吹き潰される寸前に救われた金銅の薬師
明治元年(1868)の冬、香取神宮の本殿内陣から、小さな金銅の仏像が運び出された。新政府が神社と寺院を切り分けるよう命じた直後のことで、銅の仏は信仰の対象としてよりも、溶かした地金として値がつく品となっていた。翌明治2年(1869)、佐原の篤志家がこれを買い戻し、台座を新たにあつらえて、牧野の丘にある観福寺へ納めた。以来、この像は同寺にとどまっている。
それが、千葉県香取市の観福寺に伝わる銅造薬師如来坐像である。像高はおよそ33センチメートルにすぎないが、その背後には二つの時代が重なっている。神と仏が一体として祀られていた中世の神宮と、六百年を経てその結びつきが断ち切られた明治初年の出来事である。
神でありながら仏であった頃
香取神宮は、歴史の大半を通じて純粋な神社ではなかった。奈良時代以降、境内には経蔵や愛染堂といった仏教施設が置かれ、日本の神々と仏とを同じ聖なる力の二つの姿とみなす考え方が根づいていた。本地垂迹説と呼ばれるこの思想では、それぞれの神は特定の仏や菩薩を「本地」としてもつ。本殿内陣の神座の前には、その本地仏が4躯安置されていた。
4躯はいずれも独立した彫像ではなく、懸仏(かけぼとけ)である。銅で鋳た坐像を、光背を兼ねた大きな円形の鏡板に取り付けたもので、神道で古くから神聖視されてきた銅鏡を背に負う形をとる。御正体(みしょうたい)とも呼ばれるこの種の品は、平安時代末から室町時代にかけて各地の社寺へ盛んに奉納された。観福寺の4躯は、鎌倉期の懸仏のなかでも屈指の出来栄えとして広く知られている。
うち2躯には年紀の刻銘がある。釈迦如来坐像と十一面観音菩薩坐像は弘安5年(1282)、蓮願という工人の手で鋳造され、その銘文は天長地久・当社繁昌・異国降伏・心願成就を祈念して造立されたことを記す。「異国降伏」とは元寇の調伏を指す。二度目の蒙古襲来である弘安の役が前年の弘安4年(1281)に退けられたばかりで、この造像はその直後に行われた。さらに延慶2年(1309)には、香取社の大禰宜大中臣実胤が亡父実政らの追善供養のために地蔵菩薩坐像を加えている。
薬師如来をめぐる静かな謎
4躯のなかで、薬師如来坐像はやや異質である。年代や造立の目的を記したはずの当初の鏡板が失われており、鋳造の年は確かめようがない。細部を見ると、弘安5年銘の2躯とは様子が異なる。釈迦如来や十一面観音にある肉髻珠(にくけいしゅ)と白毫(びゃくごう)を欠き、台座に取り付ける造作も別の作り方になっている。このため、これら2躯と同じ一具として当初から鋳られたものではないと考えられている。現在は4躯が一組として祀られているが、出自は必ずしも同じではない。
もっとも自然な解釈は、当初の4躯のうち失われた1躯を補うかたちで、薬師如来が後に加わったというものである。正確な由来はともかく、この像が鎌倉時代の作であることに変わりはなく、群全体が炉の火に消える寸前まで追い込まれたことを思えば、こうして残っていること自体が稀有といえる。
薬師如来は病苦を救う仏で、左手に薬壺(やっこ)を執る姿に表されることが多い。かつて香取の神前に立った参拝者にとって、この静かな坐像は、祈りを捧げる神の内に宿る仏の姿であった。
重要文化財としての価値
4躯は大正2年(1913)に旧法のもとで国宝に指定され、昭和25年(1950)に文化財保護の制度が改められたのち、重要文化財に区分されている。指定の種別は彫刻ではなく工芸品である。木を彫った像ではなく銅を鋳た金属工芸の品であり、その技法が鋳造の工に属するためである。
その鋳造の手法も見どころとなる。これらの像は、頭部・体部・両脚部を合わせ型で一度に鋳造し、両手先のみ別に鋳て差し込む。背面には2本のほぞを造り出して鏡板を支え、膝下には4本のほぞを設けて台座に固定した。当初の台座はいずれも失われ、現在のものはすべて後補で、明治2年の救出時に新調された台座も含まれる。
この群を貴重にしているのは、技術の高さだけではない。年紀をもつ銘文が、特定の神宮、特定の神官の家、そして十三世紀の日本を揺るがした元寇という国家的な危機に、これらの品を直接結びつけている。時・場所・造立の意図がこれほど明確にたどれる中世の金銅仏は、数えるほどしかない。
