後瀬山城跡 ― 小浜湊を見下ろす若狭武田氏の本城
大永2年(1522)、若狭守護の武田元光は、小浜の町の背後にそびえる後瀬山(標高約146メートル)の頂に城を築いた。眼下の小浜湊は、日本海沿岸で京にもっとも近い良港であり、中世以来、大陸との交易品が陸揚げされて都へと運ばれる玄関口でもあった。この山頂を押さえることは、港そのものを押さえることに等しかった。
元光が築いたこの城は、四代にわたって若狭武田氏の本城となり、その後は豊臣秀吉に近い武将が相次いで城主を務めた。慶長5年(1600)ごろに役目を終えたのちも、山中には石垣、段状に連なる曲輪、斜面を刻む竪堀群が良好な状態で残された。現在は国の史跡に指定されている。
守護はなぜ山上に城を構えたか
元光が家督を継いだころ、武田氏の立場は決して安泰ではなかった。父祖の代には若狭・安芸を領し、名目上は丹後守護をも兼ねる勢力であったが、永正4年(1507)の丹後侵攻での敗退、永正14年(1517)の重臣逸見氏の反乱と、内外から圧力を受けていた。従来の館は平地にあって政務には適していても、防備の面では心もとない。後年の記録は、数千の人夫が石を運び上げ、石垣と櫓を備えた要害を築いたと記している。軍事を見据えた普請であった。
城主は元光から信豊、義統、そしてその子元明へと続いた。一族の内紛が絶えず、隣国越前の朝倉氏が圧力を強めるなか、永禄11年(1568)には朝倉勢が元明を越前へ連れ去り、若狭における武田氏の実権は失われていく。武田氏が滅びるのは天正10年(1582)、本能寺の変に続く動乱のなかでのことである。
その後の展開は、この地の重みをよく示している。城主となった丹羽長秀は、天正10年10月、柴田勝家への備えとして城構えを強化した。天正15年(1587)には浅野長吉(のちの長政)、文禄年間には木下勝俊が城主を務めた。いずれも秀吉の中枢に近い人物である。城の歴史が閉じるのは慶長5年(1600)、若狭に入った京極高次が海沿いの平地に新たな小浜城を築いたことにともない、山上の城は廃された。
発掘が明らかにしたもの
昭和62年から63年(1987〜1988)にかけて、小浜市教育委員会が主郭の南西、一段下がった曲輪を発掘した。検出されたのは、東西約15.3メートル、南北約7.8メートルにおよぶ礎石建物の跡で、敷石を備えた玄関の遺構をともなっていた。造成面は2面あり、土塁や玄関にも二時期が確認されている。後の段階では第一期の礎石の大半を再利用しながら建物全体を建て替えており、玄関の構造も改められたと考えられている。土塁に連続して築山の遺構も見つかった。
出土遺物も多くを語る。青磁・白磁・染付、瀬戸や美濃の陶磁器、朝鮮製陶器(船徳利の底部)、香炉、火桶、坩堝などが含まれる。瓦の出土はわずかで、棟の化粧に用いた程度と見られている。守護、そして豊臣政権下の重臣が暮らした館にふさわしく、出土品は単なる軍事拠点ではない、相応に洗練された生活の様子をうかがわせる。
文化庁は平成9年(1997)に後瀬山城跡を国の史跡に指定し、平成28年(2016)には指定範囲を追加した。保護される区域は36万平方メートルを超える。指定の理由は明快である。日本海沿岸で京にもっとも近い小浜湊を掌握する位置にあり、守護武田氏が築き、のちに豊臣政権の枢要な大名が配された。城の規模はそうした城主にふさわしく壮大で、しかも遺構の残りがきわめて良好だった。
登って確かめたい見どころ
山頂には、通称「御殿」と呼ばれる主郭がある。周囲には自然石を加工せず積んだ野面積の石垣がめぐり、西側にはL字形の石塁が付く。これは丹羽長秀の時代に築かれたものと推定されている。主郭からは北北東と北西の二方向に尾根が延び、それぞれに曲輪が段々と連なる。二つの尾根に挟まれた谷の下方の平地には、居館が設けられていた。
ひと足のばして見ておきたいのが、西斜面の竪堀群である。斜面を縦に刻む堀が20本近く平行して並び、いわゆる「畝形竪堀」の典型をなしている。横ではなく縦に掘ることで、敵が斜面を横移動して兵をまとめるのを妨げる仕掛けだ。尾根の上から見下ろすと、平行する溝が森の地面に刻まれた畝のように連なって見える。
