久井稲生神社の御当 — 中世「宮座」の面影を今に伝える秋の例祭
広島県の南東部、田畑が広がる三原市久井町の高台に鎮座する久井稲生神社(くいいなりじんじゃ)。ここでは毎年秋、「御当(おとう)」と呼ばれる行事が執り行われます。慶長3年(1598年)の古文書『稲荷御当之覚(いなりおとうのおぼえ)』に記された次第とほぼ違わぬ形で続けられてきたこの行事は、東西あわせて96名の御当主が二つの座に分かれて連なり、新穀から醸した甘酒を酌み交わし、巨大な大鯛を「鶴の羽替えおとし」「亀の入首」と呼ぶ独特の包丁さばきで仕立てる、たいへん古式ゆかしい民俗行事です。日本各地でほとんど失われた中世の宮座の姿を今に伝える、希少な秋祭りをご紹介します。
「御当」とはどのような行事か
御当は、毎年10月19日に近い日曜日に行われる久井稲生神社の秋の例祭において、その中心をなす神事です。「御当」という言葉は、行事そのものを指すと同時に、これを担う氏子たちの組織をも意味します。御当主は東座(ひがしざ)と西座(にしざ)の二座に分かれ、それぞれ48名で構成されており、毎年そのうちの2名が当番主として実際の祭事を取り仕切ります。
このような氏子組織は、中世の村社会で発達した「宮座(みやざ)」と呼ばれる祭祀組織の流れをくむものです。多くの宮座が時代の流れとともに姿を消していったなかで、久井の地ではその仕組みがほぼ完全な形で残されており、これこそが御当が国の文化財として選択された最大の理由でもあります。
なぜ無形民俗文化財として選択されたのか
久井稲生神社の御当は、昭和56年(1981年)12月24日に国の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選択されました。これは、人々の生活の推移を理解するうえで欠かすことのできない貴重な民俗文化財に与えられる位置づけです。
選択の決め手となったのは、古式をそのままに伝えている点でした。慶長3年の『稲荷御当之覚』には、座席の配置、献饌の手順、当番主の役割、大鯛の仕立てに至るまでが詳細に記されており、その記述と現在の御当との隔たりはほとんどありません。文字史料と現在の所作とがこれほど近接して見比べられる民俗行事は、全国を見渡してもごくわずかであり、御当はいわば中世の村祭りを今日に映し出す「生きた史料」と称してよいものです。
当日の見どころ
御当の祭事は午後の数時間のうちに次々と進行します。一見地味に映るかもしれませんが、その所作の一つひとつには深い意味と長い歴史が刻まれています。
当番主と御当田の新穀
祭りの2か月前、「触れ頭(ふれがしら)」と呼ばれる役の者が、その年の当番主となる2名の家を訪ね、当番である旨を伝えます。当番主に選ばれた家では、神社の所有する御当田(おとうでん)で収穫された新穀をもとに、神饌として供える甘酒を醸造します。新米のみずみずしさが、そのまま神への供物となるのです。
神楽殿で営まれる「見子の当」
午前の祭典に続いて、まず神楽殿において「見子の当(みこのとう)」が営まれます。これは社家・社人の座で、18席が設けられ、皿2枚と箸を置いた膳が配られたのち、給仕役から赤飯がふるまわれ、神主の挨拶へと続きます。
東座 — 莚を長方形に敷き、大鯛を姿造りに
東座は、もともと領家分の座とされ、莚(むしろ)40枚を長方形に敷き詰めた上に48席が設けられます。御当主は所定の席に着き、当番主2名が供人を従えて、清酒2升とまな板にのせた大鯛2尾などを神前に献じます。鯛は据え方の手で目線の高さに掲げられながら包丁方のもとへ運ばれ、包丁方は包丁と金箸のみを用い、決して手を触れずに鯛をさばきます。仕立て上がるのは、鶴と亀という長寿を象徴する瑞獣にちなんだ「亀の入首」「鶴の羽替えおとし」と呼ばれる優美な造形です。続いて清酒が注がれ、大根なますや鯛のさしみが配られて会食となります。
西座 — 莚を三角形に敷き、大鯛をさしみに
西座は、もともと地頭分の座であり、莚40枚を三角形に敷き並べたうえに48席が設けられます。進行は東座と同じですが、こちらでは大鯛が姿造りではなく刺身に仕立てられ、ゆずを搾り、塩、大根なますとあわせて給仕されます。東西の二座が並び立つ姿は、中世の村が領家分と地頭分という二重の支配構造のもとに置かれていたことを、座の形そのものに今も映しているのです。
久井稲生神社について
御当が営まれる久井稲生神社は、社伝によれば天慶元年(938年)、京の伏見稲荷大明神の分霊を勧請して創建されたと伝わります。かつて伏見稲荷大社の神田がこの地にあったとされ、伏見稲荷の分霊としてはもっとも古い社の一つに数えられています。
戦国の世を治めた毛利氏や、その三男にあたる小早川隆景の崇敬も篤く、天正13年(1585年)には三原城主であった小早川隆景が「紙本墨書大般若波羅蜜多経六百巻」を奉納しました。この経典は現在、広島県の重要文化財に指定され、神社に大切に伝えられています。
御当のほかにも、久井稲生神社では2月の勇壮な「はだか祭」や、7月の「祇園祭」(広島県無形民俗文化財)が知られ、地域の信仰の中心として一年を通じて人々の祈りを集めています。
