国宝「今昔物語集」(鈴鹿本)― 千を超える古の物語が今なお語りかける
「今は昔」という言葉で始まる千を超える物語。インドの釈迦の物語から、中国の賢人の逸話、そして日本の貴族や武士、僧侶、盗賊、狐や鬼に至るまで、平安時代の人々が思い描くことのできた全世界を網羅した壮大な説話集 ― それが「今昔物語集」です。
京都大学附属図書館が所蔵するその最古の写本「鈴鹿本」は、現存するすべての今昔物語集の写本の祖本(おおもと)として、1996年(平成8年)に国宝に指定されました。芥川龍之介の「羅生門」や「藪の中」の源泉であり、黒澤明の映画「羅生門」の原点でもあるこの文化遺産の魅力を、海外からのお客様にもわかりやすくご紹介いたします。
今昔物語集とは
今昔物語集は、平安時代後期(12世紀前半、1120年代頃)に編纂されたと推定される、わが国最大の説話集です。全31巻(ただし巻8・巻18・巻21は欠巻)に1,020を超える短編物語が収録されています。
構成は天竺(インド)・震旦(中国)・本朝(日本)の三部から成り、これは当時の日本人が認識していた全世界に及ぶ壮大なスケールの作品です。各部はまず仏教的な因果応報譚から始まり、続いて世俗の多彩な物語が展開されます。
ほぼすべての物語が「今は昔」(今昔)という書き出しで始まり、「トナム語リ伝ヘタルトヤ」(と、なむ語り伝えたるとや)という結びの言葉で終わります。「今昔」をその漢字の音読みで読んだ「コンジャク」が、この作品名の由来となっています。
その内容は仏教的教訓にとどまらず、歴史、民俗、地理、思想など幅広い分野にわたる情報を含んでおり、単なる文学作品を超えた、日本文化を理解するための貴重な資料でもあります。
国宝「鈴鹿本」について
国宝に指定されているのは、京都大学附属図書館が所蔵する「鈴鹿本」と呼ばれる古写本です。現存する今昔物語集の写本60本以上のうち、系統不明の1~2本を除き、すべてがこの鈴鹿本を祖本(原本にもっとも近い写本)としています。
鈴鹿本は巻第2・5・7・9・10・12・17・27・29の全9冊が現存しており、大判の袋綴冊子本の形式をとっています。本文は楮紙(こうぞし)に天単罫(てんたんけい)の押界(おしかい)を施した上に書写されており、半葉11行、1行およそ28字前後の宣命書きの片仮名交じり文で記されています。
書写年代は、その大判の体裁や料紙の質、書風などから鎌倉時代中期と認められています。さらに、綴じ糸の放射性炭素年代測定の結果も、最も古いもので西暦1000年から1200年の年代を示しており、この年代推定を裏付けています。
特筆すべきは、「今昔物語集」という書名がこの鈴鹿本によってのみ確定できるという点です。他のどの写本にも、この正式な書名は記されていません。
なぜ国宝に指定されたのか
鈴鹿本が1996年(平成8年)6月27日に国宝に指定された理由は、主に以下の点にあります。
第一に、現存するすべての今昔物語集写本の祖本であるという、文献学上きわめて重要な位置づけです。60本を超える写本が存在する中で、そのほぼすべてがこの一冊から派生したことは、日本文学史上比類のない重要性を持ちます。
第二に、「今昔物語集」という作品名を確定できる唯一の写本であるということです。この写本なくしては、わが国最大の説話集の正式名称すら不明のままだったことになります。
第三に、巻第27に残された「総六丸」の披見識語(読了の記録)が、「大乗院日記目録」文安3年(1446年)7月条の記事と一致し、「経覚私要鈔」宝徳3年(1451年)の貸借記事とあわせて、本書の南都(奈良)での伝来の歴史を解明する重要な手がかりとなっていることです。
第四に、鎌倉時代中期の書写技術と製本技法を今に伝える貴重な物質文化遺産としての価値です。宣命書きの文体は、漢文読解の伝統を色濃く残しており、中世日本の知的世界を垣間見ることができます。
今昔物語集の魅力 ― 生き生きとした物語の世界
今昔物語集の最大の魅力は、その圧倒的な多様性と、物語に息づく臨場感にあります。「源氏物語」が平安貴族の内面世界を繊細に描いたのに対し、今昔物語集は社会のあらゆる階層の人々を活写しています。
仏の教えに帰依する僧侶の物語から、知恵と勇気で窮地を脱する武士の逸話、人をだます狐や鬼の怪異譚、そして庶民の暮らしに根ざしたユーモラスな話まで、その幅広さは他に類を見ません。
芥川龍之介はこの作品の魅力を「美しいなまなましさ」「野蛮に輝いている」と評しました。修辞を凝らさない素朴な文体でありながら、擬態語の多用により、物語に驚くほどの臨場感が生まれています。
また、収録されている説話の中にはアジア各国でも伝承されているものがあり、昔話の国際的なつながりを研究する上でも重要な作品として評価されています。
近代文学・映画への影響
