はじめに:知られざる教育遺産の魅力

和歌山県新宮市の歴史ある街並みに、約90年もの歳月を静かに見守ってきた一棟の建物があります。2024年12月に登録有形文化財として新たに登録された「旧羽根学園熊野高等経理学校校舎」は、戦前日本の商業教育の姿を今に伝える貴重な建造物です。京都や奈良の有名観光地とは一味違う、日本の教育と建築の歴史を肌で感じられる穴場スポットとして、ぜひ訪れていただきたい場所です。

旧羽根学園熊野高等経理学校校舎とは

旧羽根学園熊野高等経理学校校舎は、1937年(昭和12年)に建設された木造2階建ての学校建築です。1965年(昭和40年)には東側に鉄骨造の別棟が増築されています。この学校は、会計・簿記・珠算(そろばん)といった実務的な商業技能を若者に教育する機関として、地域の経済発展に貢献してきました。

建物は新宮城跡(丹鶴城跡)の南側に位置し、通りに西面して建っています。熊野信仰の中心地として、また熊野川の舟運を活用した木材集散地として栄えた新宮の歴史的中心部に位置することからも、当時の商業教育がいかに重要視されていたかがうかがえます。

なぜ登録有形文化財に登録されたのか

2024年(令和6年)12月3日、この建物は「国土の歴史的景観に寄与しているもの」という基準により、国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。登録番号は30-0376、登録回は第108回となっています。

この登録は、建物が持ついくつかの重要な価値を認めたものです。まず、昭和初期の教育機関に採用された洋風建築様式の代表例として建築史的な価値があります。また、建設当時の意匠や間取りがほぼ原形のまま残されており、当時の商業教育がどのように行われていたかを知る上で貴重な資料となっています。さらに、戦前日本社会において、珠算をはじめとする実務的なビジネススキルがいかに重視されていたかを物語る生きた証拠でもあります。

建築の特徴と見どころ

この建物は、昭和初期の教育機関建築に見られる和洋折衷のスタイルを見事に体現しています。

構造は木造一部鉄骨造の2階建てで、建築面積は215平方メートルです。屋根は伝統的な入母屋造で桟瓦葺き(一部鉄板葺き)となっており、日本の伝統的な屋根形式を採用しています。一方、外壁は下見板張りの洋風仕上げとなっており、当時の近代的な学校建築の特徴をよく表しています。

1階は中廊下形式という、当時の学校建築に典型的なレイアウトで、廊下を中心に両側に教室が配置されていました。2階は一室の大教室となっており、多人数での一斉授業に対応できる設計となっています。東側半分は1965年に増築された鉄骨造の別棟で、時代の変化に応じた機能拡充の歴史も読み取ることができます。

四つ玉算盤の欄間:商業教育の象徴

この建物で最も目を引く、そして最も魅力的な特徴は、玄関ポーチに掲げられた「四つ玉算盤」をモチーフにした装飾欄間です。この独特な意匠は、建物が商業学校であることを一目で伝えると同時に、珠算能力が商売や金融の世界で必須とされていた時代を美しく象徴しています。

「四つ玉算盤」というモチーフ選択には、深い歴史的意義があります。伝統的な中国式算盤は下段に5つの珠がありましたが、日本式算盤は1935年(昭和10年)の教科書改訂を機に、上段1珠・下段4珠の形式に統一されました。この学校が建設された1937年は、その統一からわずか2年後のことです。つまり、この欄間の四つ玉算盤は、当時最新の商業教育の方法論を象徴するものだったのです。

文化遺産オンラインの解説でも、この欄間について「開学時の息吹を伝える」と特筆されています。この装飾的な細部は、建物がかつて担った教育的使命を今に直接語りかけてくる、かけがえのない建築的遺産なのです。

歴史的背景:戦前日本の商業教育

この建物を深く理解するためには、昭和初期の日本における商業教育の重要性を知ることが助けになります。この時代、珠算(そろばん)は単なる便利な技術ではなく、銀行・会計・一般事務職に就こうとする者にとって絶対必須の能力でした。

1935年の全国的な教科書改訂により、珠算教育は小学校で必修となりました。羽根学園熊野高等経理学校のような専門学校では、ビジネスの道を志す学生たちに高度な訓練を提供していました。そうした学校の生徒たちは毎日何時間も計算練習を重ね、電子計算機のない時代に複雑な商取引を処理するために必要な速度と正確さを身につけていったのです。

熊野地方の材木交易の中心地として歴史的に栄えてきた新宮市には、こうした商業的訓練を受けた人材への自然な需要がありました。城跡に隣接する商業地区の中心部という学校の立地は、地元の経済界との密接な結びつきを物語っています。

周辺情報:新宮の見どころ

この建物の周辺には、新宮の豊かな文化遺産を探索する絶好の機会が広がっています。

新宮城跡(丹鶴城跡)は、校舎のすぐ北側に位置しています。国指定史跡であるこの城跡からは、熊野川と太平洋の壮大なパノラマを望むことができます。1633年に完成したこの城は、紀州藩付家老の水野氏10代にわたる居城として新宮の発展を支えました。現在残る石垣と美しい丘の上の公園は、歴史愛好家にとっても、春の桜の季節に訪れる人にとっても、魅力的なスポットです。

熊野速玉大社は、熊野三山の一つとしてユネスコ世界遺産に登録されています。徒歩約10分の距離にあり、千年以上にわたって熊野信仰の中心として崇敬を集めてきた古社です。

神倉神社もまた世界遺産の構成資産で、538段の急峻な石段を登った先にご神体のゴトビキ岩があります。熊野の神々が最初に降臨したとされる霊地で、挑戦的な登りの先には息を呑むような眺望と深い精神性が待っています。毎年2月6日に行われる「御燈祭り」は、熊野に春を告げる勇壮な火祭りとして有名です。

