『大鏡』とは何か、そして愛知に残る六巻本
ある寺の説経の場に居合わせた二人の老人が、昔の話を始める。一人は190歳ほどと称する大宅世継、もう一人は180歳ほどの夏山繁樹。二人は文徳天皇から後一条天皇までの十四代を見てきたと言い、聴衆の若侍がそこへ鋭い問いを差し挟む。この対話の場面から起筆するのが歴史物語『大鏡』である。平安時代後期、おそらく十二世紀初めの白河院政期ごろに成立し、嘉祥3年(850年)から万寿2年(1025年)までの宮廷の歴史を、藤原北家、とりわけ摂政・太政大臣藤原道長の栄華を軸に記している。
ここで取り上げる文化財は、その本文そのものではない。作品を書き写した一本である。六巻からなる写本、いわゆる六巻本で、愛知県内の個人が所蔵し、昭和28年(1953年)3月31日に重要文化財(書跡・典籍)に指定された。古典の研究では、長く保存してきた家の名にちなみ「東松本(とうしょうぼん)」と呼ばれている。
藤原道長(966〜1028年)は、その時代の宮廷を主導した人物である。四人の娘を相次いで天皇家に入れ、摂政・関白を要とする摂関政治のもとで、名目こそ伴わないまでも実権を握った。『大鏡』は、のちに「四鏡」と総称される四つの作品の最初に位置する。歴史を、過去を明らかに映す鏡になぞらえたところから、こうした呼び名が生まれた。
古写本としての価値
書写を重ねるうちに、『大鏡』の本文には異同が生じた。現存する写本は、巻数によって三巻本・六巻本・八巻本の系統に大別される。これは綴じ方の違いにとどまらない。収める挿話の多寡にも差があり、後の流布本では記事が増補されたとみられる。
東松本は、記事の比較的少ない古い系統、すなわち古本系に属する。この種の写本は、作品が早い時期の読者に読まれていた姿に近い本文を保つため、重んじられてきた。作者が実際に書いた本文を探るうえで、こうした古写本は後世の転写の反映ではなく一次的な手がかりとなる。
書写された時代については、見方に幅がある。文化庁の国指定文化財等データベースは平安時代の作と記すが、昭和28年に複製を作成した研究者は鎌倉時代の古写本と解説した。いずれの見方をとっても早い時期の写本の一つであり、それゆえ指定と同じ年に全六巻の影印本が刊行された。貴重古典籍刊行会による複製で、山岸徳平・太田晶二郎・山田忠雄らが解説を寄せている。
読みどころ
『大鏡』を今日まで読み継がせてきたのは、年代記としての正確さよりも、その語り口である。中国の正史にならった紀伝体は、仮名で書かれた書物には異例の選択で、作者はこの形式を用いて、一人ひとりの大臣の人物像を並べて描いた。筆致には遠慮がなく、皮肉も鋭い。
藤原道兼が若い花山天皇を欺いて出家へと導き、自らは身をかわす場面、あるいは兄弟である兼通と兼家の激しい権力争いなど、権力者の生々しい姿が描かれる。終わりの巻は道長に多くの紙幅を割き、その栄華への賛嘆には、権勢欲への冷ややかな視線が交じっている。
実物の写本を前にすれば、墨書された仮名の連なりが目に入るはずである。書の美しさを本文の内容と同じほど重んじた宮廷の筆跡だが、本書は個人蔵で常設の公開はなく、直接対面できる機会は限られる。一方で本文を読むのは難しくない。『大鏡』は日本でもっとも広く読まれてきた古典の一つで、注釈付きの現代の刊本が数多くあり、昭和28年の影印本も国立国会図書館によってデジタル化されている。
平安の宮廷文化に触れる ― 名古屋の徳川美術館と蓬左文庫
写本があるのは愛知県だが、そこに描かれているのは京の宮廷の世界である。名古屋でその世界に近づくなら、東区にある徳川美術館と、隣接する名古屋市蓬左文庫を合わせて訪ねるのがよい。
蓬左文庫は尾張徳川家の旧蔵書を母体とし、和漢の古典籍を十一万点を超えて所蔵する公開文庫である。閲覧室は一般に開かれ、展示室では武家の学問や教養を紹介する企画が組まれる。すぐ隣の徳川美術館は、平安貴族の暮らしを描いた現存最古級の絵巻、国宝『源氏物語絵巻』を所蔵することで知られる。
両館は徳川園に隣り合っている。行き方は、JR中央線の大曽根駅で降りて南へ徒歩約10分、あるいは名古屋市内を回る観光ルートバス「メーグル」で「徳川園・徳川美術館・蓬左文庫」停留所が便利である。開館日や展示内容は時期によって変わるため、訪れる前に当日の予定を確かめておきたい。
Q&A
- 『大鏡』は歴史書ですか、それとも物語ですか。
- その両方の性格を併せ持つ。850年から1025年までの実在の天皇・大臣や、年代の確かな出来事を扱う一方、二人の架空の長寿の老人の昔語りという趣向で構成され、批評や問答が挟まれる。日本の研究では、正史ではなく「歴史物語」に分類される。
- この写本を直接見ることはできますか。
- 容易ではない。指定された写本は個人蔵で、常設の公開はされていない。本文は現代の注釈書で手軽に読め、昭和28年の影印本は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる。
- なぜ「鏡」と呼ばれるのですか。
- この系譜では、歴史は過去を明らかに映す鏡になぞらえられた。『大鏡』はそうした作品の最初で、『今鏡』『水鏡』『増鏡』と続く「四鏡」の一つに数えられる。
- 作者は誰ですか。
- 不詳である。古来さまざまな名が挙げられ、いずれも摂関家や村上源氏に近い男性官人とされてきた。近年は村上源氏の源顕房とする説がやや有力だが、確定はしていない。
- 「六巻本」とは何を意味し、完全なものですか。
- 綴じる際の巻分けが六巻であることを指す。ほかに三巻本・八巻本の系統も伝わる。本書は古い系統に属し、後に増補された本に比べて収める挿話がやや少ない。
基本データ
| 名称 | 大鏡(おおかがみ)六巻本 |
|---|---|
| 指定区分 | 重要文化財(書跡・典籍) |
| 指定年月日 | 昭和28年(1953年)3月31日 |
| 員数 | 6巻 |
| 時代(写本) | 平安(国指定文化財等データベース)。昭和28年の複製解説では鎌倉時代古写本とする |
| 所在地 | 愛知県 |
| 所有者 | 個人 |
| 公開状況 | 常設公開なし |
| 本文の成立 | 平安時代後期。嘉祥3年(850年)から万寿2年(1025年)までを叙述 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)「大鏡」
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/8210
- 東松本大鏡 第1(国立国会図書館デジタルコレクション)
- https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2467737
- 大鏡|書物で見る日本古典文学史(国文学研究資料館)
- https://www.nijl.ac.jp/etenji/bungakushi/contents/detail/detail02-02_012.html
- 名古屋市蓬左文庫(公式サイト)
- https://housa.city.nagoya.jp/
- 名古屋市蓬左文庫(名古屋市博物館 案内)
- https://www.museum.city.nagoya.jp/hosa/index.html
最終更新日: 2026.06.13