建築教育資料(京都帝国大学工学部建築学教室旧蔵)— 武田五一が遺した近代日本の建築教育アーカイブ

京都大学桂キャンパスのC2棟、その一階の片隅に、ひっそりと並ぶ展示物があります。石膏のレリーフ、寺院の精巧な木製模型、古びた瓦、見慣れない建築材料の標本……。何気なく通り過ぎる学生も多いこの空間こそ、近代日本における建築教育の歩みを今に伝える「生き証人」が眠る場所です。2006年に2,653点が国の登録有形文化財として登録された「建築教育資料」は、大正から昭和初期にかけて、ひとりの建築家の情熱と眼差しによって築かれた、世界的にも稀有な教育コレクションなのです。

正式名称を「京都帝国大学工学部建築学教室旧蔵 建築教育資料」というこの一群は、関西建築界の父と呼ばれた武田五一が中心となって収集したもので、近代日本がいかに「建築を学ぶ」という営みを自国の中で築き上げていったかを物語る、たぐいまれな証言となっています。

京都帝国大学と建築学科の誕生

京都帝国大学は、明治三十年(1897)の勅令第二〇九号によって、東京帝国大学に次ぐ日本で二番目の帝国大学として設置されました。大正三年(1914)には五つの分科大学を擁する構成となり、大正八年(1919)の大学令改正によって分科大学は学部と改称され、工科大学は工学部へと再編されます。そしてその翌年、大正九年(1920)に新たに建築学科が設立されました。

建築学科の創設は、日本における建築教育の歴史において画期的な出来事でした。当時、本格的な建築の学術プログラムを持つのは東京帝国大学のみであり、欧米流の体系的な建築教育を行うための書籍や材料、模型などはまだ十分に揃っていませんでした。京都の創設者たちが直面したのは、まさに「教えるための道具」をゼロから揃えるという課題でした。彼らの答えは、当時の建築界が関心を寄せていた領域をまるごと網羅するような、壮大なスケールの教育用コレクションを自前で構築することだったのです。

武田五一 — 建築家にして博物学者

この一大事業を牽引したのが、武田五一(1872〜1938)です。広島県福山に生まれ、東京帝国大学工科大学造家学科を卒業した武田は、明治三十四年(1901)に文部省の留学生として欧州に渡り、ロンドンのカムデン美術学校をはじめ各地で図案学を研究しました。アール・ヌーヴォーやウィーン分離派などの最新の芸術運動に触れて帰国し、その新しい意匠を日本にいち早く紹介したことで知られます。

武田は京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)の図案科を率いた後、京都帝国大学に建築学科が新設されると勅任教授に任命されました。そして学科の正式な開設に先立つ大正八年(1919)から、教育用資料の収集を開始します。その範囲は、欧州建築の室内装飾を写した石膏模型、古寺の木造模型、各種の石材や金物、ガラス、建具、外国製の建築道具、そして白蟻被害の標本にまで及びました。ある研究者の言葉を借りれば、武田は「建築家でありながら博物学者の眼を持つ人」でした。

武田の建築家としての作品もまた、現代の京都の景観を形づくっています。京都府立図書館、京都大学百周年時計台記念館、平安神宮の大鳥居など、京都を歩けば必ず武田の設計に出会うといっても過言ではありません。しかし、この教育用コレクションは、おそらく彼が遺したもっとも静かで、しかしもっとも影響力の大きい「作品」のひとつといえるでしょう。なぜなら、大正期以降に京都大学で建築を学んだ者は皆、この資料群を目にしてきたからです。

なぜ文化財に登録されたのか

2006年(平成18年)3月31日、本コレクションの2,653点が、歴史資料として国の登録有形文化財(美術品)に登録されました。この登録が評価したのは、個々の作品の美術的価値というよりも、「群としてのまとまり」、すなわち近代日本の建築教育の現場そのものを今に伝える資料的価値でした。

本コレクションが特別である理由は三つあります。第一に、その圧倒的な幅広さです。建築教育の黎明期に編まれた、これほど完備した教材アーカイブが今日まで残っている例は、世界的にも極めて稀です。第二に、来歴の確かさです。収集当時の「備品監守帳」が現存しており、ほぼすべての物品について購入や寄贈の経緯と年代を辿ることができます。これは資料コレクションとして極めて貴重な特性です。第三に、コレクション中に含まれる傑出した個別資料の存在です。なかでも昭和十四年(1939)に教育研究のために納入されたジョサイア・コンドルの建築図面は、日本最大かつ最良のコンドル図面コレクションとして、別途「ジョサイア・コンドル建築図面」として重要文化財に指定されています。

