大鳥井山遺跡附陣館遺跡 ― 川に囲まれた丘に残る清原氏の居館

秋田県横手市、横手盆地の東縁に二つの低い丘が並ぶ。大鳥井山と小吉山と呼ばれるこの丘陵には、11世紀の北東北で有数の規模をもつ防御的な居館の跡が眠っている。市役所本庁舎から北東へおよそ2キロメートル。丘の西を横手川、北を吉沢川、南を明永川が限り、三方を水に守られた立地である。

ここに築かれたのは寺院でも墳墓でもなく、防御のための住まいであった。1977年(昭和52年)以来の発掘調査によって、居住域の周囲を二重の土塁と空堀が巡る構造が確認されている。平安時代後期の地方豪族の居館、いわゆる「居館(きょかん)」の姿を今に残す、数少ない遺跡のひとつである。2010年(平成22年)に国の史跡に指定され、2017年(平成29年)には近隣の陣館遺跡が追加指定されて、現在の正式名称は「大鳥井山遺跡附陣館遺跡」となった。

清原氏と奥羽の合戦

11世紀の横手盆地は、山本・平鹿・雄勝の三郡からなり、出羽の武士団・清原氏の本拠であった。清原氏は前九年合戦(1051〜1062年)で源頼義の側に立って陸奥の安倍氏と戦い、奥羽に勢力を広げた。その一族はやがて後三年合戦(1083〜1087年)で内部対立に陥り、源義家を巻き込んだこの戦いののち、清原氏の地位と所領は奥州藤原氏へと引き継がれていく。

大鳥井山遺跡は、その時代のただ中にある。前九年合戦の経過を記した軍記『陸奥話記』には、安倍正任が「初め出羽の光頼が子、字は大鳥山太郎頼遠の許に隠る」とある。地元では古くから、この「大鳥山」を現在の大鳥井山とみて、清原光頼とその子頼遠の根拠地と考えてきた。合戦の記録に現れる城柵のうち、現地と確実に結びつけられる例は多くない。大鳥井山遺跡は、安倍氏の鳥海柵(現在の岩手県)とともに、その数少ない一例とされる。

発掘調査が明らかにしたもの

遺跡が知られるようになったきっかけは、思いがけないものだった。旧横手市がこの丘に総合運動公園を計画し、建設に先立つ調査の過程で、埋もれた防御施設が姿を現したのである。発掘はその後11次に及び、うち7次は1977年からの小吉山地区、さらに2007年(平成19年)からの3カ年は大鳥井山地区を対象とした。

確認された防御施設は堅固なものだった。居館の主要部の周囲を、二重の土塁と二重の空堀が取り巻く。外側の土塁は最大幅9.2メートル、高さ1.6メートル、外側の堀は最大幅8.8メートル、深さ2.5メートルに達する。土塁と堀の内縁には柵列が巡り、それに沿って物見櫓とみられる建物が建っていた。外側の堀には、渡るための土橋が架けられた箇所も見つかっている。

内部の平坦地は、最大幅4メートルの大溝によって南北に区画されていた。小吉山地区だけで掘立柱建物跡は60棟、北側に17棟、南側に43棟を数える。多くは梁行・桁行ともに1間の小規模なものだが、11世紀前半以降には大型の建物も現れる。建物群は三つの時期に分かれ、10世紀後半の第I期は建物の方位が30度ほど傾き、11世紀の第II・III期には北向きに近づく。大鳥井山の山頂部では、この遺跡で最大の建物が見つかった。梁行2間・桁行5間、四面に廂をめぐらせた掘立柱建物で、二重の大溝と土橋を伴っていた。

出土した遺物が、その絵に色を加える。大半を占めるのはロクロ土師器で、10世紀後半から11世紀末のもの、前九年・後三年の両合戦と同じ時代にあたる。ほかに須恵器、中国製の白磁、常滑窯の四耳壺、扇などの木製品、刀子といった金属製品が見つかっている。とりわけ注目されるのが、椀と小皿が組になった「かわらけ」で、その数は300点近い。この時代のかわらけがこれほどまとまって出土する例は全国でも珍しく、土塁の内側で営まれた儀礼や宴の場をうかがわせる。中国製とみられる石硯もほぼ完全な形で出土し、平泉の柳之御所遺跡から見つかったものとよく似ている。

この類似が、遺跡の価値の核心にある。川と街道に挟まれた独立丘陵を土塁と堀で囲むという大鳥井山の設計は、奥州藤原氏が12世紀に築いた居館、すなわち平泉の柳之御所遺跡や福島県の陣が峯城跡の構造を先取りしている。藤原氏が清原氏の築造技術を受け継いだとみる研究者は少なくない。長く文献からのみ語られてきた北東北の歴史にあって、記録に名の残る武士団の姿を土の中から具体的にたどれる場所は貴重である。

