旧高橋家住宅|北アルプスの麓に息づく安曇野の歴史遺産
北アルプスの雄大な山々を背景に、清らかな湧水と美しい田園風景が広がる長野県安曇野市。この心安らぐ風景の中に、日本の農村文化の記憶を静かに伝える貴重な文化財が佇んでいます。それが、国の登録有形文化財「旧高橋家住宅」です。
江戸時代中期に建てられた主屋と、明治期に増築された三棟の土蔵からなるこの屋敷は、穂高地方の農家建築の姿を今日に伝える貴重な存在です。そしてここは、1997年に文化勲章を受章した漆芸術家・高橋節郎(1914〜2007)の生家でもあり、芸術と歴史が交差する特別な場所となっています。
旧高橋家の歴史:豪農として栄えた名家の記憶
高橋家は、穂高地方において豪農として栄えた家柄であり、その繁栄ぶりは現存する住宅の規模と質の高さからも窺い知ることができます。近代に入ってからは、家の当主が北穂高村長を務めるなど、地域社会において重要な役割を担ってきました。
主屋は江戸時代中期、宝暦元年から文政12年(1751〜1829年)頃の創建と伝えられています。長い歳月の中で幾度かの増改築を経てきましたが、近年行われた解体修理において、主要部が完成した当時の姿に復元されました。これにより、訪れる人々は江戸時代の農家建築の本来の姿を体験することができるようになっています。
三棟の土蔵は明治期に順次建てられ、主屋と合わせて一つの調和のとれた屋敷空間を形成しています。この建築群全体が、穂高地方における近世から近代にかけての農村景観を今日に伝える貴重な歴史的証言となっています。
なぜ登録有形文化財に指定されたのか
旧高橋家住宅は、平成15年(2003年)7月1日に国の登録有形文化財(建造物)として登録されました。登録有形文化財制度は、歴史的・芸術的・学術的価値を有する建造物を保存し、後世に継承していくための制度です。
旧高橋家住宅が登録された背景には、いくつかの重要な価値が認められています。まず、穂高地方における近世から近代にかけての農家建築の数少ない残存例であり、当時の建築技術や生活様式を知る上で貴重な資料となっています。また、近年の解体修理によって創建当時の姿に復元され、本来の建築的価値が明確に示されるようになりました。さらに、主屋と三棟の土蔵が一体となって、豪農の屋敷構えを完全な形で残している点も高く評価されています。そして、文化勲章受章者・高橋節郎の生家という文化史的な意義も、この建造物群の価値を一層高めています。
主屋(おもや):江戸時代の農家建築を今に伝える
旧高橋家住宅の中心をなす主屋は、木造平屋建、茅葺きの建築物で、建築面積は143平方メートルに及びます。この規模は、高橋家が地域有数の豪農であったことを物語っています。
主屋に足を踏み入れると、まず広々とした土間が訪れる人を迎えます。土間は日本の伝統的な農家建築において多機能な空間であり、作業場として、来客を迎える場として、そして外部と内部をつなぐ中間領域として機能していました。頭上には力強い梁組みが露出しており、江戸時代の大工職人による高度な技術を間近に見ることができます。
土間の奥には畳敷きの居住空間が広がっています。座敷は客を迎えるための格式高い空間として設えられ、その均整のとれた空間構成と繊細な意匠には、当時の美意識が凝縮されています。
現在、主屋内部は展示やイベントに利用できるよう改装されており、講演会や大規模な講習会、展示空間としての貸出も行われています。歴史的な空間を活用した文化活動の場として、新たな息吹を吹き込まれています。
三棟の土蔵(くら):明治期の建築が語る繁栄の証
主屋を取り囲むように建てられた三棟の土蔵は、それぞれに個性的な特徴を持ち、高橋家の繁栄と当時の建築文化を今に伝えています。
南蔵(みなみぐら)
南蔵は、墨書により明治36年(1903年)の建築であることが判明している、三棟の中で最も新しい土蔵です。建築面積83平方メートル、土蔵造2階建で、切妻造、桟瓦葺の屋根を持ちます。腰部には「海鼠壁(なまこかべ)」と呼ばれる伝統的な意匠が施されており、白壁に黒い目地瓦が格子状に配されたその姿は、独特の美しさを醸し出しています。
1階には10畳の座敷と板間があり、2階は1室の開放的な空間となっています。現在は小規模な展示や講習会に利用できるよう改装されており、7〜8名程度の講習会に適した空間として活用されています。
西蔵(にしぐら)