コレクションの見どころ

フランク・ロイド・ライト「帝国ホテル」の石膏模型

もっとも象徴的な所蔵品のひとつが、フランク・ロイド・ライトの代表作「帝国ホテル ライト館」の100分の1石膏模型です。大正十二年(1923)、ライト館が東京に開業したまさにその年に購入されました。ライト館は開業当日に発生した関東大震災を耐え抜き、日本における近代建築の象徴となりましたが、本体は1968年に解体されています。この模型は、その精緻なデザインをほぼ手のひらに収まるスケールで今に伝える、極めて貴重な資料です。さらにライトが日本で設計した活動館の50分の1石膏模型も所蔵されています。

日本の伝統建築を学ぶ模型群

日本の伝統建築を学生に教えるため、教室はいくつもの木造模型を整備しました。大正十一年(1922)に購入された法界寺阿弥陀堂の10分の1模型は、平安時代の建築の比例や組物を三次元で実感させる優品です。京都・奈良の古寺の柱模型や、近代建築の構造を伝えるための枢密院鉄筋模型なども含まれ、日本建築史と最新の構造技術を同じ教室の中で並べて学べるよう工夫されていました。

建築素材の標本

武田の好奇心は、建築そのものを構成する「もの」にも向けられていました。建築石材のサンプル、装飾的なタイル、建築用ガラス、装飾金具、建具の標本、海外で用いられた建築道具類などが系統的に収集されています。さらに白蟻被害を受けた木材標本までもが含まれており、これは将来の建築家に木材保全の知識を伝えるための、当時としては先進的な教材でした。これらの標本群は、20世紀初頭の建築家が何を学ぶべきと考えたかを物語る、貴重な思想の記録でもあります。

天沼俊一教授の古瓦コレクション

本コレクションの中で独自の存在感を放つのが、天沼俊一教授が蒐集した古瓦コレクションです。天沼は建築学科設立時に助教授として建築史を担当した人物で、日本・朝鮮・インドの古建築を研究テーマとしていました。その研究の傍ら集められた古瓦は、統一新羅などの朝鮮半島の瓦、渤海を含む中国の古瓦、そして日本各地の古代から近代に至る瓦に及びます。なかには寺院の解体修理の際に屋根から下ろされた完形の瓦も含まれ、考古学や建築史の研究にとって極めて重要な一次資料となっています。天沼教授は昭和十一年(1936)の退官に際し、これらを建築学教室に寄贈しました。

ジョサイア・コンドル建築図面

昭和十四年(1939)に納入されたジョサイア・コンドルの建築図面は、本コレクションの中でもひときわ輝く存在です。コンドルは明治十年(1877)に工部大学校(現・東京大学工学部)で教鞭を執るために来日した英国人建築家で、辰野金吾や片山東熊といった日本最初期のプロフェッショナル建築家を育てた人物です。京都大学に伝わる図面群は世界的に見てもコンドル最大・最良のコレクションとされ、その価値から「ジョサイア・コンドル建築図面」として重要文化財に別途指定されています。これらの図面は京都大学貴重資料デジタルアーカイブで公開されており、誰でも閲覧することができます。

見学について

本コレクションは、一般的な美術館の収蔵品とは性格が異なります。京都大学が現役で活用している教育・研究用のアーカイブであり、京都西部の桂キャンパスで保管・保存されています。資料の整備は、建築学科が桂キャンパスに移転した2004〜2005年に大規模に行われ、さらに2024〜2025年にも建築史学講座を中心に再度のクリーニングと再配置事業が実施されました。

フランク・ロイド・ライト帝国ホテルライト館の石膏模型をはじめとする主要な所蔵品の一部は、桂キャンパスC2棟の一階に常設展示されており、建築学科を訪れる学生や来訪者は、現役の研究室やスタジオに隣接した自然な姿で資料を目にすることができます。ジョサイア・コンドルの建築図面そのものは現物の展示は行われていませんが、京都大学貴重資料デジタルアーカイブで高解像度のデジタル画像が公開されており、ウェブ上で自由に閲覧することができます。

桂キャンパスは観光施設ではなく研究教育のための場ですので、訪問にあたっては節度ある見学をお願いします。本コレクションをじっくり鑑賞したい場合は、京都大学総合博物館で時折開催される、建築教育資料を取り上げた特別展や企画展のタイミングを狙うのがもっとも確実な方法です。

周辺の見どころ

コレクションの本体は桂キャンパスに移されましたが、登録上の所在地は今も創設時のままの吉田キャンパス(左京区吉田本町)となっています。吉田キャンパスを歩けば、武田五一とその同時代の建築家たちが設計した建物の数々に出会うことができます。1925年竣工の百周年時計台記念館は武田自身の設計によるキャンパスのシンボルで、1922年竣工の旧建築学教室本館(現・総合研究15号館)もまた武田の作。エビ茶色のタイルと曲面を描く正面外壁は、当時としては斬新なデザインでした。

