関ヶ原古戦場 ― 天下分け目の地を歩く

慶長5年(1600)9月15日の早朝、霧深い岐阜県西部の小さな盆地に15万を超える将兵が集結し、わずか半日のうちに日本の運命を決める合戦が繰り広げられました。徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が激突した「関ヶ原の戦い」です。その舞台となった土地は、今も国指定史跡「関ヶ原古戦場」として大切に守り継がれています。

「関ヶ原古戦場 附 徳川家康最初陣地・徳川家康最後陣地・石田三成陣地・岡山烽火場・大谷吉隆墓・東首塚・西首塚」は、関ヶ原町内に点在する9か所をひとつの史跡として指定したもので、開戦地と決戦地に加えて、両軍の主要な陣跡、烽火を上げた場所、西軍の名将・大谷吉隆(吉継)の墓所、そして戦後に戦死者を埋葬した東西の首塚から成ります。徒歩や自転車でこれら全てを一日で巡ることができ、合戦の流れをそのまま体感できる稀有な史跡です。

合戦への道のり ― なぜ関ヶ原で戦われたのか

慶長3年(1598)に豊臣秀吉が没すると、幼い秀頼を補佐するために置かれた五大老・五奉行の体制は、まもなく揺らぎ始めます。最大勢力の徳川家康が独自の動きを強めるなか、豊臣家への忠義を重んじた石田三成がこれに対抗し、慶長5年の夏には天下が東西二つに割れる事態となりました。

両軍が向かい合ったのは、中山道と北国街道が交わる関ヶ原。山々に挟まれた狭い回廊を東西の交通が必ず通る要衝であり、決戦の舞台としてはこれ以上ない地形でした。慶長5年9月15日の朝、深い霧の立ち込めるこの平野で、徳川家康率いる約7万5千の東軍と、石田三成率いる約8万5千の西軍が対峙したのです。

戦端が開かれたのは午前8時頃、東軍の井伊直政隊が西軍の島津隊に攻めかかったことがきっかけと伝えられます。開戦から約2時間、戦局はむしろ西軍有利に進みました。流れを変えたのは、かねて去就が注目されていた小早川秀秋の寝返りでした。松尾山から駆け下りた秀秋勢が同陣の大谷隊に襲いかかったことで西軍は崩れ、午後2時頃には決着がつきます。家康はこの勝利を足がかりに、その後260年余に及ぶ江戸幕府を開くこととなりました。

国指定史跡となった理由

関ヶ原古戦場は、昭和6年(1931)3月30日、文部省告示第115号により国の史跡に指定されました。指定の理由は、関ヶ原の戦いが日本史上の大きな転換点をなす合戦であったこと、そしてその戦いの地形・両将の陣所・戦死者の埋葬地など、歴史を物語る遺構が現地に残されていることにあります。

指定地は9か所、合計面積約245,889平方メートルに及びます。前近代の合戦地でこれだけ多くの関連地点が史跡として一体的に残されている例は全国でも稀少です。指定告示の本文は文語体で記され、各地点を「関ヶ原駅から西へ約二十町」のように駅からの距離で示しており、当時すでに鉄道が史跡参詣の拠点となっていたことを伝えています。

管理団体には、指定の翌月にあたる昭和6年4月21日付で関ヶ原町が指定されました。同町は約1世紀にわたり史跡を守り続けており、平成27年(2015)に岐阜県が策定した「関ケ原古戦場グランドデザイン」のもと、整備と活用がさらに進められています。

9か所の指定地を巡る ― 合戦の流れに沿って

徳川家康最初陣地(桃配山)

関ヶ原駅の東約1.5キロにある桃配山は、家康が合戦当日の早朝から午前10時頃まで指揮を執った最初の陣所です。芝と杉檜の若木に覆われた小高い丘で、西方の戦場を見渡せる位置にあります。

徳川家康最後陣地(陣場野)

