江戸城跡のヒカリゴケ生育地:大都会・東京に息づく奇跡の苔

東京の中心部、皇居に隣接する北の丸公園の一角に、日本で最も不思議な天然記念物が静かに存在しています。「江戸城跡のヒカリゴケ生育地」は、交通量の多い首都高速道路や幹線道路に囲まれた都心において、神秘的なエメラルドグリーンの輝きを放ち続ける稀有な場所です。自然と歴史が交差するこの場所は、日本の国指定天然記念物の中でも極めてユニークな存在として知られています。

ヒカリゴケとは

ヒカリゴケ(光蘚、学名:Schistostega pennata)は、ヒカリゴケ科ヒカリゴケ属に属する原始的なコケ植物です。1科1属1種という、植物界でも極めて珍しい存在であり、北半球の冷涼な地域に分布しています。日本では北海道と本州中部以北の高山帯に自生しています。

その名の通り「光る苔」ですが、実際にはホタルのように自ら発光しているわけではありません。ヒカリゴケの原糸体(胞子が発芽して形成する糸状の構造)には、レンズ状の球形細胞が存在します。この細胞が洞窟の入り口などから差し込むわずかな光を集め、内部の葉緑体で反射させることで、金緑色(エメラルドグリーン)に輝いて見えるのです。いわば、自然界が生み出した精巧な光学システムです。

このコケは通常、標高1,700〜2,500メートルの亜高山帯において、洞窟内や倒木の陰、岩の隙間など、薄暗く湿った環境で生育します。最適な光量は40〜300ルクス程度と、極めて暗い条件を好みます。環境の変化に非常に敏感で、わずかな環境変化でも枯死してしまうほど繊細な生物です。

驚きの発見物語

1969年(昭和44年)4月29日の午後2時頃、書道家の石川幸八郎氏は、自宅のある千代田区一番町から程近い千鳥ヶ淵の畔を散歩していました。ふと石垣の隙間を覗くと、何かが光っているのが目に入りました。近づいてよく観察すると、数百匹のホタルが群がっているように見える黄緑色の輝きがありました。それが光るコケであることに気づいた石川氏は、すぐに文化庁に連絡を取りました。

文化庁から紹介された植物学者の武田久吉博士が約1週間後に現地を確認し、石垣の隙間に生育するコケがヒカリゴケに間違いないと同定しました。しかし、東京都心にヒカリゴケが生育するということは、従来の植物学の常識では考えられないことでした。武田博士は念のため、蘚苔学の専門家で国立科学博物館の井上浩研究員にも確認を依頼しました。

5月12日に現地を訪れた井上氏は、石垣の隙間でヒカリゴケを確認した際、にわかには信じられず目をこすって驚いたといいます。井上氏は後に、「一般には2,000m以上の高山で、空気の極めて清浄な所にしか分布しないものだ。皇居の石垣はそれよりもなお低地でしかも大気汚染の中にあって生育していることは、学者の常識を破るものであり、また学問的にも価値のある存在である。まさに驚異的発見である」と記しています。

天然記念物に指定された理由

1972年(昭和47年)6月14日、「江戸城跡のヒカリゴケ生育地」は国の天然記念物に指定されました。その指定理由には、いくつかの重要な価値が認められています。

第一に、都市部での生育という稀少性です。それまで国指定天然記念物のヒカリゴケ生育地は、長野県佐久市の「岩村田ヒカリゴケ産地」(大正10年指定)と埼玉県比企郡吉見町の「吉見百穴ヒカリゴケ発生地」(昭和3年指定)の2件のみでした。首都高速都心環状線や内堀通り、靖国通りといった交通量の多い道路のすぐ近くで、環境に敏感なヒカリゴケが生育していることは極めて異例です。

第二に、学術的価値の高さです。従来の植物学の常識を覆す発見であり、都市環境におけるコケ植物の生態研究に重要な示唆を与えています。

第三に、歴史的・文化的意義です。生育地は国の特別史跡「江戸城跡」の一部であり、江戸時代に諸大名が献上した石垣の石に付着していた胞子が生き残った可能性が高いとされています。

さらに、東京23区内にある国指定天然記念物6件のうち、最も都心に位置する天然記念物であり、千代田区内唯一の国指定天然記念物でもあります。

秘密にされる正確な所在地

この天然記念物には、他の多くの文化財とは異なる特徴があります。それは、正確な所在地が公表されていないことです。北の丸公園内には、天然記念物であることを示す石碑や標識は一切設置されておらず、一般公開もされていません。環境省皇居外苑管理事務所による厳重な管理のもと、立ち入りは禁止されています。

非公開とされている理由はいくつかあります。まず、生育地を含む一帯が国の特別史跡「江戸城跡」に指定されているため、保護柵などを設置するには現状変更の手続きが必要となり、困難が伴います。また、皇居に隣接する場所柄、警備上の問題もあります。さらに、ヒカリゴケが極めて環境変化に敏感であることから、見学者による悪影響を避ける必要があります。

1981年(昭和56年)と2011年(平成23年)に行われた学術調査では、約200メートルにわたる石垣のうち複数箇所でヒカリゴケの生育が確認されています。2011年の調査では、国立科学博物館の樋口正信らにより4地点で生育が確認され、いずれも生育状況・発光状況ともに良好であることが報告されています。

都心で生き延びる秘密

なぜこの繊細なコケが、このような都市環境で生き延びることができるのでしょうか。科学者たちは、江戸城の巨大な石垣が作り出す独特の微小環境がその答えだと考えています。

