はじめに:平安貴族の美意識が凝縮された宝物

和歌山県の霊峰・高野山に、日本漆工芸の最高峰と称される至宝が眠っています。国宝「澤千鳥螺鈿蒔絵小唐櫃(さわちどりらでんまきえしょうからびつ)」は、平安時代後期、およそ900年前に制作された小型の収納箱です。黒漆の地に金粉を蒔いた蒔絵と、貝殻の真珠層を用いた螺鈿を見事に融合させ、水辺に群れ遊ぶ千鳥の姿を描き出したこの作品は、日本の伝統工芸技術の粋を今に伝えています。

本記事では、この国宝の魅力と価値、そしてその鑑賞のポイントについて詳しくご紹介いたします。京都や奈良の有名寺社とは一味異なる、山上の聖地・高野山で出会える日本美術の至宝を、ぜひ一度ご覧ください。

唐櫃とは:その形と用途

「唐櫃(からびつ)」とは、脚の付いた蓋付きの収納箱のことです。「唐」の字が示すように、もともとは中国(唐)から伝来した家具の形式で、奈良時代に日本へもたらされました。四本または六本の脚が付いているのが特徴で、床から持ち上げることで湿気や害虫から中身を守る実用的な役割を果たしていました。

貴族や寺院では、衣服や調度品、文書や経典など大切なものを収納するために用いられました。本作品は「小唐櫃」、すなわち小型の唐櫃であり、縦30.5cm、横39.9cm、高さ30.0cmという手箱のようなコンパクトなサイズが特徴です。研究者の間では、この大きさと装飾の豪華さから、法会や儀式で用いる経典を納める「経櫃(きょうびつ)」として制作された可能性が高いと考えられています。

技法の妙:研出蒔絵と螺鈿の融合

本作品を国宝たらしめている最大の特徴は、「研出蒔絵(とぎだしまきえ)」と「螺鈿(らでん)」という二つの高度な装飾技法を見事に融合させている点にあります。

研出蒔絵とは、漆で描いた文様の上に金粉や青金粉を蒔き、さらに全体を漆で塗り込めた後、炭などで研ぎ出して文様を浮かび上がらせる技法です。単に金粉を表面に置く「平蒔絵」と異なり、研出蒔絵では金が漆の中に埋め込まれた状態となるため、柔らかく落ち着いた光沢を放ちます。また、表面が平滑になるため金粉が剥がれにくく、耐久性にも優れています。

一方の螺鈿は、夜光貝やアワビなどの貝殻から採取した虹色に輝く真珠層を薄く加工し、文様の形に切り出して漆地に嵌め込む技法です。光の当たり方によって微妙に色彩が変化する螺鈿は、金粉とは異なる華やかさを作品にもたらします。

この二つの技法を組み合わせた「蒔絵螺鈿」の様式が完成したのは12世紀初頭とされており、本作品はその最初期かつ最高峰の作例として、日本漆工芸史上きわめて重要な位置を占めています。

意匠:水辺に遊ぶ千鳥の情景

本作品に描かれているのは、水草の生い茂る沢に千鳥が群れ遊ぶ、叙情豊かな水辺の風景です。蓋表から側面にかけて、杜若(かきつばた)や沢潟(おもだか)といった湿地の植物が咲き乱れ、その間を愛らしい千鳥たちが飛び交っています。

千鳥は古来、日本の和歌や文学において親しまれてきた鳥です。「千代(ちよ)」に通じることから長寿・繁栄の象徴とされ、また群れをなして飛ぶ姿が愛されました。本作品では、千鳥の体や花の一部に螺鈿が用いられ、金の蒔絵とは異なる輝きを放っています。千鳥の羽には毛彫り(細い線を彫り込む技法)が施され、繊細な表現が追求されています。

背景となる空間には「平塵(へいじん)」と呼ばれる技法で淡く金粉が蒔かれ、霞がかったような奥行き感を演出しています。また、州浜(すはま)や岩などは「蒔暈(まきぼかし)」によって金粉の濃淡がグラデーション状に表現され、写実的でありながら夢幻的な雰囲気を醸し出しています。このような表現は、同時代の『西本願寺三十六人家集』の料紙装飾と共通するやまと絵的感性を示しており、純日本風の優美な美意識が見事に結実した作品といえます。

内部の装飾:見えない部分にも宿る美

外側の華麗さに目を奪われがちですが、本作品の内部にも見るべきものがあります。蓋の裏側には、龍胆(りんどう)や楓(かえで)などの折枝文様とともに、蝶や小鳥が金蒔絵で散らされています。これは、箱を開けた人だけが目にすることのできる、いわば私的な装飾空間です。

