二つの聖域が出会う奇跡の曼荼羅

東京・南青山の根津美術館に、日本美術史上でも類を見ない貴重な絵画が収蔵されています。それが「絹本著色春日補陀落山曼荼羅図(けんぽんちゃくしょくかすがふだらくせんまんだらず)」です。鎌倉時代に制作されたこの絹本着色の掛幅は、2006年に重要文化財に指定されました。

一幅の絹の上に、観音菩薩が住まう伝説の聖山「補陀落山」と、奈良の春日大社の神域が同時に描かれた本作は、神仏習合という日本独自の信仰のかたちを最も美しく視覚化した作品の一つです。海外からの訪問者の方々にとっても、日本の宗教美術の奥深さと精神性を体感できる貴重な機会となることでしょう。

神秘的な画面構成の秘密

この曼荼羅の最大の特徴は、画面を上下に二分する大胆な構成にあります。画面上半分には、四方を海に囲まれた補陀落山が描かれています。山上には半跏(はんか)の姿で座す十一面観音菩薩が金色の光を放ち、皆金色身(かいこんじきしん)で荘厳に表現されています。

山麓には殿舎や舟、人物の姿が細密に描き込まれ、山中には瞑想する羅漢や徘徊する獅子などが配されています。一方、画面下半分には、たなびく霞を隔てて春日大社の社頭と御蓋山(みかさやま)が俯瞰的に描かれています。朱塗りの鳥居と社殿、そして聖なる神鹿の姿も確認できます。

この驚くほど細密な描写は、当時の貴族階級の洗練された美意識を反映したものと考えられています。

貞慶と鎌倉時代の観音信仰

この曼荼羅が生まれた背景には、鎌倉時代初期の南都(奈良)における宗教的な動きがありました。その中心人物が、興福寺の僧・貞慶(じょうけい、1155-1213)です。

貞慶は釈迦如来、弥勒菩薩、そして観音菩薩への深い信仰で知られ、観音信仰の振興に大きく貢献しました。彼が活躍した時代、春日大社四宮の祭神の「本地仏」(神の本来の姿とされる仏)が十一面観音であるという信仰が広まりました。

この春日信仰と観音信仰の融合が、本図のような独特の宗教画を生み出す土壌となったのです。春日補陀落山曼荼羅は、まさにこうした信仰の所産として、他に類例を見ない貴重な作品となっています。

重要文化財に指定された理由

2006年6月9日、この曼荼羅は国の重要文化財に指定されました。その理由として、以下のような点が評価されています。

  • 唯一無二の図像:春日社頭と補陀落山浄土を一幅に組み合わせた作例は、現存する美術品の中で他に確認されていません。
  • 卓越した芸術性:驚くほど細密な描写と、金泥を効果的に用いた荘厳な表現は、鎌倉時代の宮廷文化の精華を伝えています。
  • 宗教史的価値:神仏習合の信仰がいかに具体的な美術表現として結実したかを示す、貴重な歴史的証言となっています。
  • 良好な保存状態:700年以上の時を経てなお、絹本の状態と彩色が比較的良好に保たれています。

補陀落山とは何か

補陀落(ふだらく)とは、サンスクリット語の「ポータラカ(Potalaka)」の音訳で、観音菩薩が住まうとされる伝説上の霊山です。インドの南端の海岸にあるとされ、その山の形状は八角形であると伝えられています。

チベットのポタラ宮の「ポタラ」、中国の普陀山、そして日本の日光(二荒→ふたら→にこう→日光という変遷説がある)や熊野なども、この補陀落に擬えられてきました。

日本では中世、この補陀落浄土を目指して小舟で海に漕ぎ出す「補陀落渡海」という宗教的実践が行われました。熊野・那智の補陀洛山寺からは、868年から1722年までの間に25名もの僧が渡海したと記録されています。本曼荼羅に描かれた補陀落山は、まさにこうした強烈な憧れの対象となった聖地そのものなのです。

春日大社と興福寺の深い絆

曼荼羅の下半分に描かれた春日大社は、768年に創建された藤原氏の氏神です。奈良市の御蓋山の麓に鎮座し、現在も年間を通じて多くの参拝者を迎えています。

春日大社は、藤原氏の氏寺である興福寺と密接な関係にありました。神仏習合の時代、両者は一体として信仰され、春日曼荼羅と呼ばれる様々な絵画が制作されました。宮曼荼羅、社寺曼荼羅、鹿曼荼羅など、多様なバリエーションが存在します。

その中でも、補陀落山という仏教的な浄土観を直接的に取り入れた本作は、極めて異色の存在といえるでしょう。

根津美術館で出会う至宝

春日補陀落山曼荼羅が収蔵されている根津美術館は、東京メトロ表参道駅から徒歩約8分の場所にあります。東武鉄, 道の社長などを務めた実業家・初代根津嘉一郎(1860-1940)のコレクションをもとに、1941年に開館しました。

