楽市楽座制札 ― 信長の経済革命を伝える、円徳寺の四枚の木札

岐阜市中心部の静かな寺の境内に、450年以上の戦火と歳月を生き抜いた四枚の木札が伝えられています。附指定の一枚を加えた計五点の制札は、近世日本の幕開けを告げた経済政策、いわゆる「楽市楽座」を世に知らしめた、まぎれもない一次史料です。円徳寺に伝来するこの「楽市楽座制札」は、織田信長およびその後継者たちが、岐阜の城下町加納の入り口に実際に掲げた、檜と松の板に墨書された公示文書なのです。

これらは後世の写しでも、編纂史料でもありません。当時、人々の往来する市場の入り口に杭で立てられ、笠屋根の下で雨風に晒され、字の読めない者にも音読されながら経済の自由化を宣言した、その「現物」が今も残されているのです。中世日本がいかにして商業社会へと変貌していったか――その歴史の核心に触れることのできる、世界的にも稀有な文化遺産といえるでしょう。

楽市楽座制札とは何か

「楽市楽座」とは、中世以来の座(同業者組合)による商工業の独占を打ち破り、市場における自由な売買と新規参入を保証した経済政策のことです。座は寺社や貴族と結びついて特権を握り、新参者の商売を排除していましたが、楽市楽座令はこれを禁じ、誰もが城下町の市場で商売できるようにしました。同時に、関銭・営業税などの諸税が免除され、商人や職人にとって極めて魅力的な条件が整えられたのです。

円徳寺に伝わる四枚の主要な制札は、約17年間にわたって発給された一連の文書群です。

  • 第一札(永禄十年・1567年10月):織田信長が稲葉山城攻略の直後、加納の楽市場に対して発給。檜の一枚板を用いた札で、製作時に生じた割れを継いだ跡や、屋外掲示の際の杭跡・釘穴・笠屋根の痕跡を今も残しています。
  • 第二札(永禄十一年・1568年9月):信長が足利義昭を奉じて上洛する直前に発給。「さかり銭」と呼ばれる営業税の免除条項が新たに加えられています。
  • 第三札(天正十一年・1583年6月):賤ヶ岳合戦の後、織田信孝に代わって岐阜城主となった池田元助が発給。柾目の姫小松を用材としています。
  • 第四札(天正十二年・1584年7月):長久手の戦いで父・池田恒興が討死した後、家督を継いだ池田輝政が新たに発した札です。

加えて、永禄十年(1567年)9月に信長が発した「百姓帰住制札」――戦乱で荒れた北加納の地への農民帰還を呼びかけたもの――が附(つけたり)として一括指定されています。

歴史的背景 ― 戦国の岐阜と信長の城下町構想

1567年(永禄十年)、織田信長は斎藤氏の本拠であった稲葉山城を攻略し、城と城下の地名を「岐阜」と改めました。中国・周王朝の興った岐山にちなむ命名であり、同時期に「天下布武」の印を用い始めたことからも、信長がここで日本統一の本格的な始動を意識していたことが窺えます。

しかし、長年の戦乱で加納の地は荒廃しており、城下を経済的に再興しなければ天下統一の拠点とはなりえません。商人・職人・農民を呼び戻し、安んじて商売・耕作に従事させること――それが信長の優先課題でした。重税ではなく自由化によって町を蘇らせるという発想は、当時としては極めて革新的なものでした。

こうして第一札が1567年10月、円徳寺(当時は浄泉坊)の門前に掲げられ、加納の楽市場における旧来の特権が改めて保証されました。翌1568年9月、上洛軍を率いる直前に発給された第二札では、さらに営業税の免除が追加されています。岐阜を訪れたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、この時期の岐阜の活気を「バビロンのよう」と書き残しています。信長の自由経済政策は、確かに城下を一大商業都市へと変えていったのです。

なぜ重要文化財に指定されたのか

1993年(平成5年)6月10日、文化庁はこの四枚の制札(附の百姓帰住制札を含む)を、古文書部門の重要文化財として指定しました。指定の根拠は、おもに三つの卓越した価値にあります。

1. 原物が現存する一次史料であること

戦国期の公文書の多くは、後世の写本として伝わるか、断簡として残るに過ぎません。しかし円徳寺の制札は、実際に市場の入り口に立てられていた「現物そのもの」です。屋外掲示によって生じた木痩せ、杭跡、釘穴、笠屋根の痕跡――これらすべてが、文書を立体的・物質的な歴史資料として価値づけています。

