国宝 菊造腰刀〈刀身無銘伝当麻〉——鎌倉の武士が腰に帯びた菊花の名刀
山口県防府市の毛利博物館には、日本刀の歴史と装飾美術の粋を凝縮した一振りの短刀が伝えられています。「菊造腰刀〈刀身無銘伝当麻〉(きくづくりこしがたな〈とうしんむめいでんたいま〉)」——昭和27年(1952年)に国宝に指定されたこの腰刀は、刃長わずか26.5センチメートルながら、鎌倉時代末期の大和伝の鍛冶技術と、菊花意匠を主題とした繊細精巧な拵(こしらえ)が一体となった、現存する同種の遺品の中でも最高水準の逸品です。
「腰刀」とは、上級武士が大刀(太刀)とともに腰に差した短い刀のことであり、鐔(つば)のない合口造りが特徴です。実用的な武器であると同時に、武士の身分と美意識を表す装身具でもありました。本品の名称「菊造り」は、柄や鞘をはじめ各所に施された華麗な菊花の意匠に由来します。
刀身——大和伝・当麻派の風格を伝える鎌倉末期の名刃
本品の刀身は無銘ですが、古来「当麻(たいま)」の作と伝えられてきました。当麻派は、大和国(現在の奈良県)北葛城郡当麻を拠点とした刀工の一派で、大和五派(千手院・手掻・当麻・保昌・尻懸)のひとつに数えられます。祖は国行(くにゆき)と伝えられ、宝治年間(1247〜1249年)あるいは正応年間(1288〜1293年)頃に活躍した人物とされています。当麻派にはこのほか、俊行・友清・友綱・友長・有法師・有俊・信長などの刀工がいました。
刀身は鵜首造り(うのくびづくり)で反りがなく、鎬地(しのぎぢ)の先の厚みを落とした独特の形状を持っています。この造り込みは冠落造り(かんむりおとしづくり)とも呼ばれ、大和物に多く見られる特徴です。表裏には薙刀樋(なぎなたひ)が彫られ、力強い印象を与えます。鍛えは柾目(まさめ)で、沸出来(にえでき)の直刃(すぐは)を焼いており、いずれも大和伝・当麻派の典型的な作風を忠実に示しています。
七百年以上の歳月を経ながらも刀身の健全さが保たれ、鍛え肌や刃文がはっきりと観察できる状態にあることは、作刀当時の卓越した技術を物語っています。
拵——菊花が咲き誇る精巧な装飾世界
この腰刀が「菊造り」と呼ばれる所以は、何といってもその拵(こしらえ)の美しさにあります。鐔のない合口造りで、拵の鞘長は30.8センチメートル。柄と鞘の両方が金梨子地(きんなしじ)で仕上げられています。金梨子地とは、透明な漆の層の下に金粉を蒔いて梨の肌のような光沢を生み出す技法であり、その温かみのある金色の輝きは日本の漆工芸の中でも特に愛されてきた表現のひとつです。
柄には赤銅魚々子地(しゃくどうななこじ)——赤銅(銅と金の合金で、深い紫黒色の色合いを持つ)の表面に魚の卵のような微細な粒状の文様を打ち出した地——の上に、枝菊(えだぎく)が高彫り(たかぼり)で表現されています。菊の枝葉や花弁が立体的に浮かび上がる様は、金属工芸の域を超えた芸術作品と言えるでしょう。所々に銀の色絵(いろえ)が施され、温かな赤銅と冷たい銀の色調が絶妙なコントラストを生んでいます。
柄と鞘の合わせ目に入る筒金(つつがね)は銀の小縁で、この「筒金入り」の構造は中世の軍記物語にしばしば登場する腰刀の特徴です。小柄(こづか)、笄(こうがい)、鐺(こじり)も同じ菊花の彫り模様で統一されており、一揃いの作として制作されたことがわかります。目貫(めぬき)の菊花のみが後補とされていますが、それ以外はすべて同時代の繊細精巧な作柄で、室町時代初期を下らぬものとされています。
なぜ国宝に指定されたのか——その文化的価値
菊造腰刀が国宝に指定された理由は、以下のような複合的な文化的価値にあります。
第一に、中世の軍記物語に散見される「筒金入りの腰刀」の現存する遺品がきわめて少ない中で、本品はその種のもののうちで最も優れた作品のひとつであるという希少性です。同種の優品としては、広島県の厳島神社に伝わる筒金入りの腰刀が知られていますが、本品はそれに劣らぬ品格を備えているとされています。
第二に、刀身そのものが鎌倉時代末期の大和物として典型的かつ健全であり、当麻派の作風を明確に示す学術的に重要な資料であることです。無銘ではあるものの、造り込み・鍛え・刃文のいずれもが当麻派の特徴と合致しており、大和伝の刀工技術を今日に伝える貴重な一振りです。