現在の建物は、2009年に建築家・隈研吾の設計により新創オープンしたもので、竹の生垣が続くアプローチと、大屋根が印象的な和モダンな佇まいが特徴です。国宝7件、重要文化財約90件を含む約7,600点の東洋古美術コレクションを誇ります。

美術館に併設された約17,000平方メートルの日本庭園も見逃せません。茶室が点在する庭園を散策しながら、曼荼羅が描く神仏の世界に思いを馳せるのも一興です。庭園を望むNEZUCAFÉで一息つくのもおすすめです。

根津美術館の外観と竹のアプローチ - 隈研吾設計による和モダン建築

訪問のポイント

春日補陀落山曼荼羅は常設展示ではなく、特別展や企画展の際に公開されることがあります。訪問前に必ず根津美術館の公式ウェブサイトで展示スケジュールをご確認ください。

美術館はオンラインによる日時指定予約制を採用しています。特に週末や祝日は混雑が予想されますので、平日午前中の来館がおすすめです。

表参道というファッショナブルなエリアに位置しているため、美術鑑賞の前後にショッピングやカフェ巡りを楽しむこともできます。東京観光の中でも、日本の伝統文化と現代文化を同時に体験できる貴重なスポットです。

時を超えて伝わる祈りのかたち

春日補陀落山曼荼羅は、単なる美術品を超えた存在です。それは、鎌倉時代の人々が抱いた救済への願い、彼岸の浄土への憧れ、そして神と仏が一体となって人々を守護するという深い信仰を、一幅の絹の上に結晶させたものです。

現代を生きる私たちがこの曼荼羅を前にするとき、700年以上前の人々と同じ精神的風景を共有することができます。国境や時代を超えて、人間の祈りの普遍性を教えてくれる—それがこの曼荼羅の持つ最大の魅力ではないでしょうか。

Q&A

Q春日補陀落山曼荼羅はいつでも見られますか?
A残念ながら常設展示ではありません。重要文化財の保存のため、特別展や企画展の際に限定的に公開されます。根津美術館の公式サイトで最新の展示情報をご確認のうえ、お越しください。
Q他の春日曼荼羅との違いは何ですか?
A一般的な春日宮曼荼羅は春日大社の社殿や景観を描いたものですが、本作は上半分に補陀落山という仏教的浄土を配している点が決定的に異なります。春日社頭と補陀落浄土を一幅に組み合わせた作例は、現存作品の中で他に確認されていません。
Q根津美術館と春日大社の両方を訪れることはできますか?
Aもちろん可能です。根津美術館は東京、春日大社は奈良にあり、新幹線と近鉄線を利用して約2時間30分で移動できます。曼荼羅を鑑賞した後に実際の春日大社を参拝することで、より深い理解と感動を得られるでしょう。
Q「補陀落」とは何を意味しますか?
A補陀落(ふだらく)はサンスクリット語「ポータラカ(Potalaka)」の音訳で、観音菩薩が住まう伝説の霊山を指します。インドの南海にあるとされ、日本では熊野や日光がこの補陀落になぞらえられてきました。チベットのダライ・ラマが住んだポタラ宮もこの名に由来します。
Qなぜ十一面観音が描かれているのですか?
A鎌倉時代初期の南都では、春日大社四宮の祭神の「本地仏」(神の本来の姿とされる仏)が十一面観音であるとする信仰が広まりました。貞慶を中心とした観音信仰の高まりと、この春日四宮信仰が融合したことで、本図のような独特の図像が生まれたと考えられています。

基本情報

正式名称 絹本著色春日補陀落山曼荼羅図(けんぽんちゃくしょくかすがふだらくせんまんだらず)
時代 鎌倉時代(13世紀)
技法 絹本着色
寸法 縦約98.8cm × 横約55.0cm
形式 1幅(掛幅装)
文化財指定 重要文化財(2006年6月9日指定)
所蔵 公益財団法人根津美術館
所在地 〒107-0062 東京都港区南青山6-5-1
開館時間 午前10時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日 毎週月曜日(祝日の場合は翌火曜日)、展示替期間、年末年始
入館料 特別展:一般1,500円、学生1,200円/企画展:一般1,300円、学生1,000円/中学生以下無料
アクセス 東京メトロ銀座線・半蔵門線・千代田線「表参道」駅A5出口より徒歩約8分
電話番号 03-3400-2536
公式サイト https://www.nezu-muse.or.jp/

参考文献

絹本著色春日補陀落山曼荼羅図 - 文化遺産オンライン
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/171331
春日補陀落山曼荼羅 - 文化遺産オンライン(根津美術館)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/146504
春日曼荼羅 - コトバンク
https://kotobank.jp/word/春日曼荼羅-44522
補陀落 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/補陀落
貞慶 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/貞慶
春日宮曼荼羅 - 奈良国立博物館
https://www.narahaku.go.jp/collection/1494-0.html
根津美術館 公式サイト
https://www.nezu-muse.or.jp/
根津美術館 利用案内
https://www.nezu-muse.or.jp/sp/guide/

最終更新日: 2026.01.14

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