丘を歩く

遺跡は柵などのない開かれた場所で、入場は無料である。丘は、かつてその発見のきっかけとなった総合運動公園と地を分け合っている。プールや広場、テニスコートが平坦地の多くを占めるため、地表で見られる遺構は南側の大鳥井山と、西側の小吉山の斜面に集まっている。

注目したいのは二重の堀である。200年あまりの間に土が流れ込んで掘り込みは浅くなり、深い谷を予想して訪れると、その穏やかさに少し驚くかもしれない。読み取るには、わずかな想像力がいる。土塁がよく残るのは大鳥井山で、ここは後世に造成されることがなかった。山頂には、かつて四面廂付の大型建物が建っていた場所に大鳥井山神社が鎮座する。公園の駐車場から神社へ向かう尾根筋には、大鳥井山十三塚と呼ばれる小さな塚の群れがある。鎌倉時代後期のものと考えられ、その下手を二重堀が走る。

主要な地点には解説板が立つが、表記はおもに日本語である。より深く知りたい人は、横手市内の博物館に足を運び、出土したかわらけや石硯を展示の中で見るとよい。

後三年合戦の舞台をめぐる

大鳥井山遺跡は、合戦の舞台をたどる道のりのひとつの停留所でもある。後三年合戦はこの盆地の一帯で展開し、記録に名の残るほかの城柵も近くにある。戦いが最も激しさを増した金沢柵の推定地は、北へ車で少し走った金沢公園となり、沼柵の跡は南西に位置する。2017年に大鳥井山遺跡へ追加指定された陣館遺跡は、その金沢柵の候補地のひとつであり、大鳥井山の山頂と驚くほど似た四面廂付の建物跡が見つかっている。

横手は、ゆっくり滞在する価値のある町である。2月のかまくら行事では、数百のかまくらが灯にともされる。横手やきそばは、目玉焼きと紅生姜を添えた焼きそばで、この町の名物として知られる。少し足を延ばせば、原画を専門に扱う日本初の公立美術館である増田まんが美術館や、秋田ふるさと村もある。

玄関口はJR奥羽本線の横手駅で、遺跡は駅から北東へタクシーで短い道のりにある。車であれば総合運動公園の案内に従えばよく、駐車場は無料である。

Q&A

Q大鳥井山遺跡とは何ですか。
A後の時代の武家の城ではなく、平安時代後期の防御的な居館の跡です。二つの丘に二重の土塁と空堀が巡り、内側に掘立柱建物が建っていました。主に10世紀後半から11世紀末にかけて営まれました。
Q誰の居館だったのですか。
A横手盆地を治めた武士団・清原氏の居館と考えられています。『陸奥話記』は清原光頼とその子頼遠の名を記し、地元ではその根拠地をこの丘陵に求めてきました。
Q見どころは解説板だけですか。
A土塁は大鳥井山によく残り、その上を歩いて二重の堀をたどることができます。風化して低く穏やかなため、先に解説板を読んでおくと理解が深まります。山頂の神社や十三塚も散策の楽しみになります。
Q見学にどれくらいかかりますか。入場料は必要ですか。
A入場は無料で、いつでも訪れることができます。地表の遺構をひと通り歩くなら1時間ほど、近隣の後三年合戦関連の史跡と組み合わせれば半日の行程になります。
Q訪れるのに良い時期はいつですか。
A土塁の輪郭がはっきり見えるのは、晩春から秋にかけてです。横手の冬は雪が深く地表の遺構は埋もれますが、名高いかまくら行事の季節でもあります。

基本情報

名称大鳥井山遺跡附陣館遺跡(おおとりいやまいせきつけたりじんだていせき)
所在地秋田県横手市大鳥町・新坂町
指定区分国指定史跡(指定基準二・政治に関する遺跡)
指定年月日2010年(平成22年)2月22日/陣館遺跡を2017年(平成29年)10月13日に追加指定
指定面積約120,479平方メートル
時代古代〜中世。居館はおもに10世紀後半から11世紀末にかけて営まれた
関連清原氏、前九年合戦・後三年合戦
アクセス横手市役所本庁舎から北東へ約2キロメートル。JR奥羽本線・横手駅からタクシーで短時間。隣接する総合運動公園に無料駐車場あり
公開状況常時開放・入場無料(屋外の史跡)

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース「大鳥井山遺跡附陣館遺跡」
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/00003656
横手市公式サイト「大鳥井山遺跡」(後三年合戦のページ)
https://www.city.yokote.lg.jp/gosannen/1001607/1003577.html
奈良文化財研究所 全国遺跡報告総覧「大鳥井山遺跡」
https://sitereports.nabunken.go.jp/49299

最終更新日: 2026.05.22