さらに注目すべきは「懸子(かけご)」と呼ばれる内箱(中段)の存在です。その底部には、精緻な透彫りが施された金銅製の宝相華(ほうそうげ)文の丸い金具が13個、襷(たすき)状に配置され、その間を螺鈿の唐草文が埋めています。この内底の装飾は、蓋を開けた瞬間に目に飛び込んでくる「宝石箱」のような効果を生み出しており、かつてここに納められていたであろう経典がいかに大切にされていたかを物語っています。

金具の精巧さ:細部に宿る職人技

本作品の金属装飾も特筆に値します。四本の脚の上下には銀地鍍金の金具が被せられており、その表面には「魚々子(ななこ)」と呼ばれる細かな点を打ち出す技法で宝相華唐草文が彫り込まれています。魚々子は魚卵のような細かい粒状の地紋を作り出す技法で、きわめて手間のかかる精密な作業を必要とします。

正面の錠金具や背面の鉤金具にも同様の精緻な装飾が施されており、漆工芸と金工の両面において最高水準の技術が惜しみなく投入されていることがわかります。なお、銅製の置口(開口部の縁金具)は後世の補修によるものですが、長年にわたってこの宝物が大切に守り伝えられてきた証でもあります。

国宝指定の意義:なぜこの作品は特別なのか

澤千鳥螺鈿蒔絵小唐櫃は、1951年(昭和26年)6月9日、現行の文化財保護法のもとで行われた第1回目の国宝指定において、国宝に選ばれました。これは、本作品が日本の文化遺産の中でもとりわけ重要な存在であることを示しています。

美術史的に見ると、本作品は以下の点で特に高く評価されています。まず、蒔絵と螺鈿を融合させた「蒔絵螺鈿」様式の最初期の完成作であること。次に、平安時代後期のやまと絵的な美意識を工芸品として具現化した代表例であること。そして、研出蒔絵の技法が最高水準に達していた時代の作品として、技術史上きわめて貴重な資料であることです。

東京国立博物館所蔵の国宝「片輪車螺鈿蒔絵手箱」とともに、本作品は同時代の漆工芸の中で群を抜いて装飾的であり、日本漆芸の黄金期を代表する双璧として知られています。

鑑賞の場所:高野山霊宝館

澤千鳥螺鈿蒔絵小唐櫃は、高野山真言宗の総本山・金剛峯寺が所蔵しており、高野山霊宝館に収蔵されています。霊宝館は1921年(大正10年)に開館した博物館相当施設で、「山の正倉院」とも称される膨大な文化財コレクションを有しています。

国宝21件、重要文化財148件、和歌山県指定文化財17件など、総計約10万点もの宝物を収蔵しており、運慶作と伝わる八大童子像や、応徳3年(1086年)の銘を持つ現存最古の仏涅槃図など、日本美術史上きわめて重要な作品を多数所蔵しています。

ただし、本国宝は常設展示されているわけではありません。霊宝館では年間を通じて企画展や特別陳列を開催しており、展示内容は時期によって異なります。本作品の公開情報については、訪問前に必ず霊宝館の公式ウェブサイトでご確認ください。特別展「高野山の名宝」や、漆工芸をテーマにした企画展などで公開されることがあります。

周辺の見どころ:高野山の魅力

霊宝館を訪れる際には、ぜひ高野山全体の散策もお楽しみください。霊宝館のすぐ向かいには壇上伽藍があり、朱塗りの根本大塔や金堂など、弘法大師空海が開創した真言密教の聖地の姿を今に伝えています。

また、約2kmにわたって20万基以上の墓碑が並ぶ奥之院は、弘法大師御廟に続く神秘的な参道として知られ、日本屈指の霊場として多くの参拝者を迎えています。樹齢数百年の杉の巨木に囲まれた石畳の道は、時代を超えた荘厳な雰囲気に満ちています。

高野山には52の宿坊があり、寺院に宿泊して精進料理を味わったり、朝の勤行(お勤め)に参加したり、阿字観(瞑想)を体験したりすることができます。澤千鳥の小唐櫃が生まれた仏教文化の息吹を、肌で感じることのできる貴重な機会です。

