福井の村名を背負った弥生の青銅祭器
袈裟襷文銅鐸(けさだすきもんどうたく)は、福井県坂井郡大石村大字井向から出土した弥生時代の青銅祭器で、昭和28年(1953年)3月31日に重要文化財に指定され、現在は愛知県内の個人が所有する。国指定文化財等データベースでの登録は、指定番号00114、枝番00、種別は考古資料、員数は1口である。
この登録内容には、先に押さえておきたい点が二つある。出土したのは日本海側の福井、いま置かれているのは太平洋側の愛知。数百キロを移動した経緯は記録に残っていない。そして寸法・重量・品質形状の各欄が、いずれも空白のままである。
記載漏れというより、時代の事情である。この種の銅鐸が地上に現れたのは、日本の考古学がまだ出土状況を記録する方法を持っていなかった頃だった。骨董商や好事家の手を渡ってから研究者が対面する例も珍しくない。残ったのは、器そのものと一つの地名だった。
井向の発見をめぐる伝えかた
井向(いのむかい)は、現在の坂井市春江町にあたる。指定台帳に残る「坂井郡大石村」という行政名は昭和の合併で消えており、現在の地図で探しても見つからない。
発見は慶応4年(1868年)と伝わる。福井新聞は、春江町井向の農民が大小2個の銅鐸を掘り当てたと記す。一方、地誌の記述では3個とし、うち2個は互いに基底部を差し込んだ状態で、中に貨幣のようなものを包んでいたという言い伝えを紹介している。この記述の出典は大正9年(1920年)の県の調査報告で、発見から既に半世紀が経っていた。数が食い違うのは、こうした伝聞の重なりによる。
地形の点で、この出土地は例外的である。銅鐸は集落から離れた丘陵斜面や谷奥に埋められる例が圧倒的に多い。井向のそれは福井平野のただ中、九頭竜川・日野川・足羽川が合流するあたりの自然堤防上から出ている。現在は見渡すかぎりの水田で、丘らしい丘はない。
福井平野は銅鐸分布の北の縁にあたる。国土交通省福井河川国道事務所の資料は、旧三国町米ケ脇遺跡出土の銅鐸をわが国の銅鐸分布の北限と説明している。同じ資料は、三国町下屋敷遺跡から凝灰質砂岩製の銅鐸鋳型(未完成品)が見つかったことにも触れる。北陸の地に鋳造を担う工人がいたことになり、すべてが近畿からの搬入品だったわけではない。
井向出土の銅鐸群は、鐸身に絵画をもつことで知られる。ヒト、シカ、サギ、カエル、スッポン、高床建物などが挙げられてきた。ただし本件の指定台帳に絵画の記載はない。絵画をもつ個体と本件を同一視せず、別々の情報として扱うのが安全である。
「袈裟襷文」という呼び名と、鳴らさなくなった鐘
銅鐸は扁平な円筒形の中空鋳物で、上部に鈕(ちゅう)、身の両側に薄い鰭(ひれ)がつく。初期の20センチ前後のものは内部に舌(ぜつ)を吊るして鳴らした。約400年の変遷のなかで器体は大型化し、器壁は薄くなり、文様は突線で力強く表現されるようになる。そして舌が消える。後期の銅鐸は、鳴らす道具ではなく見せる器へと性格を変えた。
袈裟襷文の名は表面の区画法に由来する。斜格子を詰めた帯が縦横に走り、鐸面を4区あるいは6区の長方形に割る。この格子を僧侶の袈裟に見立てたのは江戸期の観察者で、実際の仏教とは何の関係もない。銅鐸が土に埋められてから、仏教が列島に伝わるまでには数百年の隔たりがある。
文献に銅鐸が現れるのも遅い。『続日本紀』は和銅6年(713年)、大和国宇陀郡で掘り出された器が朝廷に献上され、誰もその正体を説明できなかったと記す。作られ、埋められた時代の記憶は、その時点で既に失われていた。
昭和28年という指定年
指定日の昭和28年3月31日は、昭和25年(1950年)制定の文化財保護法にもとづく戦後の大量指定期にあたる。個人所蔵の考古資料はこの時期の重点対象だった。散逸と海外流出が長く続き、資料としての所在把握が急がれていたためである。
指定理由は、銅鐸一般と同じく三つの層で説明できる。鋳造技術そのものが弥生時代の到達点を示すこと。出土地が近畿を中心とする祭祀圏の北への広がりを記録すること。そして井向という、北陸では数少ない複数埋納の遺跡に属する一点であること。
データベースの解説文は「弥生時代の資料。」の一行だけである。文化庁が詳細な調査解説を付した物件では数段落の記述が入る。ここには入っていない。この差そのものが、本件の研究史上の位置を示している。
見学の可否と、代わりに見られるもの