頂上での楽しみは眺望にある。主郭付近の開けた場所からは小浜湾が一望でき、晴れた日にはこの城が守ろうとした港が足下に広がる。引き返す前にここで足を止めると、城全体の理屈が腑に落ちてくる。
アクセスと周辺の見どころ
登城口は愛宕神社にある。JR小浜駅から約0.8キロメートル、徒歩で10分ほどの距離だ。石の鳥居をくぐって登りはじめ、主郭までは約40分。この愛宕神社は旧主郭の地に祀られているため、城跡をたどることと参拝とが同じ道のりになる。鳥居のそばには駐車スペースがあり、登り口にはパンフレットの箱が置かれている。地図は小浜市の観光サイトから事前に入手することもできる。道は急で雨後は滑りやすいので、歩きやすい靴で臨みたい。
山麓の鬼門にあたる位置には、大永元年(1521)に元光が創建した曹洞宗の発心寺がある。元光の墓塔(宝篋印塔)や坐像、肖像画を伝え、寒中の托鉢修行で知られる修行道場として今も続いている。海寄りには、八百比丘尼の伝説で知られる空印寺、そして川沿いに曲線を描く石垣が残る小浜城跡もある。後瀬山そのものは、城よりずっと古い文学的な名でも知られる。大伴家持は『万葉集』のなかで、「のちに逢う」の意を「後瀬」に掛けて、この山の名を歌に詠み込んでいる。
Q&A
- 城の建物の中に入れますか。
- 城の建物は残っていません。石垣、段状の曲輪、竪堀、発掘で検出された建物の礎石といった遺構が見どころです。山頂の旧主郭には、現在、愛宕神社が祀られています。
- 登りはどのくらいかかり、きついですか。
- 愛宕神社の鳥居から主郭まで約40分です。登り口付近は石段、その先は岩がちの急坂で、雨後は滑りやすくなります。歩きやすい靴やトレッキングシューズをおすすめします。
- いつ、誰が築いた城ですか。
- 大永2年(1522)、若狭守護の武田元光が築きました。一族の内紛と隣国朝倉氏の脅威のなかで、従来の平地の館より強固な要害が必要とされたためです。
- 重要な城がなぜ廃されたのですか。
- 慶長5年(1600)に若狭の領主となった京極高次が、海沿いの平地に新しい小浜城を築きました。政務に適し往来も容易な新城が使われるようになり、山上の城は役目を終えました。
- 入場料や見学できる時間はありますか。
- 開かれた山地で入場料はなく、開門時間も定められていないため、日中の見学が安心です。パンフレットは登り口や小浜市の観光案内で入手できますが、山中に係員のいる施設はありません。
基本情報
| 名称 | 後瀬山城跡(のちせやまじょうあと) |
|---|---|
| 所在地 | 福井県小浜市伏原ほか |
| 指定区分 | 国指定史跡 |
| 指定年月日 | 平成9年(1997)5月23日指定/平成28年(2016)10月3日に指定範囲を追加 |
| 指定基準 | 二 都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡 |
| 指定面積 | 約362,590平方メートル |
| 築城 | 大永2年(1522)、若狭守護・武田元光による |
| 廃城 | 慶長5年(1600)ごろ、京極高次の小浜城築城にともなう |
| アクセス | JR小浜駅から登城口の愛宕神社まで約0.8キロメートル(徒歩約10分)、主郭まで徒歩約40分 |
| 料金 | 無料(開かれた山地で開門時間の定めなし) |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)「後瀬山城跡」
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/1074
- 文化遺産オンライン(文化庁)「後瀬山城跡」
- https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/171995
- 小浜市公式ホームページ「後瀬山城跡」
- https://www1.city.obama.fukui.jp/kanko-bunka/jisha-shiseki/75.html
- 若狭おばま観光サイト「まるっとおばま」
- https://wakasa-obama.jp/obamanavi/nochise-mountain-castle/
最終更新日: 2026.05.29