簫の音に舞い降りる鳳凰 ― 弄玉仙図

縦一三一センチ、横五六センチ。一幅の掛軸のなかで、ひとりの女性が簫を口にあて、その音に応えるように上空から鳳凰が降りてくる。岩佐又兵衛勝以(一五七八〜一六五〇)が筆をとった「弄玉仙図」である。色はほとんど使われていない。極端に抑えた淡彩のうえに薄い金泥を一面にかけてあり、場面は現実から半歩離れた、夢のなかにぼんやり浮かぶような景色になっている。

弄玉は中国春秋時代、秦の穆公の娘と伝わる。簫の名手である仙人・簫史に学ぶうち、鳳凰の鳴き声をまねて吹けるようになり、彼女が簫を奏でると鳳凰が飛来したという。やがて簫史の妻となった弄玉は、簫史が竜に、自身は鳳凰に乗って天へ去ったと物語は結ばれる。又兵衛が描きとめたのは、その伝説のなかのただ一瞬 ― 音が役目を果たし、最初の一羽がもう空にいる場面である。

所有は千葉県柏市の公益財団法人摘水軒記念文化振興財団。作品は千葉市美術館に保管されている。重要文化財に指定されたのは平成二十一年(二〇〇九)七月十日のことだ。

散らばった屏風の一図として

もともとこの絵は、独立した掛軸として描かれたわけではない。福井藩を財政面で支えた御用商人・金屋家に伝来したと伝えられる押絵貼屏風 ― いわゆる旧金谷屏風の一図だった。十二図がそれぞれ別の画題で並んでいたが、長い年月のあいだに分割され、各地へと散っていった。「弄玉仙図」は、そうして残った一図である。

この十二図は、又兵衛の後半生を理解するうえでの基準になっている。慶長二十年(一六一五)の大坂の陣で豊臣家が滅んだのち、又兵衛は京を離れて元和二年(一六一六)ごろ福井に移り、寛永十四年(一六三七)に江戸へ向かうまで、二十年ほどをこの地で過ごした。旧金谷屏風の諸図はその福井在住時代の作と認められており、制作時期がほぼ定まっているからこそ、確証の薄い他の作品を又兵衛筆と判断する際のものさしになる。本図を後半生の基準作と呼ぶのは、誇張ではない。

墨が担っているもの

近づいて最初に気づくのは、抑制である。又兵衛は濃彩を扱えなかったわけではない。ここでは意図してそれを退け、墨の濃度すら絞り込んでいる。最も濃い黒を控え、淡い墨の階調を主体に画面を組み立てた。そこへ薄い金泥が加わることで、輪郭はやわらかくほどけ、全体が一段、現実から遠ざかる。

その柔らかさのなかで、ひとつだけ強く主張する要素がある。弄玉仙の着衣の輪郭線だ。画面の大半が淡墨の暈しでできているのに対し、衣だけは太く流麗な墨線で描かれ、線は進むにつれて肥え、また痩せる。この肥痩のある運筆こそ漢画系人物画の特質であり、人物にたしかな存在感を与えている。簫を奏でるとき大きく翻る長い袖の曲線は、彼女が奏でる調べそのものの形のようにも見える。

同じ旧金谷屏風の「官女観菊図」と並べてみると、性格の違いがはっきりする。あちらも彩色を極度に抑えて水墨で表すが、白描に近い線で描き、女性の髪や牛車の車に濃墨の面を置いて、白い肌と対照させている。「弄玉仙図」はその逆をいく。濃墨をほとんど用いず、墨の濃淡の幅をあえて狭め、繊細な金泥に空気をつくらせた。一方が鋭利なら、こちらは静かだ。

どこを見るか

画面をまとめているのは、三つの視線である。上空の鳳凰、中央の弄玉仙、その傍らに控える童女 ― 三者の目がつくる三角形が、構図の主軸をなしている。この三角を追えば、配置の意図がいちどに見えてくる。

もっとも注意深く、精密に描かれているのが弄玉仙の表情だ。簫を吹きながら、その目は上目遣いに鳳凰と視線を交わしている。自分の奏でる音に耳を澄ませつつ、その音が呼び寄せたものを見つめる ― ふたつの注意が同時に働く緊張がそこにある。画面下方に傾く土坡と桐の根、上方で右へ伸びる枝は、いずれも内へ向かって配され、人物を受け止め、音の響きをすくいとるかのようだ。

もうひとつ、見落としやすい点がある。鳳凰そのものが、とても小さい。淡い墨で控えめに描かれ、ほとんど遠慮がちですらある。又兵衛が参照したとされる明代の図像集『仙仏奇踪』をはじめ、この種の図様では鳳凰にもっと比重を置くのがふつうだ。彼はそれを反転させ、鳳凰を縮め、弄玉仙を大きく強調した。結果としてこの絵は、降りてくる鳥の奇瑞よりも、それを呼んだ女性と音そのものへと重心を移している。見る者の想いは、目に見えないもの ― 簫の音色のほうへ、そっと誘われていく。