本件は公開されていない。個人所有で、常設の展示施設を持たず、台帳にも問い合わせ先となる所在地は記載されていない。撮影も同じ理由で不可能である。個人所蔵の指定品が特別展に貸し出される例はあるため、福井・愛知いずれかの館で突然展示される可能性は残るが、参照できる公開予定表は存在しない。
福井で弥生の銅鐸を実見したい場合は、代替がある。坂井市が所有する米ヶ脇出土の袈裟襷文銅鐸は、みくに龍翔館が保管し、昭和57年(1982年)4月23日に福井県指定を受けている。県の文化財ページによれば、大正13年(1924年)に鉄道敷設工事に伴い、丘陵斜面の深さ約60センチの地点で発見された。総高42.1センチ、鈕の高さ11.1センチ、鐸身の高さ31.0センチ、鐸身底部の長径22.4センチ、短径10.8センチ。鐸面は4区画の袈裟襷文で、鰭部には複合内向鋸歯文が飾られる。鈕の一部を欠くものの原形はよく保たれている。訪ねる際は休館日を先に確認しておきたい。
井向のある春江町は、坂井市中心部から車で15分ほど、福井市と日本海のあいだに広がる平野の一角にある。出土地に解説施設はない。秋の朝に立てば、あるのは平野そのものである。低い堤にはさまれた川が流れ、四方を山が囲んでいる。
Q&A
- 井向出土の袈裟襷文銅鐸は一般公開されていますか。見学や撮影はできますか。
- 公開されていません。愛知県内の個人が所有し、常設展示施設を持たないため、訪問先となる住所はなく、撮影もできません。特別展への貸出で公開される可能性はありますが、予定を確認できる公開情報はありません。
- 袈裟襷文銅鐸はどこから出土したのですか。現在の地名では何市になりますか。
- 福井県坂井郡大石村大字井向で、現在の坂井市春江町にあたります。発見は慶応4年(1868年)と伝わり、丘陵ではなく福井平野の自然堤防上から出た点が、銅鐸の出土例としては異例です。
- 袈裟襷文銅鐸の「袈裟襷文」とはどのような文様ですか。
- 斜格子を詰めた帯が縦横に走り、鐸面を4区または6区の長方形に区画する文様です。この格子模様を僧侶の袈裟と襷に見立てた江戸期の呼称が、そのまま学術用語として定着しました。
- 袈裟襷文銅鐸の重要文化財指定はいつですか。指定番号は何番ですか。
- 昭和28年(1953年)3月31日の指定で、指定番号は00114、枝番00です。種別は考古資料、員数は1口、時代は弥生とされています。
- 袈裟襷文銅鐸が見られないなら、福井県内で銅鐸を実見できる場所はありますか。
- 坂井市所有の米ヶ脇出土袈裟襷文銅鐸が、みくに龍翔館に保管されています。昭和57年に福井県指定を受けた資料で、総高42.1センチ。来館前に開館日を確認してください。
基本データ
| 名称 | 袈裟襷文銅鐸(けさだすきもんどうたく) |
|---|---|
| 所在地 | 愛知県(個人所有のため所在地非公開)。出土地は福井県坂井郡大石村大字井向(現・坂井市春江町) |
| 指定区分 | 重要文化財(考古資料)/指定番号 00114-00 |
| 指定年 | 昭和28年(1953年)3月31日 |
| 員数 | 1口 |
| 寸法 | 国指定文化財等データベースに記載なし |
| 所有者 | 個人 |
| 公開状況 | 非公開。常設の展示施設なし。撮影不可 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)袈裟襷文銅鐸
- https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/9714
- 国土交通省 福井河川国道事務所「ふくいの川」弥生時代
- https://www.kkr.mlit.go.jp/fukui/kasen/siryou/hen1/1syou4/1gensi3.html
- 福井新聞ONLINE うんちく豆事典「井向の銅鐸」
- https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/1467
- 福井県文化財ページ 袈裟襷文銅鐸(米ヶ脇出土・県指定)
- https://bunkazai.pref.fukui.lg.jp/search_category/content?detail_id=511-0
最終更新日: 2026.08.29