戦況が思いのほか西軍有利と見るや、家康は本陣をより前線に近い陣場野へと進めました。関ヶ原駅の西北約650メートル、北国街道沿いに位置するこの最後陣地には、天保12年(1841)に幕命により領主竹中氏が築いた土塁と土壇が今も残されています。

石田三成陣地(笹尾山)

関ヶ原駅の西北約1.1キロ、相川山麓の小丘である笹尾山には、戦場全体を見渡せる三成の本陣が置かれました。現在は石田家の家紋入りの幟が立ち、麓には家臣・島左近の隊が布陣した場所に馬防柵が復元されています。

岡山烽火場

関ヶ原駅の北、丸山と呼ばれる小高い場所にあり、東西両軍の陣を一望できる地点です。東軍の戦闘開始を知らせる烽火(のろし)がここから上げられたと伝えられています。

大谷吉隆墓

関ヶ原駅の西約2キロ、藤古川西の山中、深い杉木立の中に苔むした五輪石塔が静かに佇みます。これが大谷吉隆(よしたか)、現在では「吉継(よしつぐ)」の名で広く知られる西軍の名将の墓です。家康とも親しい間柄でありながら、三成への友情を貫いて西軍に加わった吉継は、病のため失明し輿で陣を指揮していました。小早川勢の寝返りにより陣を破られると、家臣・湯浅五助の介錯を受けて自刃。五助は主君の首を山中に隠し、敵に渡しませんでした。墓塔は高さ約1メートル、戦後ほどなく藤堂家によって建立されたと伝えられ、敵将への敬意を今に伝えています。

東首塚

関ヶ原駅のすぐ西、跨線橋を渡って広葉樹の森に入ると、朱色の門の奥に大きなスダジイに覆われた円塚が見えてきます。これが東首塚です。合戦後、家康は床几場で首実検を行ったのち、戦死者を東西2か所に埋葬するよう領主・竹中重門に命じました。重門は供養料として千石を与えられ、敵味方を問わず手厚く葬ったと伝わります。

西首塚

関ヶ原駅の西約700メートル、国道21号の北側にある西首塚は、高さ約2メートルの塚で、上には三本の老檜が立ちます。塚の正面の御堂には、後世になって地元の人々によって奉納された千手観音と馬頭観音が安置されています。明治32年(1899)に東海道本線の勾配緩和工事が行われた際、この近くから多数の白骨や五輪塔が出土しており、当初の埋葬範囲は現在よりずっと広大であったと考えられます。

開戦地と決戦地

天満山の東麓に位置する開戦地は、東軍先鋒の福島正則隊が西軍の宇喜多秀家隊に攻めかかり、戦端が開かれた場所です。一方、笹尾山の南、現在の旧関ケ原小学校の南方にある決戦地は、午後2時頃、小早川の寝返り後に西軍が総崩れとなる中、東軍諸隊が三成の首級を狙って最大の激戦を繰り広げた場所です。両地点は史跡指定の中核をなしています。

訪問の基点と巡り方

古戦場巡りの起点はJR東海道本線の関ヶ原駅です。駅前には「関ケ原駅前観光交流館(いざ!関ケ原)」があり、無料の観光マップ、英語パンフレット、コインロッカー、レンタサイクル(普通自転車・電動アシスト付自転車)が用意されています。古戦場一帯は緩やかな起伏が続くため、電動アシスト付自転車の利用がおすすめです。

徒歩圏内には、令和2年(2020)10月に開館した「岐阜関ケ原古戦場記念館」があります。1階の床面スクリーン「グラウンド・ビジョン」では合戦の推移を俯瞰でき、シアターでは風や振動を伴う映像演出によって戦場を体感できます。5階の展望室からは古戦場一帯が一望でき、ここで各陣跡の位置を確認してから史跡巡りに出ると、現地での理解が一段と深まります。

9か所すべてを自転車で巡るには、休憩を含めて3〜4時間が目安です。地元住民で構成される「せきがはら史跡ガイド」によるガイド付き散策(予約制・定時発着あり)も用意されており、町民が長年積み重ねてきた郷土史研究の成果に触れることができます。