西蔵は明治時代(1868〜1911年)に建てられた土蔵造2階建で、建築面積は60平方メートルです。主屋の西側に建ち、主屋側を正面として扉口を開いています。桁行4間、梁間2間の平入とし、正面側には全幅にわたって約5尺(約1.5メートル)の庇がかけられています。現在は収蔵庫として活用されており、近世から近代にかけての農村景観を今日に伝える建造物として貴重な存在です。
北蔵(きたぐら)
北蔵は西蔵の北側に接して建てられた土蔵造2階建で、建築面積65平方メートルです。桁行3間、梁間1間半の規模で、屋根は「置屋根」型式と呼ばれる、土蔵の上に独立した屋根を載せる構造を持っています。敷地の西北隅を画する位置に建ち、屋敷全体の構成を整える役割を果たしています。
庭園:四季折々の美しさを映す風景画
旧高橋家住宅の魅力は建築だけにとどまりません。屋敷を取り囲む庭園は、代々の手入れにより大切に守り継がれてきた、もう一つの文化遺産です。
庭園の中心には、樹齢100年を超える多行松(たぎょうまつ)が堂々と枝を広げています。長年の手入れによって整えられたその姿は、日本庭園の美意識を体現するものです。
庭園は四季を通じてさまざまな表情を見せてくれます。春には桜が咲き誇り、新緑が目に鮮やかです。夏には豊かな緑陰が涼を提供し、秋には紅葉が庭を彩ります。そして冬には雪化粧をまとった静謐な風景が広がり、背景の北アルプスの銀嶺とともに墨絵のような美しさを見せてくれます。
庭園は美術館の開館時間中、自由に散策することができます。歴史的建造物と自然が調和する空間で、安曇野の穏やかな時間の流れを感じることができるでしょう。
高橋節郎:漆芸術に革新をもたらした芸術家
旧高橋家住宅は、日本を代表する漆芸術家・高橋節郎(1914〜2007)の生家としても知られています。この地で生まれ育った高橋は、幼少期に親しんだ安曇野の自然風景から深い影響を受け、独自の芸術世界を創り上げました。
高橋節郎は、伝統工芸としての漆工芸を芸術の領域へと高めた革新者です。彼が得意とした技法は「沈金(ちんきん)」と呼ばれるもので、漆面に彫った溝に金を埋め込む技術です。黒漆と金を基調とした作品には、故郷安曇野の星空、古墳、山々などが幻想的に描かれ、見る者を夢幻的な世界へと誘います。
その芸術的功績は高く評価され、1997年(平成9年)には文化勲章を受章しています。現在、生家の敷地内に建設された「安曇野高橋節郎記念美術館」には、漆屏風、漆パネル、乾漆立体作品、墨彩画、書など約3,000点の作品と、約10,000点の関連資料が収蔵されています。
見学のご案内:訪れる前に知っておきたいこと
旧高橋家住宅は、安曇野高橋節郎記念美術館の敷地内に位置しています。歴史的建造物である主屋・土蔵と庭園は、美術館の開館時間中であれば無料で見学することができます。美術館本館の展示室への入場には別途入館料が必要です。
美術館では、高橋節郎が得意とした沈金技法を体験できる「かんたん沈金体験講座」を随時開催しています。どなたでも気軽に参加でき、伝統工芸の奥深さに触れることができる貴重な機会です。
また、主屋と南蔵は文化活動の場として貸出を行っており、講演会、展示会、ワークショップなど、歴史的空間を活用したさまざまな催しに利用されています。
周辺観光情報:安曇野の魅力を満喫する
旧高橋家住宅の周辺には、安曇野ならではの魅力的な観光スポットが数多くあります。
大王わさび農場は、北アルプスからの湧水を利用した日本最大級のわさび農場です。1日約12万トンもの清らかな湧水が流れる農場内は、美しいわさび田の風景を楽しみながら散策できます。黒澤明監督の映画『夢』のロケ地となった三連の水車小屋も必見です。
碌山美術館は、安曇野出身の彫刻家・荻原守衛(碌山)の作品を展示する美術館です。蔦に覆われた赤レンガの建物自体が美しく、安曇野のシンボル的存在となっています。
穂高神社は、安曇野を開拓したとされる安曇族の祖神を祀る神社で、日本アルプスの総鎮守として崇敬を集めています。毎年9月に行われる御船祭りでは、船形の山車が曳き出される勇壮な光景を見ることができます。
自然体験をお求めの方には、レンタサイクルでの田園風景めぐり、穂高温泉郷での温泉入浴、冬季には御宝田遊水池での白鳥観察などがおすすめです。
Q&A
- 旧高橋家住宅の見学は無料ですか?
- はい、主屋・土蔵の歴史的建造物と庭園は、美術館の開館時間中であれば無料で見学できます。美術館本館の展示室(高橋節郎作品の展示)への入場のみ、一般400円、高校・大学生300円の入館料が必要です。中学生以下は無料です。
- 車がなくてもアクセスできますか?
