観福寺の銅造地蔵菩薩坐像

延慶2年(1309)の三月、実胤という人物が一躯の銅造の地蔵菩薩を鋳させた。自分の供養のためではない。先に同じ場所へ二躯の銅仏を寄進した実政という人の追善、つまり亡き人の冥福を祈るための造立だった。その由来は像を支える鏡板の刻銘に記されており、おかげでこの地蔵坐像は、製作年のはっきりしない中世仏が多いなかで、年代を一年単位まで特定できる数少ない一例となっている。

像は金銅製で、坐した姿が円形の鏡板に取り付けられ、その鏡板がそのまま光背を兼ねる。形式としては懸仏(かけぼとけ)に準ずるもので、丸い鏡板に尊像を組み合わせて堂内に懸けた礼拝具の系譜に連なる。地蔵菩薩は、あらゆる苦しみの世界が空になるまで救済を続けると誓った菩薩であり、とりわけ亡き人と旅路にある人の守り手として頼られてきた。追善の本尊に地蔵を選んだのは偶然ではない。亡魂を託すなら、まずこの尊像である。

この地蔵は、観福寺に伝わる銅造の懸仏4躯のうちの一つにあたる。残る三躯は釈迦如来、十一面観音、薬師如来。いずれももとは独立した本尊としてではなく、近くに鎮座する香取神宮の本地仏として鋳造されたものだった。

神社のための仏像

「神社の本地仏」という言い方には説明がいる。中世の日本では、神と仏は対立する存在ではなかった。本地垂迹(ほんじすいじゃく)の考え方のもとで、神はある仏・菩薩が土地に現れた「垂迹(すいじゃく)」であり、その仏の側が本来の姿である「本地(ほんじ)」とされた。だから神社は、祭神の本来の姿をあらわす仏像を併せて祀った。

観福寺の4躯は、この役割のために、東国でも屈指の古社である香取神宮へ向けて鋳造された。明治の神仏分離によって、全国の神社からこうした仏像が移される中で、4躯は観福寺へ納められ、今日に至っている。

銘文からは、4躯が一度に造られたのではないことが分かる。先に鋳られたのは釈迦如来と十一面観音で、弘安5年(1282)、仏師蓮願(れんがん)の作である。この二躯には「異国降伏」の文字が刻まれている。年代を考えれば穏やかな言葉ではない。文永11年(1274)と弘安4年(1281)の二度、クビライの率いる元の艦隊が海を渡って襲来した。二度目の弘安の役は暴風が元軍の船を砕いて終わったが、二躯の如来はその直後に、敵の退散を願って鋳られている。実胤が実政のために地蔵を造らせた延慶2年は、その脅威が過ぎ去ってから、およそ一世代のちのことだった。

指定の理由と、見るべきところ

地蔵菩薩坐像は、ほかの三躯とともに大正2年(1913)、重要文化財に指定された。その価値は史料としての面と、美術としての面の両方にある。中世の銅仏で、確かな製作年と願主の名、そして造立の理由までが揃って分かるものは多くない。この像は三つともが明らかで、ほかの作品の年代を測る基準点として使える。

鋳造の技法も見どころである。頭体と両脚部は合わせ型を用いて一度に鋳造し、両手先は別に鋳てから手首に差し込んでいる。背面には二本のほぞが造り出されて鏡板を支え、膝下の四本のほぞは台座に取り付けるためのものだった。当初の台座は4躯とも失われ、現在のものは後補である。これを知っていると、台座を中世の遺品として眺めるのをやめ、銅の像そのものへ目が向くようになる。

様式にも、声高でない物語がある。弘安5年の二躯は、鎌倉時代の写実を確立した慶派の、堅実で量感のある作風で仕上げられている。一方、延慶2年の地蔵には宋風、すなわち宋代中国の趣味の影響が見てとれる。この四半世紀あまりのあいだに大陸からもたらされた、やわらかく外来的な感覚である。同じ宋風は、鏡板を失った薬師如来にも認められ、様式の上では古い二躯ではなく地蔵の側にまとめられる。4躯を並べれば、一つの社の荘厳具のなかに、約三十年ぶんの日本の銅仏の好みの移り変わりが収まっていることになる。