関ヶ原町の周辺にも歴史が息づく

関ヶ原は合戦の地であるだけでなく、古代の壬申の乱(672年)の舞台でもあり、江戸時代には中山道の宿場として栄えた交通の要衝でもありました。岐阜関ケ原古戦場記念館に隣接する「関ケ原町歴史民俗学習館」では、こうした関ヶ原の多層的な歴史を実物資料で紹介しています。

少し足を伸ばせば、合戦前夜に三成が本拠とした大垣城、中山道の宿場町である垂井、養老の滝で知られる養老町などが訪ねられます。北方には伊吹山がそびえ、薬草園やハイキングコースが整備されています。岐阜羽島駅(東海道新幹線)からは名神高速で関ヶICまで車で約30分という立地もあり、京阪神・名古屋圏のいずれからも日帰り訪問が可能です。

Q&A

Q関ヶ原古戦場は一か所の史跡なのですか?
A関ヶ原町内に点在する9か所をひとつの国指定史跡としたもので、開戦地・決戦地、両将の陣跡、烽火場、大谷吉隆墓、東西の首塚から成ります。多くの来訪者は関ヶ原駅を起点に、自転車で3〜4時間ほどかけて巡ります。
Qいつ、どのような理由で史跡に指定されたのですか?
A昭和6年(1931)3月30日、文部省告示第115号により指定されました。関ヶ原の戦いが戦国時代に終止符を打ち、江戸幕府成立への道を開いた合戦であること、そして両軍の陣所や戦死者の埋葬地など歴史的遺構が現地に残されていることが評価されています。
Q主要都市からのアクセスを教えてください。
AJR東海道本線の関ヶ原駅が最寄りです。名古屋からは約40分、京都・大阪方面からは米原または大垣で乗り継ぎとなります。お車の場合は名神高速関ケ原ICから駅まで約5分です。
Q英語の案内はありますか?
A関ケ原駅前観光交流館や岐阜関ケ原古戦場記念館で、英語のパンフレットを無料で入手できます。事前予約により英語対応可能なボランティアガイドが手配できる場合がありますので、記念館にお問い合わせください。
Q史跡の見学に料金はかかりますか?
A9か所の指定地はいずれも屋外の史跡で、無料で随時見学できます。料金は岐阜関ケ原古戦場記念館の館内展示・シアターのみに発生します。なお、首塚と大谷吉隆墓は供養の場でもありますので、敬意をもってお参りください。

基本情報

名称 関ヶ原古戦場 附 徳川家康最初陣地・徳川家康最後陣地・石田三成陣地・岡山烽火場・大谷吉隆墓・東首塚・西首塚
指定区分 国指定史跡(文部省告示第115号)
指定年月日 昭和6年(1931)3月30日
指定面積 9か所合計 約245,889平方メートル
所在地 岐阜県不破郡関ヶ原町
管理団体 関ヶ原町(昭和6年4月21日指定)
合戦の日 慶長5年(1600)9月15日
参戦兵力 東軍(徳川家康)約7万5千、西軍(石田三成)約8万5千
アクセス JR東海道本線関ヶ原駅下車すぐ。お車の場合は名神高速道路関ケ原ICから約5分。
関連施設 関ケ原駅前観光交流館(レンタサイクル・コインロッカー・観光案内)、岐阜関ケ原古戦場記念館(令和2年開館)

参考文献

文化遺産オンライン(文化庁・国立情報学研究所):関ヶ原古戦場
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/172115
国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/1260
岐阜県公式ホームページ(文化伝承課):関ヶ原古戦場
https://www.pref.gifu.lg.jp/page/366371.html
岐阜関ケ原古戦場記念館(公式サイト)
https://sekigahara.pref.gifu.lg.jp/
関ケ原観光ガイド
https://www.sekigahara1600.com/

最終更新日: 2026.04.29