吉田キャンパス南側にある京都大学総合博物館では、大学の膨大な所蔵資料を活用した展示が随時開催されています。京都市内に目を向ければ、京都府立図書館、京都市役所、平安神宮大鳥居など、武田五一が手がけた近代建築が点在しており、彼が京都の景観に与えた影響の大きさを実感できるはずです。さらに踏み込んで近代日本のデザインに触れたい方には、武田が図案科を立ち上げた京都工芸繊維大学の美術工芸資料館もおすすめです。ここでは本コレクションと相補的な、武田にゆかりの資料を見ることができます。

Q&A

Q一般の人がこのコレクションを見ることはできますか。
A主要な所蔵品の一部は、京都大学桂キャンパスのC2棟一階に常設展示されており、建築学科を訪れる方は見ることができます。収蔵庫に保管されている全資料の公開は行われていませんが、京都大学総合博物館で開催される特別展や企画展で一部が紹介されることがあります。また、ジョサイア・コンドルの建築図面は京都大学貴重資料デジタルアーカイブで自由に閲覧できます。
Qなぜ単独の有名作品ではないこのコレクションが文化財になったのですか。
A登録の理由は、個々の作品の価値というよりも、コレクション全体としての資料的価値が高く評価されたことにあります。近代日本における建築教育の黎明期の教材アーカイブとして、これほど完備した形で残っている例は他になく、しかも当時の「備品監守帳」が現存しているため、ほぼ全ての物品の来歴を追えるという稀有な特徴があります。さらにコンドルの建築図面やライト館の石膏模型など、それ自体が貴重な資料も含まれています。
Q武田五一とはどのような人物ですか。
A武田五一(1872〜1938)は、京都帝国大学に建築学科を創設した建築家で、「関西建築界の父」と呼ばれます。欧州留学でアール・ヌーヴォーや分離派などの新しいデザインを学び、日本に紹介しました。京都大学百周年時計台記念館や平安神宮大鳥居など、京都の景観を形づくる多くの建築を手がけたほか、フランク・ロイド・ライトとも親交がありました。
Q「建築教育資料」と「ジョサイア・コンドル建築図面」は何が違うのですか。
A「ジョサイア・コンドル建築図面」は、1939年に建築学教室に納入された資料の一部で、コンドルの建築図面のみを指します。日本最大・最良のコンドル図面コレクションとしての価値が高く評価され、別途、重要文化財に指定されています。一方、2006年に登録有形文化財となった「建築教育資料」は、コンドル図面を含む2,653点からなる、より広範な教材アーカイブ全体を指します。
Qコレクションについてもっと知りたい場合、どこを参照すればよいですか。
A京都大学貴重資料デジタルアーカイブ(rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp)では、コンドル建築図面を無料で閲覧できます。武田五一が収集した建築標本については、書籍『武田五一の建築標本——近代を語る材料とデザイン』(LIXIL出版)で一般向けに紹介されています。また、京都大学建築学科のウェブメディア「京大建築式」でも、整備事業に関わった研究者による解説記事が公開されています。

基本情報

正式名称 建築教育資料(京都帝国大学工学部建築学教室旧蔵)
読み けんちくきょういくしりょう(きょうとていこくだいがくこうがくぶけんちくがくきょうしつきゅうぞう)
文化財種別 登録有形文化財(美術品)/登録年月日:2006年(平成18年)3月31日
点数 2,653点
資料の時代 古代から現代まで(収集の中心は大正八年〔1919〕から昭和十一年〔1936〕)
所有者 国立大学法人京都大学
登録上の所在地 京都府京都市左京区吉田本町
現在の保管場所 京都大学桂キャンパスC2棟(一部は一階に常設展示)
中心的収集者 武田五一(1872〜1938)京都帝国大学建築学科創設教授
特筆すべき内包資料 ジョサイア・コンドル建築図面(別途、重要文化財に指定)

参考文献

建築教育資料(京都帝国大学工学部建築学教室旧蔵)— 文化遺産オンライン
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/169745
国指定文化財等データベース — 文化庁
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/211/00011214
京大建築の歴史を物語る文化財「京都帝国大学工学部建築学教室旧蔵 建築教育資料」をご紹介します — 京大建築式
https://press.archi.kyoto-u.ac.jp/5308/
文化財登録建築物 — 京都大学
https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/about/facilities/photo/culture
重要文化財 — 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/classification/pickup-icp
武田五一 — 東文研アーカイブデータベース
https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8411.html
武田五一の建築標本——近代を語る材料とデザイン — LIXIL出版
https://livingculture.lixil.com/publish/-/

最終更新日: 2026.05.11