第三に、拵と刀身が一体として同時代の高い水準を保っている点が挙げられます。刀身の優秀さと装飾の精巧さがともに揃う例は稀有であり、日本の中世武家文化の美意識を総合的に体現する文化財として、最高の評価を受けています。
見どころ・鑑賞のポイント
菊造腰刀を鑑賞する際には、いくつかの注目すべきポイントがあります。まず、柄に彫られた枝菊の高彫りをじっくりと観察してみてください。暗い赤銅の地金から浮かび上がる菊の枝葉は、驚くほど自然で立体的な表現です。銀の色絵が加わることで、花弁や葉の一つひとつに繊細な表情が生まれています。
次に、金梨子地の柄と鞘に注目してください。七百年以上の時を経ながらも、金粉が透き漆の中で柔らかく光るその表面は、日本の漆工芸の美しさを象徴するものです。
刀身に関心のある方は、大和伝の特徴をよく示す鍛え肌と刃文に注目するとよいでしょう。鋼の表面に現れるまっすぐな柾目肌と、刃先に沿って静かに走る直刃の美しさは、当麻派の鍛冶技術の高さを実感させてくれます。鵜首造りの独特な切先の形状も見逃せないポイントです。
そして、柄と鞘の合わせ目にある筒金——中世の武士が実際に用いた腰刀の構造を今に伝えるこの金具の存在は、この短刀が単なる美術品ではなく、鎌倉時代の武家社会と直接つながる歴史的遺物であることを教えてくれます。
毛利博物館——旧長州藩主が伝えた文化の宝庫
菊造腰刀を所蔵する毛利博物館は、旧萩(長州)藩主・毛利家の防府の本邸を博物館として公開したものです。毛利家は戦国時代の名将・毛利元就を祖とし、その孫・輝元の代に中国地方一帯を治める大名となりました。江戸時代を通じて長州藩主として続き、明治維新後はその功績により華族の最高位である公爵に叙せられています。
大正5年(1916年)に完成した本邸は、約3,300平方メートルの総檜造りの壮大な建築で、唐破風(からはふ)の玄関を持ち、当時としては最先端の発電設備や上水設備、水洗トイレなども備えた、伝統と近代技術が融合した建物です。平成23年(2011年)に国の重要文化財に指定されました。
館内には雪舟筆「四季山水図(山水長巻)」をはじめ、国宝4件・重要文化財9件を含む毛利家伝来の美術工芸品・歴史資料約2万点が収蔵されています。年間約7回の展覧会で順次公開されており、毎年秋に開催される特別展「国宝」では4件の国宝がすべて展示されます。
周辺情報
毛利博物館を取り囲む毛利氏庭園は、約84,000平方メートルの広大な敷地を持つ回遊式庭園で、国の名勝に指定されています。ひょうたん池から本邸を望む景色は絶好の撮影スポットであり、桜、サツキ、紅葉など四季折々の花木が訪れる人を楽しませてくれます。
車で約10分の距離にある防府天満宮は、学問の神・菅原道真公を祀る日本最初の天満宮として知られ、京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮とともに日本三天神のひとつに数えられています。年間約50万人の参拝者が訪れ、1,100本の梅が咲き誇る2月〜3月の梅まつりや、11月の御神幸祭(裸坊祭)は特に有名です。
防府天満宮から車で約5分の周防国分寺は約1,200年の歴史を持つ古刹で、室町時代の薬師如来坐像(重要文化財)をはじめとする多くの仏像・建築遺構が残されています。また、東大寺別院阿弥陀寺も近隣にあり、奈良の東大寺とのつながりを感じることができます。
防府市はコンパクトな街なので、これらの文化スポットを1日で巡ることも十分に可能です。JR防府駅前ではレンタサイクルも利用できるため、自転車で街を巡るのもおすすめです。
海外からお越しの方へ
菊造腰刀は国宝であるため常設展示ではなく、通常は毎年秋に開催される特別展「国宝」の期間中に公開されます(例年10月下旬〜12月上旬頃)。ご訪問前に毛利博物館の公式サイトまたは電話(0835-22-0001)で展示スケジュールをご確認ください。
館内の英語表記は限られていますので、事前にコレクションについて調べておくか、受付で英語の資料についてお尋ねになることをおすすめします。写真撮影の可否は展覧会によって異なりますので、スタッフにご確認ください。
毛利博物館と庭園の見学は半日コースとして最適で、防府天満宮や周防国分寺などを組み合わせれば、日本の文化遺産を満喫できる充実した一日を過ごすことができます。
Q&A
- 菊造腰刀はいつ見ることができますか?
