頭は七世紀、体は江戸――ひとつの像にふたつの時代

龍角寺の収蔵庫におさめられた薬師如来坐像は、首から上と首から下で、できた時代がまるで違う。顔は七世紀の終わり、白鳳期に鋳られた金銅の仏頭である。それより下は、十八世紀初めの作だ。元禄のころに堂を焼いた火災で当初の体部は失われ、焼け残った頭部を受け継ぐかたちで、のちの鋳物師たちが新しい体を鋳た。

像高はおよそ130センチ。顔だけで長さ19.7センチ、幅17センチを測る。正面に立つと、頬から顎にかけての量感がまず目に入る。本尊は薬師如来、病を癒す仏で、左手に薬壺をとる姿で知られる。千葉県印旛郡栄町、成田の北に広がる台地の縁に龍角寺はある。山号は天竺山、院号は寂光院、天台宗の寺院である。

寺伝はこの寺を、下総国でもっとも古い寺院と伝える。創建は七世紀後半とされ、和銅2年(709)に竜女が現れて建てたという縁起も残る。ただし頭部の作風が示す年代は、それより少し前、白鳳期にさかのぼる。長い歴史を通じて、龍角寺の名はこの一つの仏頭とともに語られてきた。

寺の名には竜の伝説がついてまわる。天平3年(731)、大干ばつに苦しんだ人々が雨を乞うと、一頭の竜が現れて雨を降らせ、やがて頭・胴・尾の三つに分かれて天から落ちてきたという。頭が落ちた地が龍角寺となり、胴は西へ8キロほどの龍腹寺(印西市)に、尾ははるか東南の龍尾寺(匝瑳市大寺)に落ちた。一頭の竜が三つに裂け、下総のあちこちに三つの寺を残した――そんな物語である。

傷ついた仏頭が、なぜ貴いのか

七世紀後半の金銅仏は、奈良の周辺なら珍しくない。旧都のあたりには数多く伝わっている。ところが東へ下り、のちに東京とその周辺となる広い平野に入ると、その数はほとんど尽きる。関東で名が挙がるのは二躯。東京都調布市・深大寺の釈迦如来倚像と、この龍角寺の薬師如来である。どちらも白鳳期、飛鳥時代後期の作で、まだ東国が大きな力を持つ前に、なぜかこの地まで運ばれてきた。

比較に深大寺像を挙げる意味は大きい。深大寺の釈迦如来倚像は、平成29年(2017)に重要文化財から国宝へと格上げされた。東国に残る白鳳仏がいかに稀少で、いかに優れているかが、あらためて認められた格好である。龍角寺像は昭和8年(1933)以来、重要文化財の指定を保つ。戦前の旧国宝保存法のもとではかつて国宝に数えられており、昭和25年(1950)の文化財保護法への移行にともなって現在の区分になった経緯を持つ。

この仏頭の価値を支えるのは、鋳造の確かさと表情である。白鳳の仏師たちは、初唐や朝鮮三国から新しい手本を受けとり、それまでの飛鳥仏の硬く正面的な造形から、より柔らかく若々しい表現へと踏み出した。切れ長の目、眉から鼻筋へ通る深い線、豊かな耳、そしてかすかに口もとに浮かぶ微笑――白鳳仏に独特の、いわゆる古式の笑みが、ここにそろっている。火災で表面はところどころ荒れたものの、像が伝えようとした顔の表情そのものは損なわれずに残った。

像の前に立ったら、どこを見るか

まず探したいのは、首のあたりの継ぎ目である。顎の下のどこかで、七世紀の頭部と十八世紀の体部が出会っている。古い金銅には熱を受けた跡があり、下の新しい金属とは肌合いも色味もわずかに違う。正徳年間に補作を引き受けた鋳物師は高い技量を持っており、頭部とよく釣り合う体をつくり、顔の静けさに体つきを合わせた。それでも、二つの時代の金属が一つの肌になりきることはない。その見える歴史こそが、この像をただ古いだけでない見ごたえあるものにしている。

次に微笑を見たい。控えめで、どこか内に向いた笑みは、光の当たり方で表情を変える。浅く長く彫られた目が、顔にうちへ沈むような気配を与える。これらは現存する白鳳仏に共通する特徴で、実物の前で確かめる体験は、写真とはまるで別のものだ。

拝観について一つ補っておく。薬師如来は拝殿の奥に建つ奉安殿という収蔵庫に安置され、拝殿の外から拝することになる。像は厨子のなかにあり、頭頂部は陰に入って見えにくいこともある。造形をもっと近くで見たい人には、少し離れた風土記の丘資料館に等身大の頭部のレプリカがあり、目の高さで眺められる。隣には深大寺の釈迦如来や、山田寺旧仏として知られる仏頭の模造も並ぶ。ほぼ同じ時代の三つの顔が、それぞれにまったく違う。