今昔物語集は、近代日本文学にも深い影響を与えてきました。芥川龍之介は「羅生門」「鼻」「芋粥」「藪の中」など、数多くの代表作をこの説話集から着想を得て執筆しています。とりわけ巻第29に収められた「羅城門登上層見死人盗人語」は「羅生門」の直接のモチーフとして知られています。
黒澤明監督の映画「羅生門」(1950年)は、芥川の「羅生門」と「藪の中」を組み合わせた作品であり、その源泉は国宝・鈴鹿本に記された物語にまでさかのぼります。この映画はヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、「羅生門効果」(矛盾する証言という概念)を世界に広めました。
谷崎潤一郎や堀辰雄といった文豪もまた、今昔物語集の世界から着想を得た作品を残しており、この説話集の文学的影響は計り知れません。海外では、チョーサーの「カンタベリー物語」やボッカッチョの「デカメロン」にも比肩する作品として紹介されています。
鈴鹿本の来歴 ― 奈良から京都大学へ
鈴鹿本そのものの旅路もまた、物語のように興味深いものです。中世においては奈良(南都)の寺院に伝えられていたと考えられており、1446年と1451年の記録にその存在が確認されています。
江戸時代の天保4年(1833年)には「奈良人某」の所有であったことがわかっており、天保15年(1844年)には、吉田神社の神職を務める鈴鹿連胤(すずかつらたね)の所蔵となりました。この時期に国学者の伴信友がこの写本を調査し、諸本の祖本であることを指摘しています。
その後、鈴鹿家に代々伝えられ、大正9年(1920年)に鈴鹿三七が「異本今昔物語抄」という小冊子を出版したことで、学術的に広く知られるようになりました。
そして1991年(平成3年)、京都大学附属図書館に勤務していた鈴鹿家の子孫を縁として、責任をもって修復し研究に役立てるという条件のもと、京都大学附属図書館に寄贈されました。入念な修復作業を経て、1996年に国宝に指定されました。
現在は、専用の空調設備によって温度・湿度が常に一定に保たれた特別な保管室で、他の重要文化財とともに大切に保管されています。
今昔物語集を楽しむ方法
国宝の原本は保存環境の関係上、一般公開はされていませんが、京都大学はその全冊を高精細にデジタル化し、「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」で無料公開しています。原本の画像に加えて活字化されたテキストや解説も閲覧でき、世界中どこからでもこの国宝に触れることができます。
京都を訪れる方には、京都大学総合博物館のご見学もおすすめです。大学の研究成果や歴史的資料を紹介する展示が行われており、国宝や重要文化財に関連した企画展が開催されることもあります。
また、今昔物語集の物語を現代語で読むことのできる書籍も数多く出版されています。岩波書店の「新日本古典文学大系」をはじめ、わかりやすい現代語訳付きの文庫本も各社から刊行されています。
周辺の観光スポット
京都大学のある左京区吉田エリアは、京都を代表する文化的名所に囲まれた素晴らしい立地です。文学散歩と観光を組み合わせた充実した一日をお過ごしいただけます。
吉田神社
京都大学キャンパスのすぐ隣、吉田山の麓に鎮座する歴史ある神社です。貞観元年(859年)に藤原山陰が春日大社の神を勧請したのが始まりとされ、平安京の鬼門を守護する社として崇敬されてきました。毎年2月の節分祭は京都最大規模として有名で、大元宮は重要文化財に指定されています。
銀閣寺(慈照寺)
京都大学から徒歩約15分。室町幕府八代将軍足利義政が文明14年(1482年)に造営したユネスコ世界遺産です。枯山水の銀沙灘(ぎんしゃだん)や向月台(こうげつだい)、苔むした庭園の美しさは、東山文化の精髄を今に伝えています。
哲学の道
銀閣寺から南禅寺方面へ続く約2キロメートルの疏水沿いの散策路です。京都大学教授であった哲学者・西田幾多郎が毎朝思索しながら歩いたことにちなんで名付けられました。「日本の道百選」にも選定されており、春の桜並木と秋の紅葉は格別の美しさです。
京都大学総合博物館
吉田キャンパス内にある博物館で、自然史・技術史・文化史の3分野にわたる学術標本資料約260万点を収蔵しています。一般観覧料は400円(大学生300円)、高校生以下・70歳以上は無料です。月曜・火曜休館。展示解説の一部は英語併記です。
知恩寺(百萬遍知恩寺)
京都大学のすぐ向かいに位置する浄土宗の名刹です。総門・阿弥陀堂・御影堂をはじめ、多くの堂宇が国の重要文化財に指定されています。毎月15日には「百万遍さんの手づくり市」が境内で開催され、多くの人で賑わいます。
Q&A
- 国宝の鈴鹿本を直接見ることはできますか?