- 通常は毎年秋に開催される毛利博物館の特別展「国宝」の期間中(例年10月下旬〜12月上旬頃)に公開されます。展示スケジュールは年によって変わりますので、毛利博物館の公式サイトまたは電話(0835-22-0001)で事前にご確認ください。
- なぜ「菊造り」と呼ばれるのですか?
- 柄や鞘の金具、小柄、笄など各所に菊花の意匠が施されていることに由来します。特に柄の赤銅魚々子地に高彫りされた枝菊は見事で、菊の花が拵全体の装飾主題となっています。
- 当麻派とは何ですか?なぜこの刀身が当麻の作とされるのですか?
- 当麻派は、大和国(現在の奈良県)北葛城郡当麻を拠点とした刀工の一派で、大和五派のひとつです。本品の刀身は無銘ですが、鵜首造り(冠落造り)の造り込み、柾目の鍛え肌、沸出来の直刃といった特徴がいずれも当麻派の作風と合致するため、古来この派の作と伝えられてきました。
- 毛利博物館へのアクセス方法は?
- JR山陽本線防府駅から阿弥陀寺行きバスで約6分、「毛利本邸入口」下車すぐです。車の場合は山陽自動車道の防府東ICまたは防府西ICから約15分で、無料駐車場(普通車116台、大型バス8台)があります。
- 毛利博物館には他にも国宝がありますか?
- はい、毛利博物館は国宝4件を所蔵しています。雪舟筆「四季山水図(山水長巻)」、現存最古の写本とされる「古今和歌集巻第八」、中国の正史「史記巻九」があり、毎年秋の特別展では菊造腰刀を含む4件の国宝がすべて公開されます。
基本情報
| 指定名称 | 菊造腰刀〈刀身無銘伝当麻/〉 |
|---|---|
| よみがな | きくづくりこしがたな〈とうしんむめいでんたいま〉 |
| 種別 | 国宝(工芸品) |
| 時代 | 鎌倉時代末期 |
| 寸法 | 総長40.9cm、中身長(刃長)26.5cm、元幅2.6cm、拵鞘長30.8cm、反りなし |
| 員数 | 一口 |
| 重要文化財指定年月日 | 昭和8年(1933年)1月23日 |
| 国宝指定年月日 | 昭和27年(1952年)3月29日 |
| 所有者 | 公益財団法人 防府毛利報公会 |
| 所在地 | 毛利博物館(〒747-0023 山口県防府市多々良1丁目15-1) |
| 開館時間 | 9:00〜17:00(入館は16:30まで) |
| 休館日 | 12月22日〜12月31日(庭園は年中無休) |
| 入館料 | 博物館:大人900円(特別展1,300円)/小中学生250円|庭園との共通券:大人1,200円(特別展1,500円)/小中学生250円 |
| アクセス | JR山陽本線防府駅からバス(阿弥陀寺行き)約6分「毛利本邸入口」下車すぐ/山陽自動車道 防府東IC・防府西ICから車で約15分 |
| 駐車場 | 無料(普通車116台、大型バス8台) |
| お問い合わせ | 電話:0835-22-0001 / FAX:0835-24-2039 |
参考文献
- 菊造腰刀〈刀身無銘伝当麻/〉 — 文化遺産オンライン
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/125544
- 指定文化財の検索 — 山口県の文化財
- https://bunkazai.pref.yamaguchi.lg.jp/sp/bunkazai/summary.asp?mid=70061
- 国宝-工芸|菊造腰刀(刀身 無銘 伝当麻)[毛利博物館/山口] — WANDER 国宝
- https://wanderkokuho.com/201-00348/
- 毛利博物館 公式サイト
- https://mohri-museum.com/
- 毛利氏庭園・毛利博物館 — 山口県観光サイト おいでませ山口へ
- https://yamaguchi-tourism.jp/spot/detail_14783.html
- 防府天満宮 — 山口県観光サイト おいでませ山口へ
- https://yamaguchi-tourism.jp/spot/detail_14780.html
- 雪舟の「山水長巻」など堪能 毛利博物館「特別展 国宝」 — 美術展ナビ
- https://artexhibition.jp/topics/news/20201202-AEJ330961/
- 毛利博物館 — インターネットミュージアム
- https://www.museum.or.jp/museum/6529
最終更新日: 2026.02.17
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