銅板法華経を納めた金銅の筥、銅筥

総高およそ22.5センチメートルの金銅製の箱が、福岡県豊前市の求菩提山に約四世紀ものあいだ埋もれていた。この銅筥(どうばこ)は、銅板に刻んだ法華経三十三枚を収めるために造られた容器である。箱も中身の経典も、平安時代末期の康治元年(1142年)に求菩提山の僧たちの手で完成し、山中の洞窟に封じられた。

銅筥と銅板法華経は、現在ひとそろいで国宝「銅板法華経・銅筥」として登録されている。所有者は求菩提山の国玉神社で、実物は九州国立博物館に寄託されている。

国宝に指定された理由

この時代に残る経典の多くは紙に墨書されたものだが、経文をまるごと金属に刻むのは手間のかかる稀な行為であった。さらに、刻まれた経典本体と、それを守るために造られた容器とが揃って残る例はきわめて少ない。銅板は一枚あたり縦約21.2センチメートル、横約18.2センチメートルで、その両面に法華経八巻が刻まれ、梵字の般若心経が添えられている。最後の一枚の奥書には、康治元年九月二十四日に書写を終えた旨が記される。銅筥のほうにも銘があり、同じ年の十月二十一日に求菩提山で供養を行ったことが刻まれている。

事業を取りまとめたのは、求菩提山の修験を中興したと伝わる僧・頼厳(らいげん)である。銘文には頼厳を大勧進とし、銅板を刻んだ執筆の僧や鋳物師の義元など十数名の協力者の名が連なる。指定の経緯にも評価の積み重ねが見て取れる。明治三十九年(1906年)に重要文化財となり、昭和二十八年(1953年)十一月十四日に国宝へと格上げされた。区分は考古資料である。

研究者が注目する理由はもう一つある。筥の四面に線刻された仏たちの像は、この時代に金属上へ描かれた絵画的図像として数少なく、康治元年という確かな年代と出土地をもつ平安絵画の貴重な資料となっている。

四面に刻まれた仏たち

箱を一周すると、四つの面にそれぞれ異なる図像が細い線刻で現れる。一面には阿弥陀三尊、すなわち阿弥陀如来と脇侍の二菩薩が表され、西方の浄土への往生を願う浄土教の信仰に結びつく主題である。別の面には釈迦如来と多宝如来が並んで坐す。法華経のなかで宝塔が地から湧き出し、二仏が一つの座を分かち合う場面に由来する。残る面には、炎を背負う守護尊の不動明王と、仏法を守る武装の毘沙門天が刻まれている。

この図像の選択は装飾ではない。背景には末法思想がある。仏の教えがやがて衰え、ついには失われる時代に入ったとする当時広く共有された考え方である。経文を金属に刻んで地中に封じることは、その喪失に備え、教えを傷つけずに遠い未来へ届けようとする行為であった。埋経そのものと並んで阿弥陀三尊が表されている点は、浄土教の発想が、永続を目的とした品の上に具体的な形をとって現れた例として注目される。

筥は求菩提山の胎蔵窟(普賢窟)と呼ばれる洞窟の岩の裂け目に封じられた。母の胎内に見立てた洞窟を選んだ背景には、いつの日か経典が新たな世へ生み出されることを願う心があったと考えられている。銅板と筥が再び姿を現したのは十六世紀の大永年間で、大永七年(1527年)とする記録もある。完全な形で残っていたため、全国の経塚遺物のなかでも稀有な発見とされる。

求菩提山とその周辺

筥を生んだ山そのものも訪ねる価値がある。求菩提山は大分県との県境に近い標高782メートルの山で、九州における修験道の一大道場に数えられる。山の縁起によれば六世紀に開かれ、養老四年(720年)に護国寺が建立されたと伝わるが、考古資料から確かめられるのは平安時代後期の頼厳による中興以降である。最盛期には五百もの坊が山内に営まれたという。

明治元年(1868年)の神仏分離によって護国寺は廃され、その地は国玉神社として歩み出した。神社は山頂に上宮、麓寄りに中宮を置く。上宮への参道は、自然石を積み上げた急な石段「鬼の石段」を登る。修験者が籠もった洞窟は今も山中に点在し、なかには図像を彫り込んだものもある。

品そのものを目当てにするなら、二か所が手がかりになる。大宰府の九州国立博物館が実物の筥と銅板を所蔵し、年によっては数か月ほど公開する。発見地に近い山麓の求菩提資料館では、精巧なレプリカとともに、山の経塚から出土した本物の経筒(こちらも重要文化財)、神仏像、山伏が用いた生活の道具などが展示されている。

Q&A

Q本物の銅筥を見ることはできますか。
A実物は大宰府の九州国立博物館に寄託され、公開は限られています。年によって数か月ほどの展示にとどまることが多く、金属製の考古資料は公開日数に制限があるため、訪問前に博物館の展示予定を確認してください。発見地に近い求菩提資料館では、精巧なレプリカを通年で見ることができます。
Q銅筥と銅板法華経はどう違うのですか。
A一つの国宝の二つの部分です。銅板法華経は経典そのもので、両面に法華経と般若心経を刻んだ銅板三十三枚から成ります。銅筥はその銅板を納めるために造られた金銅製の箱で、四面に仏の図像が線刻されています。
Qなぜ経典を銅板に刻んで埋めたのですか。
A平安時代末期に広く共有された末法の考え方が背景にあります。仏の教えがやがて失われる時代に入ったとの危機感から、経文を金属に刻んで地中に封じ、遠い未来へ守り伝えようとしました。各地に残る経塚は、この営みが生んだものです。
Q求菩提山や求菩提資料館へはどう行きますか。
AJR宇島駅から「求菩提資料館前」行きの豊前市バスでおよそ40分、バス停から徒歩約5分です。山道や神社は資料館より奥にあるため、自由に動きたい場合は自動車が便利です。
Q山頂の上宮までの道は険しいですか。
A最後の登りは自然石を積んだ凹凸の多い「鬼の石段」を進むため、歩きやすい靴が欠かせません。上宮までは散策というより本格的な山歩きで、古い修験の洞窟へ向かう道はさらに注意を要します。

基本情報

名称銅筥(国宝「銅板法華経・銅筥」のうち)
員数1合(対をなす銅板法華経は33枚)
種別考古資料
時代・年代平安時代後期・康治元年(1142年)
寸法筥の総高 約22.5センチメートル/銅板 一枚あたり 約21.2×18.2センチメートル
指定重要文化財 明治39年(1906年)4月14日/国宝 昭和28年(1953年)11月14日
所有者国玉神社(福岡県豊前市大字求菩提)
所在九州国立博物館に寄託(公開は限定的)/求菩提資料館にレプリカ展示

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)「銅筥」
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/848
文化遺産オンライン(国立情報学研究所)「求菩提山」
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/192542
豊前市「求菩提山と修験道」
https://www.city.buzen.lg.jp/kanko/miru/bunkazai/04.html
福岡県の文化財データベース「銅板法華経・銅筥」
https://www.fukuoka-bunkazai.jp/frmDetail.aspx?db=1&id=43

最終更新日: 2026.06.13