寺のまわりを歩く

龍角寺は、関東でも有数の遺跡が密集する一帯の縁に立つ。台地の上には龍角寺古墳群が広がり、六〜七世紀に築かれた数十基の墳墓が点在する。なかでも岩屋古墳は、東日本でも屈指の規模を誇る方墳である。寺とこれらの古墳は同じ古代の物語に属している。仏教と、それにともなう金銅鋳造の技術を導き入れるだけの富を持った、有力な在地の豪族の姿が、その背後に浮かぶ。

この一帯の多くは、いまは県立の野外博物館・房総のむらに取り込まれている。その風土記の丘エリアは古墳のあいだに遊歩道をめぐらせ、出土資料を展示する資料館へと続く。先に触れた仏頭のレプリカもここにある。近くには移築された二棟の重要文化財――明治32年(1899)建設の旧学習院初等科正堂と、安永年間(1780年ごろ)の旧御子神家住宅――が建つ。むらの工房では、そば打ちやわら細工などの体験もできる。

寺の境内では、いまは失われた三重塔の花崗岩製の心礎を探したい。国の史跡に別途指定された塔阯である。石の中央のくぼみは、かつて塔の心柱を据えた跡で、そこに溜まった雨水は、大雨でも増えず日照りでも減らないと伝えられてきた。土地の人はこれを「不増・不滅の石」と呼ぶ。

たどり着くには少し算段がいる。最寄りはJR成田線の安食(あじき)駅。そこから龍角寺方面への循環バスは本数が少なく、千葉交通バスで風土記の丘付近まで行って歩く手もある。成田山新勝寺を訪ねるついでなら、成田からバスで栄町へ入るのが分かりやすい。訪れるなら土日祝がよい。栄町の文化財サポーターによる無料のボランティアガイドが、おおむね10時から16時のあいだ案内に立ち、竜の伝説や薬師如来、塔阯の心礎について解説してくれる。

Q&A

Q仏像を間近で見られますか。
A間近では見られません。像は拝殿の奥の収蔵庫(奉安殿)に安置され、拝殿の外から厨子越しに拝観します。頭頂部は陰になって見えにくいこともあります。造形をはっきり目の高さで見たい場合は、近くの風土記の丘資料館にある等身大のレプリカがおすすめです。
Q七世紀の作なのは像のどこまでですか。
A首から上の頭部のみです。元禄年間の火災で当初の体部が失われ、正徳年間(1711〜1716)に鋳造し直されました。頭部が白鳳期に伝わる部分で、体部は当時一級の技術による江戸期の補作です。
Q写真撮影はできますか。
A取り扱いは時期や状況によって異なり、指定文化財でもあるため、当日に寺やガイドへ確認してください。そもそも拝殿の外からの拝観となるため、撮影に向いた条件ではない点もご了承ください。
Qほかの見どころと組み合わせるには。
A同じ台地にある房総のむらと風土記の丘の古墳群を合わせると、古代史をめぐる半日のコースになります。成田山新勝寺のある成田からはバスで近く、旅程の起点にしやすい場所です。
Q深大寺の白鳳仏とは何が違うのですか。
Aどちらも東国に伝わった稀少な白鳳期の金銅仏です。深大寺の釈迦如来倚像は全身がそろい、2017年に国宝に指定されました。龍角寺像は当初の頭部のみを残します。レプリカ越しでも並べて見ると、同じ時代の二つの顔がいかに違うかがよく分かります。

基本データ

名称銅造薬師如来坐像(どうぞうやくしにょらいざぞう)
所在地千葉県印旛郡栄町龍角寺239(龍角寺)
所有者龍角寺(天台宗・天竺山寂光院)
指定区分重要文化財(彫刻)/1933年(昭和8年)指定。旧国宝保存法下ではかつて国宝
員数1躯
品質・構造銅造(鋳造)
年代頭部:7世紀後半(白鳳期。文化庁の区分では飛鳥時代)/体部:江戸期の火災後、正徳年間(1711〜1716)に再鋳
寸法像高 約130cm/顔の長さ 19.7cm/顔の幅 17cm
公開状況奉安殿に収蔵し、拝殿の外から拝観。土日祝はボランティアガイドが10:00〜16:00に常駐することが多い。拝観は事前に栄町役場へ確認
アクセスJR成田線・安食駅から循環バスまたは千葉交通バスで風土記の丘方面へ。房総のむらに近接

参考文献

千葉県教育委員会「銅造薬師如来坐像」
https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/n131-004.html
文化庁「国指定文化財等データベース」
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/2766
栄町教育委員会「龍角寺でのボランティアガイドについて」
https://www.town.sakae.chiba.jp/kyouikuiinkai/bunkazai/page005873.html
調布市「銅造釈迦如来倚像(国宝)」
https://www.city.chofu.lg.jp/100200/p073020.html
「龍角寺」(ウィキペディア日本語版)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E8%A7%92%E5%AF%BA
「千葉県立房総のむら」(ウィキペディア日本語版)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E7%9C%8C%E7%AB%8B%E6%88%BF%E7%B7%8F%E3%81%AE%E3%82%80%E3%82%89

最終更新日: 2026.06.20