国宝「日本書紀神代巻」—日本の始まりを記した神聖な写本
京都国立博物館の厳重に管理された収蔵庫には、日本文化の根幹を形成する至宝が眠っています。国宝「日本書紀神代巻(吉田本)」は、鎌倉時代(1185〜1333年)に書写された写本でありながら、日本という国の神話的起源を今に伝える、かけがえのない文化遺産です。これは単なる古文書ではありません。神道の信仰、皇室の系譜、そして日本人のアイデンティティを千年以上にわたって形作ってきた物語の源泉なのです。
「神代巻」とは、日本最古の正史『日本書紀』の冒頭2巻を指します。養老4年(720年)に完成したこの歴史書の中で、神代巻には天地開闘の物語から、イザナギ・イザナミによる国生み、そして太陽神アマテラスの誕生まで、日本神話の根幹を成す物語が綴られています。
日本書紀とは
『日本書紀』は、日本における最初の勅撰国史として、養老4年(720年)5月21日に完成しました。舎人親王を総裁とし、太安万侶らの編纂によって成立したこの壮大な歴史書は、全30巻から構成され、神話時代から持統天皇の治世(697年)までを編年体で記述しています。
同時期に編纂された『古事記』(712年成立)が主に国内向けに編まれ、漢字の音訓を交えた独特の表記法を用いているのに対し、『日本書紀』は当時の東アジアにおける学術言語であった漢文で書かれています。これは、日本の歴史を国際的な舞台で中国の正史と肩を並べるものとして提示しようという、朝廷の壮大な意図を反映しています。
なかでも冒頭2巻の「神代巻」は特別な意味を持ちます。単なる歴史記録を超え、日本列島の創成、神々による自然界と霊的秩序の確立、そして皇室が太陽神アマテラスの直系子孫であることを説く、聖典としての性格を帯びているのです。
国宝「吉田本」の来歴と価値
京都国立博物館が所蔵し、国宝に指定されている写本は「吉田本」または「弘安本」と呼ばれています。この貴重な写本は、諸国の神社に仕えて卜占(占い)を家業とした卜部家に伝わったもので、鎌倉時代の学者・卜部兼方(うらべかねかた)によって書写されました。
下巻の奥書には、弘安9年(1286年)春に兼方が「裏書」を書き加えたことが記されています。書跡学的な分析により、この奥書と本文の筆跡が同一であることが確認されており、全巻が兼方の自筆であることがわかっています。学者自身の手による完全な自筆本は極めて稀少であり、これが本写本の学術的・文化的価値を著しく高めています。
写本は上下2巻の巻子本(かんすぼん)形式で、本文は1行14字詰めの楷書で丁寧に書写されています。特筆すべきは、本文全体に施された朱の訓点、欄外に書き込まれた細字の注記、そして紙背(紙の裏面)に記された諸説の書き入れです。
この紙背の「裏書」は、兼方の父である卜部兼文が、前関白・一条実経らに対して行った『日本書紀』講義に関連して書かれたものです。のちに兼方は、この裏書をもとに『釈日本紀』を著しました。『釈日本紀』は現存最古の『日本書紀』注釈書であり、この吉田本が中世の『日本書紀』研究の礎となったことを物語っています。
国宝指定の理由
日本書紀神代巻(吉田本)は、昭和27年(1952年)3月29日に国宝に指定されました。この最高位の文化財指定には、いくつかの重要な理由があります。
第一に、著名な学者による自筆本という稀少性です。無名の写字生によって作られた多くの中世写本とは異なり、この写本は卜部兼方という特定の学者の筆跡で書かれており、13世紀の文献学と書道の実態を直接知ることができます。
第二に、豊富な書き入れと訓点の学術的価値です。朱の訓点は鎌倉時代における漢文の読み方を示し、欄外や紙背の注記は当時の学者たちの解釈や異説を伝えています。これらがなければ失われていたであろう中世の学問の姿を、この写本は今に伝えているのです。
第三に、卜部家(のちの吉田家)が日本の宗教史に果たした役割の重要性です。室町時代には、この学統から吉田兼倶(1435〜1511年)が現れ、吉田神社の神主として「吉田神道」を確立し、神道界で大きな勢力となりました。この写本は、日本の宗教的アイデンティティを形成した知識の伝承を示す重要な一環なのです。
第四に、700年以上の歳月を経ながらも、料紙、墨、朱の書き入れがなお明瞭に読み取れるという保存状態の良さです。この優れた保存状態により、現代の研究者も一般の来館者も、中世の世界との直接的なつながりを体験することができます。
神代巻に記された神話—日本創世の物語
日本書紀神代巻には、日本の伝統文化において最も親しまれ、文化的意義の深い神話が収められています。これらの物語を知ることで、写本との出会いはより豊かなものとなるでしょう。
国生み神話
物語は、混沌から秩序が生まれる場面から始まります。神世七代の最後に現れた神々の夫婦、イザナギ(伊邪那岐命)とイザナミ(伊邪那美命)は、天の浮橋に立ち、天沼矛(あめのぬぼこ)という神聖な矛で、眼下に広がる茫漠たる海を掻き混ぜました。矛を引き上げると、その先端から滴り落ちた潮が凝り固まって、最初の島・淤能碁呂島(おのごろしま)となりました。この島に降り立った二柱の神は、八尋殿(やひろどの)という宮殿を建て、日本列島と数多くの神々を生み出していったのです。
