琱玉集 ― 中国で失われ、日本にだけ残った書物
琱玉集(ちょうぎょくしゅう)は、現在二巻の巻子本として大須観音、正式には北野山真福寺宝生院に伝わっている。各巻の末尾には、天平十九年(747年)に書写したとする奥書がある。本文のもとになった書物は中国の唐代に編まれたが、本国ではのちに失われた。この奈良時代の写本と、後年に敦煌の石窟から見つかった一片を合わせたものが、世界で残る琱玉集のほぼすべてである。
二巻に含まれるのは巻第十二と巻第十四だけにすぎない。日本に渡った分がごくわずかで、しかも中国側では一巻も残らなかった。一見すると古びた二本の巻物だが、いまは消えてしまった一書をのぞき見るための、数少ない手がかりになっている。
何が書かれているのか
琱玉集は、中国で類書(るいしょ)と呼ばれる種類の書物にあたる。編者が多くの典籍を読み、各所から逸話や記述を抜き出し、主題ごとに項目を立てて並べたもので、読み手はその項目を引けば関連する話がまとまって見つかる仕組みになっている。
立てられた項目を見ると、編者がどこに関心を向けていたかがうかがえる。巻第十二は、聡慧(知恵)、壮力(怪力)、鑑識(見抜く目)、感応(因果の応報)という四つの項目に話を集める。巻第十四はもっと幅広く、美人、醜人、肥人、痩人、嗜酒(酒好き)、別味(味の違いがわかる者)、祥瑞(めでたい前兆)、怪異といった項目が並ぶ。敦煌から出た断簡(S.2072の番号で知られる)には、工書(能書)、善射、方術、占夢などの項目がさらに加わる。
もとの全体はどれほどの巻数だったのか。記録によって食い違いがある。平安期に日本にあった漢籍をまとめた『日本国見在書目録』は十五巻とし、中国側の『崇文総目』や『通志』は二十巻と記す。編者の名は伝わらず、成立した年代もはっきりしない。七世紀末から八世紀初めの成立とする見方が広く引かれている。
国宝に指定された理由
この二巻は、昭和二十六年(1951年)六月九日、書跡・典籍の分野で国宝に指定された。背景には三つの価値がある。
第一に、失われた書物を今に残している点である。琱玉集の原本は早く中国で散逸し、清代の学者が『古逸叢書』に収めて翻刻したことで、ようやく本国でも再び知られるようになった。大須の二巻は、その本がかつて何を載せていたかを直に示す資料になっている。
第二に、写本そのものが古く、年が記されている点である。747年に書かれた写本は、奈良時代の読書のありようへとまっすぐつながる。どのような漢籍が当時の学者のあいだに出回り、どのように写し取られていたかを教えてくれる。年号の入った八世紀の写本は、そもそも数が少ない。
第三に、紙の裏に別の本文が書かれている点である。巻物を裏返すと、唐代の密教僧で774年に没した不空(ふくう)三蔵にまつわる、朝廷への上表とそれへの返答を集めた書物の巻第二・第三が、平安前期の筆で写されている。紙は高価で、白紙の面を再び使うことはふつうに行われた。その節約の習慣が、ここでは一つの巻物に二つの異なる文献を結びつけて残した。それぞれが独立して価値をもっている。
見るときの着眼点
もし展示の機会があれば、まず筆そのものに目を向けたい。八世紀の筆跡であり、当時の作法を身につけた書写生の手が形づくった文字で、行を追う字の並びには落ち着きがあり、ゆっくり眺める価値がある。
項目の立て方も面白い。現代の事典なら、肥人と痩人を同列に置いたり、嗜酒を祥瑞の隣に並べたりはしないだろう。項目を読んでいくだけで、唐代の編者が何を分類し書きとめるに値すると考えたか、その感覚が今とどれほど違うかが手早く伝わってくる。
そして紙の二面性がある。表は中国の参考書を、裏は数世代のちに写された仏教の文書を残す。一枚の紙が、二世紀を隔てた二つの生を抱えている。
実物を見るには ― 大須観音への訪問
琱玉集が一般に公開されることは多くない。長く東京国立博物館に寄託されていたが、地元に戻したいという寺の意向で2015年に名古屋へ帰り、以後は名古屋市博物館が保管にあたっている。その博物館は大規模改修のため休館中で、全面再開は2028年4月が予定されている。実物を見たい場合は、常設の展示を当てにするより、特別展などの告知を追うのがよい。
所有する大須観音そのものは、行きやすく拝観も自由である。地下鉄鶴舞線の大須観音駅から歩いてすぐの大須の一画にあり、境内には真福寺文庫(大須文庫)が置かれる。国内有数の古典籍の収蔵で知られ、国宝である現存最古の『古事記』写本もここにある。寺のまわりは名古屋でもにぎやかな商店街の一つで、毎月18日と28日には境内に骨董の市が立つ。
Q&A
- 琱玉集の実物は見られますか。
- 公開は多くありません。展示はまれな機会に限られます。現在の保管先である名古屋市博物館は2028年まで改修で休館しているため、訪問を計画する前に特別展の告知を確認してください。
- 中国の書物がなぜ日本の国宝なのですか。
- 原本は中国で失われ、まとまって残った写本が747年に日本で写されたものだけだからです。消えた漢籍の証人として、また年号の入った日本の古い写本の例として、二重の意味で重んじられています。
- 巻物の裏には何が書かれていますか。
- 唐の密教僧・不空三蔵にまつわる上表類を集めた書物の巻第二・第三を、平安前期に写したものです。古い紙の白紙面が再利用されたため、一つの巻物に無関係な二つの文献が同時に残りました。
- 原本はどのくらい残っていますか。
- 大須に伝わるのは巻第十二と第十四だけで、ほかに敦煌の断簡が一片あります。古い目録は全体を十五巻とも二十巻とも記しており、大部分は失われています。
- 大須観音だけでも訪ねる価値はありますか。
- あります。拝観は無料で、街の中心にあり、にぎやかな商店街に囲まれています。現存最古の『古事記』写本も所蔵し、毎月18日と28日には境内に骨董市が立ちます。
基本データ
| 名称 | 琱玉集 巻第十二、第十四 |
|---|---|
| 所有者 | 宝生院(大須観音) 愛知県名古屋市 |
| 指定区分 | 国宝(書跡・典籍) |
| 指定年月日 | 昭和26年(1951年)6月9日 |
| 員数 | 2巻 |
| 書写年 | 天平19年(747年)、奥書による |
| 紙背 | 不空三蔵表制集 巻第二・第三(平安前期写) |
| 現在の所在 | 名古屋市博物館に寄託(改修により休館中、全面再開は2028年4月予定) |
| 公開状況 | 展示はまれな機会に限られる |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/573
- 琱玉集(ウィキペディア日本語版)
- https://ja.wikipedia.org/wiki/琱玉集
- 大須観音(北野山真福寺宝生院、ウィキペディア日本語版)
- https://ja.wikipedia.org/wiki/大須観音
- 名古屋市博物館(公式サイト)
- https://www.museum.city.nagoya.jp/
最終更新日: 2026.06.05