鑑賞のポイント:この国宝を味わうために

実際に本作品を鑑賞する機会に恵まれた際には、いくつかのポイントに注目すると、より深く作品を味わうことができます。

まず、金の輝きの質感に注目してください。研出蒔絵特有の、漆の中から柔らかく光を放つような金の表現は、後世の平蒔絵や高蒔絵とは異なる落ち着いた気品を持っています。次に、螺鈿部分を見る角度を変えてみてください。貝殻の真珠層は見る角度によって虹色に色彩が変化し、作品に生命感を与えています。

また、余白の扱いにも注目してください。平安時代の作品は、後世の密に装飾が詰め込まれた作品と異なり、黒漆の地を効果的に残すことで、文様をより際立たせています。この「間」の美しさは、日本美術の根幹をなす美意識の表れです。

最後に、この作品が約900年前に、名もなき職人の手によって生み出されたことに思いを馳せてください。貴族や僧侶のために、持てる技術のすべてを注ぎ込んで制作された工芸品が、幾多の困難を乗り越えて今日まで伝えられてきた奇跡を感じていただければ幸いです。

Q&A

Q澤千鳥螺鈿蒔絵小唐櫃はいつ頃制作されたのですか?
A平安時代後期、12世紀初頭(1100年〜1120年頃)に制作されたと考えられています。貴族文化が花開いた時代に、当時の最高峰の技術を結集して作られた作品です。
Qこの漆器は何を入れるために作られたのですか?
A明確な記録は残っていませんが、大きさや形状、内部に懸子(内箱)を備えている点などから、仏教の経典を納める「経櫃」として使用されていた可能性が高いと考えられています。法会や儀式の際に、法華経などの経巻を収納し、僧侶に配る際に用いられたという説もあります。
Q高野山霊宝館ではいつでもこの国宝を見ることができますか?
Aいいえ、常設展示ではありません。霊宝館では年間を通じてさまざまな企画展・特別展を開催しており、展示内容は時期によって異なります。本作品の公開予定については、訪問前に霊宝館の公式ウェブサイト(https://www.reihokan.or.jp/)でご確認いただくか、直接お問い合わせください。
Q「研出蒔絵」とはどのような技法ですか?
A研出蒔絵(とぎだしまきえ)は、蒔絵技法の中で最も古くからある技法です。漆で文様を描いた上に金粉を蒔き、その後さらに漆を塗り重ねて全体を覆います。漆が乾いた後、炭で表面を研ぎ出すことで、金の文様が漆の中から浮かび上がります。金粉が漆に埋め込まれているため剥がれにくく、また柔らかく落ち着いた光沢が得られるのが特徴です。
Q大阪から高野山へのアクセス方法を教えてください。
A大阪・難波駅から南海電鉄の特急「こうや」で極楽橋駅まで約80分、そこからケーブルカーで高野山駅まで約5分です。高野山駅からは南海りんかんバスで「霊宝館前」停留所(約15分)下車すぐ、または「千手院橋」停留所(約15分)下車徒歩約10分で霊宝館に到着します。

基本情報

名称 澤千鳥螺鈿蒔絵小唐櫃(さわちどりらでんまきえしょうからびつ)
文化財指定 国宝(1951年6月9日指定)
種別 工芸品(漆工)
時代 平安時代後期(12世紀初頭)
法量 縦30.5cm、横39.9cm、高さ30.0cm
員数 1合
所蔵 金剛峯寺
収蔵場所 高野山霊宝館
所在地 〒648-0211 和歌山県伊都郡高野町高野山306
開館時間 5月〜10月:8:30〜17:30 / 11月〜4月:8:30〜17:00(入館は閉館30分前まで)
拝観料 一般:1,300円 / 高校生・大学生:800円(学生証提示必要)/ 小学生・中学生:600円
休館日 年末年始のみ
電話番号 0736-56-2029
公式サイト https://www.reihokan.or.jp/

参考文献

文化遺産オンライン(文化庁)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/148408
高野山霊宝館 公式サイト - 収蔵品紹介
https://www.reihokan.or.jp/syuzohin/kogei.html
WANDER 国宝 - 澤千鳥螺鈿蒔絵小唐櫃
https://wanderkokuho.com/201-00322/
東北芸術工科大学 - 金剛峯寺蔵澤千鳥螺鈿蒔絵小唐櫃の用途について
http://blog.tuad.ac.jp/prizeworks/?p=296
高野山霊宝館 公式サイト
https://www.reihokan.or.jp/
Wikipedia - 蒔絵
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%94%E7%B5%B5
京都市立芸術大学 - 平安時代における「蒔絵螺鈿」の成立
https://www.kcua.ac.jp/平安時代における「蒔絵螺鈿」の成立- ―文献上/

最終更新日: 2026.01.13