- JR大糸線穂高駅からタクシーで約10分、または有明駅から徒歩約25分でアクセス可能です。穂高駅周辺にはレンタサイクル店も複数あり、自転車で安曇野の風景を楽しみながら訪れることもできます。お車の場合は長野自動車道安曇野ICから約20分、無料駐車場(普通車50台、大型車3台)を完備しています。
- おすすめの季節はありますか?
- 四季それぞれに魅力があります。春(4〜5月)は桜と新緑、夏は緑豊かな庭園と北アルプスの眺望、秋(10〜11月)は紅葉が見事です。冬は雪景色と静謐な雰囲気を楽しめます。庭園には樹齢100年を超える多行松をはじめ、季節ごとに美しい彩りが楽しめる植栽がなされています。
- 見学にどのくらい時間がかかりますか?
- 歴史的建造物、庭園、美術館展示室をゆっくりご覧いただく場合、1〜2時間程度を見込んでください。沈金体験講座に参加される場合は、さらに30分〜1時間ほど追加でお考えください。近隣の大王わさび農場や碌山美術館と合わせて訪れると、充実した一日の観光コースになります。
- 沈金体験はいつでもできますか?
- 「かんたん沈金体験講座」は随時開催されており、どなたでもお気軽に参加できます。また、年に数回、より本格的な漆芸体験も開催されています。詳細や予約については、美術館(電話:0263-81-3030)までお問い合わせください。
基本情報
| 名称 | 旧高橋家住宅(きゅうたかはしけじゅうたく) |
|---|---|
| 文化財指定 | 国登録有形文化財(建造物)/登録日:平成15年(2003年)7月1日 |
| 主屋建築年代 | 江戸時代中期(1751〜1829年頃) |
| 土蔵建築年代 | 明治時代(1868〜1911年)/南蔵は明治36年(1903年)建築 |
| 主屋構造 | 木造平屋建、茅葺(復元)、建築面積143㎡ |
| 北蔵構造 | 土蔵造2階建、瓦葺、建築面積65㎡ |
| 西蔵構造 | 土蔵造2階建、瓦葺、建築面積60㎡ |
| 南蔵構造 | 土蔵造2階建、瓦葺、建築面積83㎡ |
| 所在地 | 〒399-8302 長野県安曇野市穂高北穂高626-12 |
| 併設施設 | 安曇野高橋節郎記念美術館 |
| 開館時間 | 9:00〜17:00 |
| 休館日 | 月曜日(祝日の場合は翌日)、12月28日〜1月4日 |
| 入館料 | 一般400円/高校・大学生300円/中学生以下無料(70歳以上の安曇野市民は無料) |
| アクセス(車) | 長野自動車道 安曇野ICより約20分 |
| アクセス(電車) | JR大糸線 穂高駅よりタクシー約10分/有明駅より徒歩約25分 |
| 駐車場 | 無料(普通車50台、大型車3台) |
| お問い合わせ | 安曇野高橋節郎記念美術館 TEL:0263-81-3030 |
参考文献
- 旧高橋家住宅主屋 - 文化遺産オンライン(文化庁)
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/116304
- 旧高橋家住宅北蔵 - 文化遺産オンライン
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/116507
- 旧高橋家住宅西蔵 - 文化遺産オンライン
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/179646
- 旧高橋家住宅南蔵 - 文化遺産オンライン
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/150035
- 旧高橋家住宅主屋・南の蔵について - 安曇野文化財団
- http://azumino-bunka.com/news/setsuro/news881/
- 安曇野高橋節郎記念美術館 - 施設紹介
- http://azumino-bunka.com/facility/setsuro-museum/
- 安曇野高橋節郎記念美術館 - 長野県博物館協議会
- https://www.nagano-museum.com/info/detail.php?fno=111
- 安曇野高橋節郎記念美術館 - Wikipedia
- https://ja.wikipedia.org/wiki/安曇野高橋節郎記念美術館
最終更新日: 2026.01.28
近隣の国宝・重要文化財
- 北条虎吉像〈荻原守衛作/石膏原型〉
- 長野県南安曇郡穂高町大字穂高5095-1
- 碌山美術館碌山館
- 長野県安曇野市穂高5095-1他
- 曾根原家住宅(長野県南安雲郡穂高町)
- 長野県南安曇野市穂高有明1632番地
- 新屋公民館
- 長野県安曇野市穂高有明1402-1他
- 松尾寺本堂
- 長野県安曇野市穂高有明
- 法蔵寺鐘楼門
- 長野県安曇野市豊科5716
- 法蔵寺庫裏
- 長野県安曇野市豊科5716
- 法蔵寺書院
- 長野県安曇野市豊科5716
- 法蔵寺土蔵
- 長野県安曇野市豊科5716
- 法蔵寺裏門
- 長野県安曇野市豊科5716