古い石垣の深い隙間は、いわば天然のエアコンのような働きをし、外部の環境変化に関わらず、ヒカリゴケに必要な温度・湿度・光量を維持していると考えられています。石垣は千鳥ヶ淵に面し、樹木が覆いかぶさるように茂る場所にあるため、都心にありながら森林の中のような環境が形成されています。

発見者の石川氏による観察では、ヒカリゴケは季節によって変化を見せます。冬の厳しい寒さと乾燥の時期には光を失いますが、春になると再び輝きを取り戻します。7月下旬の酷暑の時期でも、石垣の隙間は涼しく、ヒカリゴケはよく繁殖していたと記録されています。

訪問者へのご案内

ヒカリゴケ自体を見学することはできませんが、北の丸公園とその周辺の江戸城跡を訪れることで、自然と歴史の両方を楽しむことができます。

北の丸公園は、かつての江戸城北の丸に由来する約19.3ヘクタールの森林公園です。園内には科学技術館、東京国立近代美術館、日本武道館などの文化施設があり、四季折々の自然を楽しみながら散策できます。旧江戸城の田安門と清水門は国の重要文化財に指定されており、往時の城郭建築の面影を今に伝えています。

ヒカリゴケが秘かに生育する千鳥ヶ淵は、春には約260本のソメイヨシノが咲き誇る東京屈指の桜の名所として知られています。夜間はライトアップされ、ボートからの夜桜見物も楽しめます。

実際にヒカリゴケを見たい方には、埼玉県比企郡吉見町の「吉見百穴」がおすすめです。古墳時代の横穴墓群である吉見百穴では、一部の横穴内でヒカリゴケを見学することができます。

周辺の見どころ

北の丸公園周辺には、多くの見どころがあります。隣接する皇居東御苑は、旧江戸城本丸・二の丸・三の丸の跡地を整備した庭園で、無料で一般公開されています。園内では江戸城天守台跡や美しい日本庭園を楽しめます。

北へ足を延ばすと靖国神社と遊就館があり、日本の近現代史を学ぶことができます。神田・神保町方面には古書店街が広がり、知的散策にぴったりです。また、内堀通り沿いの銀杏並木は、秋には黄金色に輝く美しい景観を見せてくれます。

Q&A

Q江戸城跡のヒカリゴケは見学できますか?
Aいいえ、見学することはできません。生育地の正確な場所は非公開であり、立ち入りは禁止されています。北の丸公園内にはヒカリゴケに関する標識や案内板も設置されていません。この貴重な天然記念物を保護するための措置です。
Qヒカリゴケは本当に光っているのですか?
Aヒカリゴケはホタルのように自ら発光しているわけではありません。原糸体にあるレンズ状の細胞が、洞窟の入り口などから差し込むわずかな光を集光・反射することで、エメラルドグリーンに輝いて見えます。そのため、完全な暗闘や明るい場所では光って見えず、薄暗い場所で光源を背にして見たときに最もよく光って見えます。
Q日本でヒカリゴケを見られる場所はありますか?
A国指定天然記念物としては、長野県佐久市の「岩村田ヒカリゴケ産地」と埼玉県吉見町の「吉見百穴ヒカリゴケ発生地」があります。吉見百穴では古墳時代の横穴墓内でヒカリゴケを見学することができます。また、北海道羅臼町のマッカウス洞窟や長野県駒ヶ根市の光前寺など、地方自治体によって保護されている生育地もあります。
Qなぜ都市部でヒカリゴケが珍しいのですか?
Aヒカリゴケは環境変化に極めて敏感で、特定の湿度・温度・光量(40〜300ルクス程度)を必要とします。大気汚染、気温変動、開発による生息地の破壊など、都市環境は通常ヒカリゴケの生育に適しません。江戸城跡の石垣は、その隙間が山の洞窟のような安定した微小環境を作り出しているため、奇跡的に生育が可能になっています。
Q北の丸公園へのアクセス方法を教えてください。
A都営新宿線・東京メトロ半蔵門線「九段下駅」から徒歩約5分、東京メトロ東西線「竹橋駅」から徒歩約5分です。公園自体は24時間開放されており、入園料は無料です。園内の施設(科学技術館、東京国立近代美術館など)は別途開館時間と入館料があります。

基本情報

名称 江戸城跡のヒカリゴケ生育地(えどじょうあとのひかりごけせいいくち)
指定区分 国指定天然記念物(史跡名勝天然記念物)
指定年月日 1972年(昭和47年)6月14日
所在地 東京都千代田区北の丸公園
生育種 ヒカリゴケ(光蘚)学名:Schistostega pennata
管理者 環境省 皇居外苑管理事務所
一般公開 非公開(所在地は非公表)
最寄り駅 都営新宿線・東京メトロ半蔵門線「九段下駅」徒歩約5分、東京メトロ東西線「竹橋駅」徒歩約5分
公園開園時間 24時間(園内施設は別途)
入園料 無料(北の丸公園)
発見者 石川幸八郎(書道家)1969年4月29日発見

参考文献

江戸城跡のヒカリゴケ生育地 - 文化遺産データベース
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/201386
江戸城跡のヒカリゴケ生育地 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/江戸城跡のヒカリゴケ生育地
皇居外苑の一年間(8月)- 環境省
https://www.env.go.jp/garden/kokyogaien/1_intro/08_aug.html
ヒカリゴケ - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヒカリゴケ
国指定文化財等データベース - 文化庁
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/726
北の丸公園 - 千代田区観光協会
https://visit-chiyoda.tokyo/app/spot/detail/12

最終更新日: 2026.01.28

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