新宮市立歴史民俗資料館は阿須賀神社境内にあり、弥生時代から江戸時代にいたる遺物を展示しています。蓬莱山から出土した御正体や城下町絵図など、地域の歴史を深く理解するための貴重な資料が揃っています。

アクセス・訪問のポイント

新宮市へはJRきのくに線でアクセスできます。大阪からは特急「くろしお」で新宮駅まで約4時間、名古屋からは特急「南紀」で約3時間30分です。旧羽根学園校舎は、JR新宮駅から徒歩約10分の場所にあります。

建物は丹鶴(たんかく)エリアに位置しています。この地名は、源為義の娘・丹鶴姫がかつてこの地に住まいを構えたことに由来しており、城郭と重要な公共施設が集まる歴史的に重要な地区です。

訪問の際には、現在この建物が株式会社HANEヘリテージの所有であり、民間によって保存・管理されていることをご理解ください。外観の見学は可能ですが、内部への立ち入りは制限されている場合があります。最新の見学条件や特別公開イベントについては、新宮市観光協会にお問い合わせいただくことをお勧めします。

新宮市内の世界遺産スポットと組み合わせて半日から1日の文化探訪を計画すれば、より充実した体験が得られるでしょう。また、新宮は佐藤春夫や中上健次といった文学者ゆかりの地でもあり、文学散歩を加えることもできます。

この文化財を訪れる意義

定番の観光地を超えて日本の深い魅力を知りたい方にとって、旧羽根学園熊野高等経理学校校舎には独自の魅力があります。

第一に、これは復元や大規模修復を経ていない、本物の地域遺産です。1937年の建設以来、建物は本来の性格と雰囲気を保ちながら継続的に保存されてきました。

第二に、一般的な旅行コースではなかなか出会えない物語、すなわち日本の教育史と、かつて何世代もの日本のビジネスパーソンを形作った珠算という技能の物語を伝えています。

第三に、2024年12月に文化財登録されたばかりであり、この新たに認知された遺産を訪れる先駆者となることができます。

そして最後に、熊野地方の中心という立地は、世界遺産の巡礼路や神聖な神社への訪問と組み合わせることを可能にし、日本の伝統への包括的な理解を深める旅を実現してくれます。

Q&A

Q建物に飾られている算盤の装飾にはどのような意味がありますか?
A玄関ポーチ上部の四つ玉算盤(よつだまそろばん)の欄間は、この建物が商業学校として建てられたことを象徴しています。1935年に日本で標準化された四つ玉算盤の意匠であり、学校建設の2年前に採用されたばかりの最新式でした。珠算能力がビジネスキャリアに不可欠だった時代を美しく伝える、貴重な装飾です。
Q建物の内部は見学できますか?
Aこの建物は株式会社HANEヘリテージが所有する民間の施設です。外観の見学は一般的に可能ですが、内部への立ち入りは制限されている場合があります。最新の見学条件や特別公開イベントについては、訪問前に新宮市観光協会(電話:0735-22-2840)へお問い合わせいただくことをお勧めします。
QJR新宮駅からどのように行けばよいですか?
A旧羽根学園校舎はJR新宮駅から徒歩約10分の場所にあります。駅から北に向かい、新宮城跡(丹鶴城公園)を目指してください。建物は新宮城跡のすぐ南側、丹鶴二丁目エリアに位置しています。
Q周辺にはどのような観光スポットがありますか?
A徒歩圏内に多くの見どころがあります。新宮城跡(丹鶴城公園)はすぐ隣接しており、熊野速玉大社(世界遺産)は徒歩約10分、神倉神社(世界遺産)は徒歩約15分です。また、佐藤春夫記念館や中上健次資料収集室など、地元ゆかりの文学者に関する施設、新宮市立歴史民俗資料館なども近くにあります。
Qなぜ2024年に文化財に登録されたのですか?
A2024年(令和6年)12月3日に「国土の歴史的景観に寄与しているもの」という基準により、国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。戦前の商業学校建築の希少な現存例として、昭和初期の教育精神を原形のまま伝えている点が評価されています。建設当時の洋風意匠や四つ玉算盤の欄間など、開学時の息吹を今に伝える貴重な建造物です。

基本情報

名称 旧羽根学園熊野高等経理学校校舎(きゅうはねがくえんくまのこうとうけいりがっこうこうしゃ)
文化財種別 登録有形文化財(建造物)
登録番号 30-0376
登録年月日 2024年(令和6年)12月3日
登録基準 国土の歴史的景観に寄与しているもの
竣工年 1937年(昭和12年)/1965年(昭和40年)増築
構造・形式 木造一部鉄骨造2階建、瓦葺一部鉄板葺
建築面積 215㎡
所在地 和歌山県新宮市丹鶴二丁目7683-51
所有者 株式会社HANEヘリテージ
アクセス JR新宮駅から徒歩約10分

参考文献

文化遺産オンライン - 旧羽根学園熊野高等経理学校校舎
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/620649
国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/101/00015215
新宮市観光協会 - 新宮城跡(丹鶴城跡)
https://www.shinguu.jp/spots/detail/A0004
新宮市観光協会 - 世界遺産のまち 熊野の都 新宮
https://www.shinguu.jp/shinguu
和歌山県公式観光サイト - 新宮(丹鶴)城跡
https://www.wakayama-kanko.or.jp/spots/detail_1035.html
Wikipedia - そろばん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9D%E3%82%8D%E3%81%B0%E3%82%93
公益社団法人 全国珠算学校連盟 - 珠算の歴史
https://shuzan-gakko.com/soroban/rekishi10.html

最終更新日: 2026.01.28

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