2. 楽市令の変遷を一望できる稀有な資料群であること

四枚を並べて比較することで、信長期から池田期にかけて、楽市令の条文がどのように変化したかを追うことができます。信長の制札に見られた「アジール(避難所)的な性格」――市場に入った者は外部の借銭・借米を免除され、奴隷的身分から解放されるという条項――は、池田氏の制札では削られています。これを「戦国大名権力による楽市の管理化」と読むか、「発給主体や受給主体の事情の変化」と読むかは学説が分かれますが、いずれにせよ、城下町形成における楽市令の実態を考えるうえで不可欠の史料であることに変わりはありません。

3. 工芸技術の高さと作者銘の存在

各札は、檜または姫小松の柾目材を用い、槍鉋と鑿で上辺を山形に整え、表面を砥の粉で滑らかに仕上げてから墨書されています。さらに、信長発給の二枚の下辺木口には、製作者と見られる「弥四良(やしろう)」の陰刻銘が確認できます。戦国期の名もなき職人の名前が、こうしたかたちで残ること自体が極めて珍しく、歴史資料としての厚みを一層深めています。

見どころ

札そのものの存在感

各札は縦37〜40センチ、横32〜36センチ、厚さ約1センチ強。小ぶりな額ほどの大きさですが、檜の温もりや姫小松の艶やかさ、墨書の力強さが、戦国の現場の緊迫感をそのまま伝えてきます。永禄十年札に見られる、製作時の割れを丹念に継いだ跡からは、当時の職人の真摯な仕事ぶりが伝わってきます。

墨書の筆致

各制札の本文は、行政文書として読みやすく書かれながらも、力強い墨の流れに、政策を即時に実行させようとする発給者の意思が宿っています。専門的な法律用語が用いられているものの、字面そのものが歴史の臨場感を発しているのです。

「弥四良」の陰刻銘

信長制札二枚の下辺木口に小さく刻まれた「弥四良」の文字。これは札を製作した職人の名と推定されており、戦国の世にあって、名を残すことの稀な工人の存在を今に伝える貴重な手がかりです。

円徳寺そのものの歴史

境内には、1547年の加納口の戦いで戦死した5000余名を弔うために築かれた「織田塚」(岐阜市指定文化財)が残ります。また、1564年に信長が寄進したと伝わる梵鐘、銀箔押烏帽子形兜、本願寺顕如消息といった寺宝も伝来。さらに、1600年の岐阜城の戦いで敗れた信長の孫・織田秀信(三法師)が剃髪したのもこの寺であり、織田一族との縁がいかに深いかを物語っています。

拝観・アクセス情報

円徳寺は岐阜市中心部に位置し、主要な鉄道駅から徒歩圏内にあります。ただし、楽市楽座制札はその文化財的価値の高さと脆弱性から、保管庫で厳重に管理されており、常時公開はされておりません。岐阜市歴史博物館などで特別展が企画される際に展示されることがありますので、訪問前に最新情報をご確認ください。境内、織田塚、説明板などは日中自由に拝観できます。

交通アクセス

名鉄岐阜駅(名古屋本線の終点、名古屋から約30分)から神田町通りを北に徒歩約5分。JR岐阜駅からは徒歩約11分です。東海道新幹線の岐阜羽島駅からも電車で容易にアクセスでき、名古屋・京都・大阪方面からの旅程に組み込みやすい立地です。

おすすめの時期

境内は通年で参拝可能ですが、特におすすめなのは毎年10月第一土・日曜に開催されるぎふ信長まつりの時期です。武者行列や時代装束のパレードが市内を練り歩き、円徳寺でも関連行事が催されます。信長の街・岐阜の魅力を体感できる絶好の機会といえるでしょう。

周辺の見どころ

岐阜城と金華山

円徳寺から北へバスで約15分、金華山の頂上には、信長が1567年に「岐阜城」と命名したかつての稲葉山城がそびえます。ロープウェーで山頂へ上ると、長良川と濃尾平野を一望する絶景が広がり、復元天守の展示では織田家ゆかりの品々を見ることができます。楽市楽座制札と合わせて訪れることで、信長の城下経営の全体像をより深く理解できるはずです。