筆をとった人

又兵衛自身の生涯も、彼が描いてもおかしくない物語をはらんでいる。天正六年(一五七八)、織田信長に反旗を翻した武将・荒木村重の子として生まれたと伝わる。村重の謀反は潰え、荒木一族の多くが斬られたが、乳飲み子だった又兵衛は乳母に救い出され、寺に匿われて生き延びたという。成人すると母方の姓「岩佐」を名乗り、土佐派や狩野派の画風を学びながら、どの流派にも属さず京で活動した。

福井で過ごした年月が、今日「又兵衛筆」と伝わる作品の多くを生んだ。やがて評判は江戸にも届き、寛永十四年(一六三七)、三代将軍徳川家光に娘の婚礼調度の制作を命じられて東へ招かれる。生前から「浮世又兵衛」と呼ばれ、のちに浮世絵の先駆と見なされていく絵師である。慶安三年(一六五〇)、江戸で没した。享年七十三。こうした来歴を知ると、「弄玉仙図」の夢のような静けさは、また違って見えてくる。波乱の出自を持つ人の手から生まれた、内に沈むような一図なのだ。

この絵に会うために、そして周辺で

これは建造物ではなく一幅の絵である。だから出会えるかどうかは、時期しだいだ。「弄玉仙図」は、江戸絵画の国内有数の個人コレクションとして知られる摘水軒コレクションに含まれ、千葉市美術館に保管されている。常時公開されているわけではなく、特別展などの機会に、同じコレクションの肉筆浮世絵や伊藤若冲らの花鳥画とともに姿を見せる。この絵を目当てに訪ねるなら、まず美術館の展覧会日程を確認してほしい。

千葉市美術館は千葉市中央区にあり、東京からも近い。江戸絵画と浮世絵の収蔵で知られ、それ自体が訪ねる価値のある場所だ。作品を所有する財団の名は、柏村の名主を務めた寺嶋家に由来する。水戸街道沿いの居宅は文人墨客が集う文化サロンの役割を果たし、その人と作品の交わりが、のちのコレクションの母体となった。柏は東京とつくばを結ぶ沿線のにぎやかな街で、千葉エリアで絵を見てまわる一日に組み込みやすい。

Q&A

Q今すぐ「弄玉仙図」を見ることはできますか。
A常時は公開されていません。光に弱い水墨画のため、主に摘水軒コレクションを保管する千葉市美術館の特別展などの機会に限って展示されます。訪問前に必ず美術館の最新日程をご確認ください。
Q描かれている女性は誰ですか。
A中国・秦の穆公の娘と伝わる弄玉です。仙人・簫史に学んで簫を巧みに吹くようになり、その音に鳳凰が飛来したという伝説の主人公です。本図はその飛来の瞬間をとらえた一幅です。
Qなぜそれほど重要なのですか。
A制作時期がほぼ定まる福井時代の優品であり、又兵衛筆の判断基準となる旧金谷屏風の一図だからです。彩色と濃墨を抑え、肥痩のある線と金泥で表した点に、漢画系人物画としての洗練があります。
Q岩佐又兵衛は本当に浮世絵の祖なのですか。
Aそう位置づけられる絵師のひとりです。生前から「浮世又兵衛」と呼ばれ、浮世絵の先駆と見なされてきました。ただし版画としての浮世絵が大きく展開するのは、彼より後の時代です。
Q作品の大きさは。
A縦約一三一センチ、横約五六センチの掛軸一幅です。無銘ですが印が捺されています。

基本情報

名称紙本墨画淡彩弄玉仙図〈岩佐勝以筆〉(しほんぼくがたんさいろうぎょくせんず)
指定区分重要文化財(絵画)
指定年月日平成二十一年(二〇〇九)七月十日
作者岩佐又兵衛勝以(一五七八〜一六五〇)
時代江戸時代・十七世紀(元和期〔一六一五〜一六二四〕頃)
形状・員数一幅/紙本墨画淡彩、全体に薄い金泥
寸法縦約一三一センチ×横約五六センチ/無銘・在印
所有者公益財団法人摘水軒記念文化振興財団
所在地千葉県柏市(千葉市美術館に保管)
公開状況特別展等で随時公開。常設展示ではない

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁):紙本墨画淡彩弄玉仙図〈岩佐勝以筆〉
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/00011428
文化遺産オンライン(文化庁):紙本墨画淡彩弄玉仙図〈岩佐勝以筆〉
https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/171341
千葉県教育委員会:紙本墨画淡彩弄玉仙図岩佐勝以筆
https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/n121-008.html
公益財団法人摘水軒記念文化振興財団:弄玉仙図(コレクション紹介)
http://www.tekisuiken.or.jp/collection/ukiyoe/u.250.html
柏市:紙本墨画淡彩弄玉仙図 岩佐勝以筆(市内の重要文化財)
https://www.city.kashiwa.lg.jp/bunka/about_kashiwa/culture/rekishi/shiteibunkazai/juyobunkazai/2808.html

最終更新日: 2026.06.20