参拝・見学のご案内
御当は10月19日に近い日曜日に行われ、境内からその様子を見学することができます。ただし、東座・西座の席は氏子の御当主のために定められており、参加は許されておりません。それでも、大鯛をさばく所作や、整然と並ぶ莚の上の膳の景色は、間近で目にすると忘れがたい印象を残します。
祭事の細部は年により変更されることがありますので、見学を計画される際は、事前に三原市教育委員会文化課へご確認いただくと安心です。
アクセスと周辺情報
久井稲生神社は三原市の中山間部・久井町に位置します。お車であれば山陽自動車道の三原久井ICからおよそ15分。100台ほど駐車できる無料駐車場が用意されています。公共交通機関をご利用の場合は、JR三原駅から北行きの芸備バス(甲山行き)で約30分、「久井国保病院前」バス停で下車し、徒歩約5分です。
久井町は、酪農や柿の産地としても知られ、奇岩で名高い「久井の岩海」など、豊かな自然に恵まれた高原の町です。三原市街まで足を延ばせば、小早川隆景が築いた三原城跡や、瀬戸内海に浮かぶ佐木島・生口島へのフェリー、臨済宗の古刹・佛通寺など、見どころは尽きません。
- 三原城跡(JR三原駅徒歩すぐ)
- 佛通寺(臨済宗の修行道場として知られる古刹)
- 久井の岩海(国の天然記念物に指定された奇岩群)
- 三原港から佐木島・生口島へのフェリー
Q&A
- 御当はいつ見学できますか。
- 毎年10月19日に近い日曜日、久井稲生神社の秋の例祭にあわせて行われます。詳細は事前に三原市教育委員会文化課にご確認ください。
- 海外からの観光客でも参列できますか。
- 境内からの見学は誰でも可能です。ただし、東座・西座の席は氏子の御当主のために定められた座であり、列席することはできません。それでも、大鯛をさばく所作などは離れた場所からも十分にご覧いただけます。
- 「宮座」とは何ですか。なぜ御当は珍しい例なのでしょうか。
- 宮座とは、中世に村ごとに発達した祭祀組織で、選ばれた家々が交代で神事を担う仕組みです。多くは近代以降に姿を消しましたが、久井の御当は慶長3年の古文書とほぼ同じ形で今に受け継がれており、宮座の構造を高い完成度で残す稀有な事例として知られています。
- なぜ大鯛が中心的な役割を果たすのですか。
- 日本では古来、鯛はめでたい魚として祝いの席に欠かせない存在です。御当においては、神前に献じられた大鯛を、長寿の象徴である鶴と亀にちなむ「鶴の羽替えおとし」「亀の入首」という意匠に仕立てることで、神への祈りと参列者の繁栄への願いが一つに結ばれます。
- 参拝に料金はかかりますか。
- 境内への立ち入り、参拝は無料です。御当の見学にあたっても見学料は不要ですが、神社へのお気持ちはありがたく受け止めていただけます。
基本情報
| 名称 | 久井稲生神社の御当(くいいなりじんじゃのおとう) |
|---|---|
| 指定種別 | 国 記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財 |
| 選択年月日 | 昭和56年(1981年)12月24日 |
| 保護団体 | 久井稲生神社の御当座保存会 |
| 開催日 | 毎年10月19日に近い日曜日(秋の例祭) |
| 所在地 | 〒722-1304 広島県三原市久井町江木1-1(久井稲生神社) |
| 神社創建 | 天慶元年(938年)/伏見稲荷大明神の勧請と伝わる |
| アクセス | お車:山陽自動車道 三原久井ICから約15分/公共交通:JR三原駅から芸備バス甲山行き約30分、「久井国保病院前」下車徒歩約5分 |
| 駐車場 | 約100台、無料 |
| お問い合わせ | 三原市教育委員会 文化課 文化財係(TEL:0848-64-9234) |
参考文献
- 久井稲生神社の御当|文化遺産オンライン(文化庁)
- https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/203853
- 久井稲生神社の御当|三原市公式ホームページ
- https://www.city.mihara.hiroshima.jp/soshiki/50/139885.html
- 中世の「宮座」の面影を伝える行事~久井稲生神社の御当~|文化庁広報誌「ぶんかる」
- https://www.bunka.go.jp/prmagazine/rensai/matsuri/matsuri_007.html
- 久井稲生神社|三原観光navi
- https://www.mihara-kankou.com/sightseeing/3186
- 久井稲生神社|Dive! Hiroshima(広島県観光連盟)
- https://dive-hiroshima.com/explore/1251/
- 久井稲生神社 公式サイト
- http://kui-inari.com/
最終更新日: 2026.05.06