川原町の古い町並み

長良川南岸の川原町地区には、信長の楽市楽座政策のもとで栄えた川湊の町並みが今も残っています。格子戸の町家や土蔵が連なる景観は、国の重要文化的景観に選定されています。古民家を改装したカフェや工芸店も多く、散策と買い物を同時に楽しめる人気スポットです。

長良川の鵜飼

5月から10月にかけて、長良川では1300年以上の歴史をもつ鵜飼漁が行われます。かつて信長自身も、岐阜を訪れた賓客にこの鵜飼を見物させ、もてなしたと伝えられています。夜の川面に篝火が映え、装束の鵜匠が手縄をさばく光景は幻想的そのものです。

崇福寺

円徳寺から近い崇福寺には、織田信長・信忠父子の供養塔が安置されています。また、1600年の岐阜城の戦いで自刃した家臣たちの血痕が今も残るとされる「血天井」もあり、戦国の悲史を肌で感じることのできる名刹です。

Q&A

Q円徳寺で楽市楽座制札の実物を見ることはできますか?
A制札は重要文化財であり、450年以上を経た脆弱な木製文書のため、通常は厳重な環境下で保管されており、常設展示はされていません。岐阜市歴史博物館などで特別展が開かれる際に展示されることがあります。境内・織田塚・案内板は日中自由に拝観いただけます。
Q楽市楽座とは、具体的にどのような政策だったのですか?
A中世以来の「座」(同業者組合)の独占を廃し、誰もが城下町の市場で自由に商売できるようにした政策です。さらに、関銭や営業税などの諸税も免除されました。これによって商業活動が活発化し、信長の経済力を支える大きな基盤となったのです。
Q楽市楽座は信長が発明した制度なのですか?
A楽市そのものは、近江の六角氏など他の戦国大名のもとでも限定的に実施されていました。信長の特異性は、これを岐阜(1567年)を皮切りに、領国全体に広く・体系的に適用した点にあります。岐阜の制札は、その出発点を示す象徴的な史料といえるでしょう。
Qなぜ城や役所ではなく、お寺に保管されてきたのですか?
A楽市場は円徳寺(当時の浄泉坊)の門前に開かれていたため、制札も寺の門前に掲げられていました。役目を終えて取り外された後、寺がこれを大切に保管し続け、戦乱や災害を経ても今日まで伝えてきたのです。日本の中世文書の多くが寺院によって守られてきた典型例といえます。
Q四枚の制札では、内容にどのような違いがあるのですか?
Aいずれも三箇条構成ですが、信長の制札では市場に入った者の借銭・借米免除、奴隷的身分からの解放など「アジール(避難所)」的な条項が盛り込まれていました。一方、池田氏の制札ではこれらが削除されており、楽市の性格が変化していった様子がうかがえます。この変遷をどう解釈するかは、戦国史研究における重要な論点となっています。

基本情報

正式名称 楽市楽座制札 附 織田信長百姓帰住制札
文化財区分 国指定重要文化財(古文書)
指定年月日 平成5年(1993年)6月10日
員数 4枚(附 1枚)
時代 室町時代〜安土桃山時代(1567〜1584年)
発給者 織田信長(第1・第2札)、池田元助(第3札)、池田輝政(第4札)
材質 柾目檜(第1・第2札)、柾目姫小松(第3・第4札)、墨書
寸法 各札 縦約37〜40cm、横約32〜36cm、厚さ約1.0〜1.4cm
所有者 円徳寺
所在地 岐阜県岐阜市神田町6-24 円徳寺
アクセス 名鉄岐阜駅から徒歩約5分/JR岐阜駅から徒歩約11分
境内拝観 概ね9:00〜17:00(制札本体は常設公開されておりません)

参考文献

文化遺産オンライン(文化庁) ― 楽市楽座制札
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/158651
岐阜県公式ホームページ(文化伝承課) ― 楽市楽座制札 附織田信長百姓帰住制札
https://www.pref.gifu.lg.jp/page/355032.html
日本遺産ポータルサイト ― 楽市楽座制札附織田信長 百姓帰住制札5点
https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/culturalproperties/result/749/
岐阜観光コンベンション協会 ― 円徳寺
https://www.gifucvb.or.jp/sightseeing/detail_kankou.php?eid=00017
Wikipedia ― 円徳寺(岐阜市)
https://ja.wikipedia.org/wiki/円徳寺_(岐阜市)
Wikipedia ― 織田信長
https://ja.wikipedia.org/wiki/織田信長

最終更新日: 2026.05.15