三貴子の誕生
しかし、悲劇が訪れます。イザナミは火の神・カグツチを生んだ際に大火傷を負い、亡くなってしまいます。悲嘆に暮れたイザナギは、妻を追って黄泉の国へと向かいますが、「決して見てはならない」という約束を破り、腐敗した妻の姿を目にしてしまいます。恐怖に駆られて逃げ出したイザナギは、黄泉の国の入り口を巨大な岩で塞ぎ、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊ぎを行いました。
この禊ぎの中から、三柱の尊い神々が誕生します。左目を洗ったときに太陽神アマテラス(天照大御神)が、右目を洗ったときに月神ツクヨミ(月読命)が、鼻を洗ったときに嵐の神スサノオ(須佐之男命)が生まれました。イザナギはこの「三貴子」に世界を分かち与え、アマテラスには高天原の統治を委ねたのです。
皇統の神話的起源
アマテラスを通じて、日本の皇室は神々の子孫であるとされています。神話によれば、アマテラスは孫のニニギノミコト(瓊瓊杵尊)を地上世界の支配者として遣わし、三種の神器—鏡、剣、勾玉—を授けました。ニニギの曾孫である神武天皇は、日本最初の人間の天皇として即位したと伝えられています。日本書紀に記されたこの神話的枠組みは、日本の歴史を通じて皇室の権威の思想的基盤を提供してきました。
国宝を観る—展示情報
日本書紀神代巻(吉田本)は、京都国立博物館のコレクションとして収蔵されています。ただし、古写本は光にさらされることで劣化が進むため、原本は常設展示されておらず、特別展や名品ギャラリーでの作品入替時に限って公開されます。
令和2年(2020年)には、日本書紀成立1300年を記念して、京都国立博物館で特集展示が開催されました。この展示では、吉田本とともに、同館所蔵のもう一つの国宝「岩崎本日本書紀」(巻第22・24)も公開され、貴重な観覧の機会となりました。このような記念展示は、これらの貴重な文化財を直接目にする稀有な機会です。
特別展期間外でも、e国宝(e-Museum)のウェブサイトでは、写本の高精細デジタル画像が公開されており、書跡、注記、訓点を詳細に観察することができます。また、平成26年(2014年)に刊行された原寸・原色の影印本により、全編を手に取って観ることも可能になっています。
京都国立博物館周辺の見どころ
京都国立博物館への訪問は、文化財の宝庫である東山七条エリアの散策と組み合わせることができます。博物館の周辺には、徒歩圏内に見逃せない名所が点在しています。
三十三間堂(蓮華王院)
博物館から七条通を挟んだ向かいに建つ三十三間堂は、1,001体の千手観音立像が整然と並ぶ圧巻の光景で知られています。長寛2年(1164年)に後白河上皇の発願で創建され、現在の建物は文永3年(1266年)—吉田本が書写されたのとほぼ同時代—に再建されたものです。中央の千手観音坐像(湛慶作)、両翼に並ぶ千体仏、風神雷神像、二十八部衆立像はすべて国宝に指定されています。
豊国神社
博物館の北側に位置する豊国神社は、天下人・豊臣秀吉を祀る神社です。境内の唐門は国宝に指定されており、伏見城から移築されたと伝わる桃山時代の華麗な装飾建築の粋を今に伝えています。
智積院
三十三間堂の東に位置する智積院は、長谷川等伯・久蔵父子による国宝の障壁画「桜図」「楓図」を収蔵しています。桃山絵画の最高峰とされるこれらの作品は、宝物館で観覧することができます。名勝に指定された庭園も必見です。
養源院
三十三間堂に隣接するこの小さな寺院は、伏見城落城の際に自刃した将士の血痕が残るとされる「血天井」で知られています。また、琳派の祖・俵屋宗達による杉戸絵(白象図・唐獅子図など)を間近に観ることができます。
訪問にあたって
京都国立博物館で日本の文化遺産を鑑賞される際は、日本書紀神代巻のような繊細な文化財の展示は定期的に入れ替わることにご留意ください。訪問前に博物館のウェブサイトで現在の展示内容を確認し、特定の作品が公開されているかをお確かめになることをお勧めします。
名品ギャラリー(平常展示)では、約14,600件に及ぶ収蔵品の中から、考古、陶磁、彫刻、絵画、書跡、染織、漆工、金工といった分野ごとに選りすぐりの作品が展示されています。たとえ日本書紀神代巻が展示されていなくても、日本の芸術的・文化的達成を物語る数多くの国宝・重要文化財と出会うことができるでしょう。
博物館の敷地内にも見どころがあります。明治30年(1897年)に建てられた明治古都館(旧帝国京都博物館本館)は、赤煉瓦造りの壮麗な洋風建築で、重要文化財に指定されています。また、庭園にはロダンの「考える人」のブロンズ像や、石仏、五条大橋の橋脚(秀吉ゆかり)などの野外展示も楽しめます。
Q&A
- 京都国立博物館に行けば、いつでも日本書紀神代巻の原本を観ることができますか?