観福寺と周辺の見どころ
観福寺は、香取市牧野の木立に覆われた高みに位置する。正式には妙光山蓮華院観福寺といい、寛平2年(890)の開基と伝わる真言宗豊山派の寺院である。川崎大師・西新井大師とともに関東三大厄除大師の一つに数えられ、正月には厄除けを願う参拝者でにぎわう。
4躯の金銅仏は本堂裏の収蔵庫に納められ、常時の公開はされていない。拝観は寺へ事前に申し込むのが基本となる。4躯のうち十一面観音は他所の展示へ貸し出されることもあるため、遠方から訪ねる際は、あらかじめ現在の状況を確かめておくとよい。
境内そのものも、ゆっくり歩く値打ちがある。参道には春に咲く枝垂れ桜が植えられ、斜面は夏に緑、秋に紅葉と移ろう。墓域には、初めて実測による日本全図を完成させた伊能忠敬の墓があり、当寺が髪と爪を納めた参り墓を守る。観福寺は、掘割の残る商家町で「小江戸」とも呼ばれる佐原からも、これらの像がかつて仕えた香取神宮からも、気軽に足を延ばせる場所にある。鉄道ではJR成田線の佐原駅が最寄りとなる。
Q&A
- 銅造薬師如来坐像とは、どのような像ですか。
- 鎌倉時代に造られた金銅製の薬師如来坐像で、像高はおよそ33.4センチメートルです。円形の鏡板に取り付けた懸仏(御正体)の形式をとり、観福寺に伝わる4躯の金銅仏の一つです。もとは香取神宮の本地仏として、神の本地である仏の姿に造られました。
- なぜ失われそうになったのですか。
- 明治元年(1868)以降、神道と仏教を分ける神仏分離令が出され、神社にあった仏像の多くが取り除かれて売却されました。この4躯も香取神宮から放出され、吹き潰される寸前で、明治2年(1869)に佐原の篤志家が買い求め、観福寺に納めました。
- 拝観はできますか。
- 4躯の金銅仏は本堂裏の収蔵庫に納められており、常時公開はされていません。拝観は寺への事前の申し込みが基本で、4躯のうち1躯が貸し出されている場合もあります。訪問前に観福寺へ問い合わせることをおすすめします。
- 元寇とは、どのように関わるのですか。
- 同じ群の2躯(弘安5年・1282年銘)には、「異国降伏」すなわち蒙古の襲来を退けることを祈る銘文が刻まれています。二度目の襲来である弘安の役が前年の1281年に退けられた直後の造立であり、この群は当時の国家的危機と深く結びついています。
- 寺には他に何が見られますか。
- 観福寺は関東三大厄除大師の一つで、春の枝垂れ桜や秋の紅葉でも知られます。境内には測量家・伊能忠敬の墓があり、商家町の佐原や香取神宮へも近く、あわせて巡るのに適しています。
基本情報
| 名称 | 銅造薬師如来坐像(どうぞうやくしにょらいざぞう) |
|---|---|
| 所在地 | 千葉県香取市牧野1752 観福寺 |
| 所有者 | 観福寺 |
| 指定区分 | 重要文化財(工芸品)/大正2年に旧法で国宝指定、昭和25年以降に重要文化財へ区分 |
| 指定年月日 | 1913年(大正2年)8月20日 |
| 時代 | 鎌倉時代 |
| 員数 | 1躯(金銅仏4躯のうちの1躯) |
| 像高 | 約33.4センチメートル(当初の鏡板を欠く) |
| 公開状況 | 収蔵庫に保管。拝観は原則として事前申し込み |
| アクセス | JR成田線・佐原駅から。佐原の町並みや香取神宮にも近い |
参考文献
- 文化庁 国指定文化財等データベース
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/5193
- 千葉県教育委員会 銅造十一面観音坐像 地蔵菩薩坐像 薬師如来坐像 釈迦如来坐像
- https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/n141-001.html
- 香取市 アーカイブ香取遺産 Vol.051~060
- https://www.city.katori.lg.jp/culture_sport/bunkazai/isan/isan_vol051-060.html
- ちば観光ナビ 観福寺
- https://maruchiba.jp/spot/detail_10177.html
最終更新日: 2026.06.20