蒙古襲来の翌年に鋳られた金銅の釈迦

弘安5年(1282年)の8月、蓮願という仏師が一体の釈迦如来坐像を金銅で鋳上げた。像そのものは大きくない。円形の鏡板を背に負い、それを光背とする姿は、寺で多くの人が思い浮かべる丈の高い木彫像よりも、むしろ懸仏に近い。千葉県の北東、香取市牧野にある真言宗豊山派の寺、観福寺に伝わる銅造釈迦如来坐像である。

造られた年が重い。前年の弘安4年(1281年)、クビライ・ハーンが送った二度目の元軍は、九州沖で暴風に遭って壊滅していた。のちに「神風」と語られる嵐である。蓮願はその直後にこの像を鋳た。そして銘文には、隠すことなく時代の祈りが刻まれている――「異国降伏」。二度にわたって日本へ攻め寄せた敵の調伏を願う、金属に託された一文だ。

つくりは無駄がなく、確かだ。頭体と両脚部は合わせ型を用いて一度に鋳造し、両手先は別に鋳て差し込む。背からは2本のほぞが伸びて鏡板を支え、膝下の4本のほぞが台座を留めていた。その当初の台座はいずれも失われ、いま像が据わるのは後補のものである。

四躯のうちの一躯、そして神宮の仏のかお

この釈迦如来は単独で伝わったのではない。観福寺には銅造の像が四躯まとまって残る。十一面観音坐像、地蔵菩薩坐像、薬師如来坐像、そして釈迦如来坐像――この四躯が一括して、大正2年(1913年)に国の重要文化財に指定された。いずれも寺のために造られたものではない。東に程近い香取神宮の本地仏として鋳られた像である。

神社に仏像、という取り合わせを不思議に感じる必要はない。前近代の日本では、神と仏は長く一続きのものと考えられてきた。本地垂迹の考え方では、社に祀られる神は、その背後にある「本地」の仏が地上に姿を現したものと解された。だから本地仏の鋳像が社のうちに祀られることは珍しくない。観福寺の四躯は、香取神宮の仏としての顔だったわけである。後の世に寺へ移された。

制作の事情は、鏡板の刻銘が語っている。四躯は二期に分けて鋳造された。先に造られたのが釈迦如来と十一面観音で、いずれも弘安5年(1282年)の蓮願作、願主は実政という人物。地蔵菩薩はそれより下って延慶2年(1309年)、亡き実政の追善のため実胤が願主となって鋳た。鏡板を失い銘を欠く薬師如来は、宋風の作風が地蔵菩薩と通じることから、同じ頃の作と見られている。

四躯のなかでは、先行する二躯のできばえが際立つ。蓮願が拠ったのは慶派の様式――奈良と鎌倉で仏像彫刻に新しい写実を持ち込んでいた、あの一門である。堅実に肉づけされた体軀と、ひとりの人物を見るような面相に、その志向がはっきりと出ている。

見どころ

写真ではこの種の像の質感は伝わりにくい。実物でまず目に入るのは、寸法と肌だ。小ぶりで密度があり、七百年あまりの取り扱いと護摩の煙にさらされて、金の鍍金は触れられたところから温かい褐色へと退いている。

次に面相。角ばった顎と、わずかに伏せた張りのある眼差しは慶派の手つきで、なめらかに理想化された前代の仏面より、肖像に近い。

背後の鏡板にも目を留めたい。これは飾りではない。年紀の銘を刻むのはこの円い銅板であり、磨いた銅鏡そのものを神聖視してきた古い習いとこの像をつないでいる。神鏡に仏を表す懸仏と、すぐ隣り合う造形だ。

この像が際立つのは、わかることの多さにある。月まで特定でき、鋳た仏師の名がわかり、しかも一国の危機と結びつく――そこまで揃う仏像は、そう多くない。

像をとりまく寺

観福寺は、像を抜きにしても訪ねる価値がある。寺伝は寛平2年(890年)の開基を伝え、いまは真言宗豊山派に属する。川崎大師、西新井大師と並んで関東三大厄除大師に数えられ、大師堂には弘法大師空海を祀る。毎月21日、わけても正月には、厄除けの護摩を求めて堂が人で埋まる。

境内には、来訪者の意表をつく墓がひとつある。商家に生まれ、晩年に全国の海岸線を測量して初めて正確な日本地図を作り上げた伊能忠敬――その縁は近くの佐原にあり、髪と爪が観福寺に納められたと伝わる。墓地にはほかに江戸期の学者たちが眠り、風化した下総板碑も点在する。

参道はゆっくり歩きたい。春は枝垂れ桜、初夏は深い新緑、秋は紅葉が続く。香取市は千葉の北東に位置し、運河沿いに商家が並ぶ佐原の町並みと、像がもともと仕えた香取神宮そのものとを、無理なく一日で巡れる。鉄道ならJR成田線、車なら東関東自動車道からの来訪が多い。

Q&A

Q参拝すれば本物の銅造釈迦如来坐像を拝観できますか。
A通常の参拝で拝観できるものではありません。四躯の銅造像は重要文化財で、常時公開はされていません。境内や大師堂、四季の景観は誰でも訪ねられます。特別な拝観については寺務所にお尋ねください。
Qなぜ神社に仏像が必要だったのですか。
A前近代の本地垂迹の考え方では、神と仏は一つの聖なるものの二つの姿とされました。社の「本地」の仏を表す鋳像を社内に祀ることは、明治初年に神仏が強制的に分けられるまで、ごく普通のことでした。
Q銘文には何が書かれているのですか。
A弘安5年(1282年)8月という年紀と、「異国降伏」を願う一文が刻まれています。文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)の蒙古襲来を指す祈りで、二度目の襲来は像の鋳造のわずか前年に終わったばかりでした。
Qここは厄除けで知られるお寺ですか。
Aはい。観福寺は川崎大師・西新井大師と並ぶ関東三大厄除大師の一つで、いまも厄除け祈願の参拝者でにぎわいます。とりわけ正月の護摩は盛んです。
Q測量家・伊能忠敬とはどう関わるのですか。
A全国を測って日本地図を作った伊能忠敬は、近くの佐原に縁があります。その遺髪と爪が観福寺の墓地に納められたと伝わります。

基本情報

名称銅造釈迦如来坐像(どうぞうしゃかにょらいざぞう)
所在地千葉県香取市牧野1752 観福寺
指定区分国指定 重要文化財(工芸品)
指定年月日大正2年(1913年)8月20日
員数1躯(銅造四躯一括のうちの一躯/指定番号00040)
制作年代鎌倉時代 弘安5年(1282年)8月
仏師蓮願
品質・形状金銅仏。円形の鏡板を光背とする懸仏に準ずる形式
所有者観福寺(真言宗豊山派)
公開状況常時公開はされていない

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース 銅造釈迦如来坐像
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/5196
千葉県 教育振興部文化財課 銅造十一面観音坐像 地蔵菩薩坐像 薬師如来坐像 釈迦如来坐像
https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/n141-001.html
観福寺(香取市牧野) ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/観福寺_(香取市牧野)

最終更新日: 2026.06.20