遺産)、国立科学博物館、上野の森美術館などがあります。また、不忍池とその蓮(夏季が見頃)、上野動物園(日本最古の動物園)、寛永寺、上野東照宮などの名所もあり、一日かけて楽しむことができます。春には桜の名所としても知られています。
文祢麻呂の墓が発見された奈良県宇陀市榛原区八滝は、古代大和の歴史が息づく地域です。現在、墓の遺構は残っていませんが、周辺には室生寺や大野寺など、古代から続く寺院があり、奈良の山里の風景を楽しむことができます。
Q&A
- 文祢麻呂墓出土品の墓誌が歴史的に重要な理由は何ですか?
- この墓誌は、火葬墓に伴う墓誌として年代が明らかな日本最古の例です。日本で発見された古代の墓誌はわずか16例しかなく、その中でも初期のものとして極めて貴重です。「慶雲4年」(707年)という明確な年代が刻まれているため、考古学的年代決定の基準となる重要な資料となっています。
- なぜガラス製の骨壺が使われたのですか?
- 8世紀の日本において、ガラス(瑠璃)は非常に貴重な素材でした。骨蔵器としてガラス製の壺を使用することは極めて稀であり、壬申の乱の功臣として高い位を授けられた文祢麻呂の特別な地位を示しています。このような贅沢な副葬品は、皇族や最高位の貴族にのみ許されたものでした。
- 奈良県の元の墓所を訪問することはできますか?
- 文祢麻呂の墓は現在の奈良県宇陀市榛原区八滝にありましたが、1831年の発見後に埋め戻され、現在は目に見える遺構は残っていません。出土品はすべて東京国立博物館に収蔵されています。ただし、宇陀市周辺は歴史的な寺社や美しい山里の風景が楽しめる地域です。
- 西文氏(かわちのふみうじ)とはどのような氏族ですか?
- 西文氏は、百済から渡来した王仁(わに)を始祖とする渡来系氏族です。河内国古市郡(現在の大阪府羽曳野市付近)を本拠地とし、主に文筆をもって大和朝廷に仕えました。大和国の東漢氏に対して「西文氏」と称し、大陸文化の導入に貢献した有力な渡来系氏族でした。
- この出土品は常に東京国立博物館で見られますか?
- 国宝は保存のため、常時展示されているわけではありません。展示替えや他館への貸し出しにより見られない場合があります。確実に鑑賞したい場合は、東京国立博物館のウェブサイトや電話で事前に展示状況を確認されることをお勧めします。
基本情報
| 指定区分 | 国宝(昭和27年/1952年指定) |
|---|---|
| 指定名称 | 文祢麻呂墓出土品(ふみのねまろぼしゅつどひん) |
| 時代 | 奈良時代・慶雲4年(707年) |
| 出土地 | 奈良県宇陀市榛原区八滝(旧・大和国宇陀郡八滝村) |
| 発見年 | 天保2年(1831年) |
| 構成品 | 墓誌(銅板)、緑瑠璃壺(蓋付)、金銅壺(蓋付) |
| 墓誌寸法 | 長さ26.2cm |
| 所蔵 | 東京国立博物館(列品番号:J-39201~J-39203) |
| 展示場所 | 平成館1階「日本の考古」展示室(展示時) |
| 博物館所在地 | 〒110-8712 東京都台東区上野公園13-9 |
| 開館時間 | 9:30~17:00(金・土曜は~21:00)※入館は閉館30分前まで |
| 休館日 | 月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始 |
| 観覧料 | 一般1,000円、大学生500円、18歳未満・70歳以上無料 |
| アクセス | JR上野駅公園口より徒歩10分、JR鶯谷駅南口より徒歩10分 |
| 電話番号 | 050-5541-8600(ハローダイヤル) |
参考文献
- e国宝 - 文祢麻呂墓出土品(国立文化財機構)
- https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=&content_base_id=100202&content_part_id=0&content_pict_id=0
- 文化遺産オンライン - 文祢麻呂墓誌(文化庁)
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/540371
- 文化遺産オンライン - 瑠璃骨壺(文化庁)
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/528300
- Wikipedia - 西文氏
- https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%96%87%E6%B0%8F
- 奈良県歴史文化資源データベース - 壬申の乱
- https://www.pref.nara.jp/miryoku/ikasu-nara/fukabori/detail12/
- 東京国立博物館 - ご利用案内
- https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=113
最終更新日: 2026.01.28
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