- 国宝の原本は専用の保管室で厳重に管理されており、通常の一般公開は行われていません。ただし、京都大学貴重資料デジタルアーカイブ(rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp)にて全冊の高精細画像が無料で公開されており、翻刻テキストや解説とともに、世界中どこからでもご覧いただけます。
- 今昔物語集と映画「羅生門」はどのような関係がありますか?
- 黒澤明監督の映画「羅生門」(1950年)は、芥川龍之介の短編「羅生門」と「藪の中」を原作としています。この二作品はいずれも今昔物語集の説話をもとに創作されました。「羅生門」のモチーフとなった物語は巻第29に収録されています。映画はヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、日本映画を世界に知らしめました。
- 今昔物語集の編者は誰ですか?
- 今昔物語集には序文・跋文・奥書がいっさいなく、編者は現在も不明のままです。かつては源隆国が編者とする説が広く知られていましたが、現在の学界では否定されています。南都(奈良)や北嶺(比叡山)の僧侶説、白河院に近侍する僧侶説などが提唱されていますが、確定には至っていません。
- 京都駅から京都大学へのアクセスを教えてください。
- 京都駅から地下鉄烏丸線で今出川駅まで約9分、そこから市バス203系統に乗り換えて「京大正門前」で下車するルートが便利です。全体で約30分です。また、京都駅から市バス206系統で「百万遍」まで直通する方法もあります(所要約30分)。京阪電車をご利用の場合は、出町柳駅から徒歩約20分です。
- 海外の方が今昔物語集を英語で読む方法はありますか?
- はい、複数の優れた英語翻訳が出版されています。ミシガン大学出版局の「Tales of Times Now Past」(62話収録)、小張直・ブルース・アレン訳「Japanese Tales from Times Past」(90話収録)、また朴鍾浩による全1,059話の完訳版も刊行されています。京都を訪れる前にいくつかの物語を読んでおくと、旅の楽しみが一層深まることでしょう。
基本情報
| 名称 | 今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)鈴鹿本(すずかぼん) |
|---|---|
| 指定区分 | 国宝(1996年〈平成8年〉6月27日指定) |
| 種別 | 書跡・典籍 |
| 編纂時期 | 平安時代後期(1120年代頃) |
| 書写時期 | 鎌倉時代中期(13世紀) |
| 形態 | 9冊、大判袋綴冊子本 |
| 寸法 | 現寸法:縦32.4cm × 横28.1cm/本紙寸法(巻第二):縦29.6cm × 横24.2cm |
| 料紙 | 楮紙、天単罫の押界 |
| 所有者 | 国立大学法人京都大学 |
| 所在地 | 京都府京都市左京区吉田本町 京都大学附属図書館 |
| デジタルアーカイブ | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ(https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp) |
| 近隣博物館 | 京都大学総合博物館 ― 一般400円、大学生300円、高校生以下無料/月・火休館 |
| アクセス | 京都市バス「百万遍」下車すぐ/京阪電車「出町柳」駅より徒歩約20分 |
参考文献
- 今昔物語集 — 文化遺産オンライン
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/205950
- 国宝 今昔物語集 — 京都大学附属図書館 (PDF)
- https://www.s-coop.net/lifestage/backnumber/2010/pdf/1101_10-10.pdf
- 国宝 - 今昔物語集(鈴鹿本) — 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
- https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/classification/pickup-nt
- 今昔物語集(鈴鹿本) — 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
- https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00000125
- 京都大学所蔵資料でたどる文学史年表: 今昔物語集 — 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
- https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00000125/explanation/konjaku
- 国宝-書跡典籍|今昔物語集(鈴鹿本)[京都大学] — WANDER 国宝
- https://wanderkokuho.com/201-08969/
- 今昔物語集 — Wikipedia
- https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%98%94%E7%89%A9%E8%AA%9E%E9%9B%86
- 京都大学附属図書館 — 学外の方への利用案内
- https://www.kulib.kyoto-u.ac.jp/mainlib/service/ext
- 第11回 今昔物語集 巻二十九 — 京都新聞
- https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/32497
最終更新日: 2026.02.08
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