庭の隅に置かれた小さな屋根
名古屋市千種区、爲三郎記念館の庭園に足を踏み入れると、北西の隅近くにごく小さな建物が目に入る。床面積はわずか2.6平方メートル、杉皮を重ねた屋根が一方へ流れるだけの簡素な構えで、うっかりすると通り過ぎてしまう。これが、庭園の茶室「知足庵」に付属する待合である。小さな建物だが、茶事の進行のなかではっきりとした役割をもち、平成30年(2018年)には国の登録有形文化財に登録された。
待合は、客が席入りを待つための場所である。茶の湯では、客はいきなり茶室へ入るわけではない。露地と呼ばれる庭の道沿いに設けられた小さな建物にいったん集まり、亭主から席が整ったという合図が出るまでそこで待つ。市中の喧噪を離れ、茶席の静けさへ気持ちを移すための間である。この待合も、南に広がる庭を眺めながら待てるように据えられている。
私邸から公開の庭へ
待合が立つのは、かつての個人の邸宅であった敷地である。東海地方で事業を営んだヘラルドグループの創業者、古川爲三郎(1890年〜1993年)は、千種区のこの傾斜地に住まいを構えた。母屋にあたる数寄屋造りの爲春亭が棟上げされたのは昭和9年(1934年)のことである。爲三郎は日本画や陶磁器をはじめとする美術品の収集家として知られ、103歳まで生きた。その没後、「自分が好んだこの住まいを、人々の憩いの場として使ってほしい」という遺志が残された。これを受け、平成7年(1995年)11月から、邸宅は古川美術館の分館「爲三郎記念館」として公開されている。
この場所の中心にあるのは庭である。爲三郎は大木を大切にしたといわれ、敷地には数本の大きな椎の木が枝を広げ、茶室を囲む回遊式の庭に木陰を落としている。待合は庭の北辺に置かれ、建物というより植栽と園路の一部のように景色になじんでいる。
登録が認めたもの
待合は登録有形文化財で、登録番号は23−0519、登録年月日は平成30年(2018年)11月2日である。この区分について少し説明しておきたい。登録有形文化財は、よく知られた国宝や重要文化財よりも下位に位置づけられる制度だからである。登録制度は平成8年(1996年)に始まり、近代の建築を中心に幅広い建物を、比較的ゆるやかな規制のもとで保護することを目的とした。所有者は修理のたびに許可を得るのではなく、変更を届け出る仕組みである。この待合に適用された基準は「国土の歴史的景観に寄与しているもの」である。
待合は単独で登録されたわけではない。同じ日に、邸内の6件の建造物がまとめて登録された。母屋の爲春亭、茶室の知足庵、この待合、雪隠、正門、そして東門である。これらを一群として見ると、茶を愛でるために造られた昭和初期の邸宅庭園の構成と雰囲気がよく残されていることがわかる。待合の価値は、その全体のなかにある。茶庭の働きの一部であり、杉皮と素朴な丸太による控えめなつくりこそ、この建物に求められたものなのである。
細部を見る
小さな建物ながら、待合はゆっくり眺めるに値する。桁行は二間、梁間は一間、おおよそ3.6メートルと1.8メートルほどの大きさで、杉皮葺の片流れの屋根は、間隔をあけて並べた疎垂木に支えられ、深い軒を張り出している。緩やかな勾配と広い軒先が、その床面積からは想像できない存在感をこの屋根に与えている。
意匠はあえて野趣に寄せてある。丸太は節を残したまま用いられ、磨き上げた完成度よりも、肩の力を抜いた素朴さを尊ぶ茶の感覚がよく出ている。待合は南側、庭に向かって大きく開かれている。母屋の側にあたる東面には、壁に下地窓が穿たれている。壁を塗り残して、内側の竹や木舞を粗い格子のように見せる窓である。ささやかな手当てだが、この庭の一角を茶人が整えたことがうかがえる種類の細部である。
待合は母屋の中ではなく、開かれた庭に立っている。だから訪れた際には、園路や木立とのつり合いを確かめながら、自分の歩みに合わせて間近に見ることができる。
記念館の周辺
待合は、半日を過ごせる見学のなかの一つの立ち寄り先である。母屋の爲春亭は傾斜地に建てられており、庭から見上げると懸造のように高く構え、その下に茶室を備える。建物と庭を一体としてとらえた造作である。記念館の中の「数寄屋 de Café」では、爲三郎が長寿の秘訣としていた抹茶のほか、珈琲や季節の和菓子を、庭を眺めながら味わうことができる。北へ徒歩1分ほどの本館・古川美術館では、近代日本画から陶磁器、15世紀の彩飾写本まで、約2800点の収蔵品から企画展が随時開かれている。
周辺の池下・覚王山界隈は、地元では飲食の街としても親しまれており、庭園の見学と食事を組み合わせやすい。いずれも地下鉄東山線沿いで、市の中心部から短時間で訪れることができる。
Q&A
- 待合とはそもそも何ですか。
- 茶庭に設けられる、客が席入りを待つための小さな建物です。茶事の前に、客はこの待合に集まり、亭主の合図があるまで庭の道沿いで待ちます。茶席へ移る前に気持ちを整えるための、茶事の流れの一部です。
- 待合の中に入ることはできますか。
- 待合は庭園内の建造物で、室内のように立ち入るのではなく、庭の散策の中で眺めて鑑賞する建物です。開館時間中であれば、記念館の庭を歩きながら間近に見ることができます。
- この待合は国宝ですか。
- いいえ。登録有形文化財です。これは、景観の上で残す価値があると認められた建物の区分です。待合は平成30年(2018年)に、旧古川邸の他の5件の建造物とともに登録されました。
- 記念館へはどう行けばよいですか。
- 地下鉄東山線の池下駅1番出口から東へ徒歩約3分、または覚王山駅1番出口から西へ徒歩約5分です。記念館は本館の古川美術館から南へ徒歩1分ほどの場所にあります。
- 庭でお茶をいただけますか。
- 記念館内の「数寄屋 de Café」で、庭を眺めながら抹茶や珈琲、季節の和菓子をいただけます。呈茶は入館料とは別の料金で、価格は時期により変わるため、訪問前に公式サイトでご確認ください。
基本情報
| 名称 | 爲三郎記念館待合(ためさぶろうきねんかんまちあい) |
|---|---|
| 所在地 | 愛知県名古屋市千種区掘割町一丁目9 |
| 指定区分 | 登録有形文化財(建造物)、登録番号23−0519、平成30年(2018年)11月2日登録 |
| 員数 | 1棟 |
| 年代 | 昭和前期(1926年〜1945年)、平成7年(1995年)改修 |
| 構造 | 木造平屋建、杉皮葺、建築面積約2.6平方メートル、桁行二間・梁間一間 |
| 所有者 | 公益財団法人古川知足会 |
| 公開状況 | 爲三郎記念館の庭園の一部として、古川美術館の展覧会期間中に公開。10時〜17時(最終入館16時30分)。月曜休館(祝日の場合は翌平日)、展示替期間・年末年始は休館。入館有料。料金は公式サイトで確認のこと。 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/101/00012548
- 爲三郎記念館(旧古川爲三郎邸)について(古川美術館)
- https://www.furukawa-museum.or.jp/memorial
- 開館時間のご案内(古川美術館)
- https://www.furukawa-museum.or.jp/info/hours
- 古川美術館(分館 爲三郎記念館)(愛知県観光サイト Aichi Now)
- https://aichinow.pref.aichi.jp/spots/detail/2224/
最終更新日: 2026.06.17