像をめぐる寺

観福寺は、それ自体が訪ねる価値のある寺である。真言宗豊山派に属し、寺伝では寛平2年(890)の開基という。地元では川崎大師・西新井大師と並ぶ関東三大厄除大師の一つに数えられ、縁日には厄除けを求める人で堂内が埋まる。本尊は、平将門の守護仏と伝わる聖観世音菩薩。将門は朝廷に背いた十世紀の武人で、その名は今も房総の記憶のなかに大きい。

境内には、もう一つ参拝者を引き寄せる名がある。商人から測量家へ転じ、日本中を歩いてわが国最初の実測日本地図を作り上げた伊能忠敬である。観福寺は忠敬の菩提寺で、境内には髪と爪を納めた墓が立つ。石畳の参道には枝垂れ桜が並び、春は花、秋は深い紅葉に染まる。時代劇のロケに使われるほどの風情で、十一月の末、木立の下の参道そのものを目当てに足を運ぶ人も少なくない。

Q&A

Q参拝すれば銅造地蔵菩薩坐像を見られますか。
A4躯の銅仏は寺宝として保管されており、常時公開はされていません。地域の仏教美術を扱う博物館の特別展に出品されることがあります。実物の拝観を希望される場合は、事前に寺へ問い合わせるか、千葉県内の博物館の出陳情報にご注意ください。境内や諸堂、桜並木の参道、伊能忠敬の墓は通年で参拝できます。
Q「懸仏」とは何ですか。普通の仏像とどう違うのですか。
A懸仏(かけぼとけ)は、丸い金属の鏡板に尊像を据え、もともと堂内に懸けて礼拝した荘厳具です。観福寺の銅仏はこの鏡板と尊像を組み合わせた形をとり、鏡板が光背を兼ねます。独立した本尊ではなく、神社の礼拝具として造られた出自を映した姿といえます。
Qなぜ神社のために仏像が造られたのですか。
A中世の本地垂迹の考え方では、神は仏・菩薩が土地に現れた姿とされました。そのため香取神宮のような神社は、祭神の「本来の姿」をあらわす仏像を併せて祀りました。この4躯はその本地仏として造られ、明治の神仏分離ののちに観福寺へ移されたものです。
Q観福寺へのアクセスは。
A所在地は香取市牧野1752です。佐原の市街からはタクシーが手軽で、徒歩ならJR佐原駅北口からおよそ30分。東京駅から佐原方面への高速バスが約90分で運行しており、「八坂前」停留所から寺まで徒歩約10分です。香取神宮や、小江戸とよばれる佐原の町並みと併せて巡る人が多いです。
Q仏像が見られなくても訪ねる価値はありますか。
Aあります。観福寺は関東でも知られた厄除けの寺で、堂々とした諸堂、桜並木の参道、秋の紅葉、そして測量家・伊能忠敬の墓があります。近隣の佐原の歴史的な商家の町並みと合わせて、半日の散策にちょうどよい組み合わせです。

基本データ

名称銅造地蔵菩薩坐像(どうぞうじぞうぼさつざぞう)
指定区分重要文化財(工芸品)/大正2年(1913)指定
年代延慶2年(1309)。鏡板に同年三月の銘
員数1躯(銅造懸仏4躯のうちの一つ)
品質・形状金銅製。円形の鏡板を光背とする懸仏に準ずる形式
作者・願主実胤が実政の追善のために鋳造
所有・所在観福寺(千葉県香取市牧野1752)
公開状況寺宝として保管。常時公開はされていない

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)「銅造地蔵菩薩坐像」
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/5194
千葉県「銅造十一面観音坐像 地蔵菩薩坐像 薬師如来坐像 釈迦如来坐像」
http://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/n141-001.html
香取市「観福寺」
https://www.city.katori.lg.jp/sightseeing/meisho/rekishi/kampukuji.html
千葉県公式観光サイト ちば観光ナビ「観福寺」
https://maruchiba.jp/spot/detail_10177.html

最終更新日: 2026.06.20