- 残念ながら、原本は常設展示されていません。古写本の保存のため、展示は特別展や名品ギャラリーでの作品入替時に限られます。通常、数年に一度程度の頻度で公開されます。訪問前に博物館の展示スケジュールをご確認ください。e国宝(e-Museum)のウェブサイトでは、高精細デジタル画像を無料でご覧いただけます。
- この写本は、他の日本書紀の写本とどう違うのですか?
- 吉田本(弘安本)が特に価値が高いのは、学者・卜部兼方による自筆本だからです。弘安9年(1286年)に全巻が兼方自身の手で書写されており、本文のみならず朱の訓点や詳細な注記が施されています。これらの書き入れは、中世の学者がどのように『日本書紀』を解釈し、読み下していたかを示す貴重な資料であり、のちに現存最古の『日本書紀』注釈書『釈日本紀』の基礎となりました。
- 日本書紀は神道と関係がありますか?
- はい、深い関わりがあります。神代巻には、神道の根幹を成す神話が収められています。イザナギ・イザナミによる国生み、伊勢神宮に祀られる太陽神アマテラスの誕生など、神道の信仰と儀礼の基盤となる物語がここに記されています。また、皇室がアマテラスの直系子孫であるという神話的系譜も、神代巻において確立されました。『日本書紀』は『古事記』とともに、神道の神話と祭祀の主要な典拠となっています。
- 原文が読めなくても、日本神話について学ぶことはできますか?
- もちろんです。『日本書紀』は現代語訳が多数出版されており、岩波文庫版や講談社学術文庫版などで気軽に読むことができます。英語訳としては、W.G.アストンによる古典的な翻訳(1896年)があります。また、神代巻の物語は、神社の祭礼、歌舞伎、能楽、アニメ、漫画など、日本文化のさまざまな形で語り継がれています。京都国立博物館をはじめとする博物館では、展示品に英語の解説が付けられていることが多いです。
- 日本書紀に関する他の国宝は、どこで観ることができますか?
- 京都国立博物館には、巻第22・24を収めた「岩崎本日本書紀」(国宝)も所蔵されています。また、奈良国立博物館には巻第10を収めた「田中本」(国宝)があります。天理大学附属天理図書館には、乾元2年(1303年)に書写された神代巻の写本「乾元本」(国宝)が収蔵されており、これは現存する神代巻写本として吉田本に次いで古いものです。それぞれの写本が、テキストの伝承と中世の学問について独自の知見を提供しています。
基本情報
| 正式名称 | 日本書紀神代巻〈上下/(吉田本)〉(にほんしょきじんだいかん) |
|---|---|
| 指定 | 国宝(昭和27年3月29日指定) |
| 種別 | 書跡・典籍 |
| 時代 | 鎌倉時代・13世紀(弘安9年〔1286年〕奥書) |
| 筆者 | 卜部兼方(うらべかねかた) |
| 形態 | 巻子本2巻、紙本墨書、朱の訓点・書き入れあり |
| 所蔵 | 京都国立博物館 |
| 所在地 | 〒605-0931 京都府京都市東山区茶屋町527 |
| 開館時間 | 9:30〜17:00(入館は16:30まで)※特別展は展覧会ごとに異なる |
| 休館日 | 月曜日(祝日の場合は翌火曜日)、年末年始 |
| 観覧料 | 名品ギャラリー:一般700円、大学生350円、高校生以下無料/特別展は展覧会ごとに設定 |
| アクセス | 市バス「博物館三十三間堂前」下車すぐ/京阪電車「七条駅」より東へ徒歩7分/JR「京都駅」より徒歩約20分 |
| 公式サイト | https://www.kyohaku.go.jp/ |
参考文献
- e国宝:日本書紀神代巻(吉田本)
- https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&content_base_id=101084
- 文化遺産オンライン:日本書紀神代巻〈上下/〉
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/132917
- 京都国立博物館 公式サイト
- https://www.kyohaku.go.jp/
- 京都国立博物館:日本書紀成立1300年記念 特集展示
- https://www.kyohaku.go.jp/old/jp/project/nihonshoki_2021.html
- 八木書店:日本書紀の写本一覧と複製出版・Web公開
- https://company.books-yagi.co.jp/archives/4212
- 勉誠社:京都国立博物館所蔵 国宝 吉田本 日本書紀
- https://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=100274
- WANDER国宝:日本書紀 神代巻 上下(吉田本)
- https://wanderkokuho.com/201-00620/
- WANDER国宝:日本書紀神代巻(天理大学附属天理図書館)
- https://wanderkokuho.com/201-00760/
- Wikipedia:日本書紀
- https://ja.wikipedia.org/wiki/日本書紀
- ブリタニカ:Izanagi and Izanami
- https://www.britannica.com/topic/Izanagi
最終更新日: 2025.12.05
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