桜ヶ丘の銅戈、武器の形をした祭りの道具
昭和39年(1964年)12月10日、神戸市灘区桜ヶ丘町の斜面で、家屋の壁土用の土砂を掘っていた人々の道具が金属に当たった。六甲山系から南へ続く山麓、標高243メートルの北東向きの斜面である。掘り出されたのは、弥生時代の青銅器がまとまって出土した例として国内屈指の一括遺物だった。14口の銅鐸とともに、7口の銅戈が同じ場所に埋められていた。本稿が扱うのはこの7口の銅戈だが、銅戈は銅鐸の影に隠れ、単独で語られることが少ない。
銅戈は、柄に対して直角に刃を取り付け、突くのではなく引っ掛けたり払ったりして用いる青銅製の武器である。原型は中国の戈にあり、朝鮮半島を経て日本列島へもたらされた。ただし桜ヶ丘の7口は、人を傷つけるために作られたものではない。考古学で「大阪湾型」と呼ばれる地域的な型式に属し、鋳造された時点ですでに、実用の武器とはかけ離れた姿になっていた。
近づいて見れば、その矛盾は明らかである。金属は薄く、刃は研がれず、全体は幅広く平たい。武器の形をしながら、祭りのために作られた青銅器なのである。
戦いの道具から祭りの道具へ
銅戈は、はじめから祭器だったわけではない。中国では実用の殺傷具であり、より鋭く、より致命的な方向へ何世紀もかけて改良された。紀元前2世紀ごろ、中国の戈とは形態の異なる戈が朝鮮半島で作られ始め、その一部が北部九州へ渡る。日本列島でも弥生時代前期末から中期初めにかけて少数の銅戈が北部九州で鋳造されたが、この系譜はいったん途絶え、中期中ごろ以降にふたたび生産が始まった。
復活した銅戈は、もはや戦うための道具ではない。製作の中心地は北部九州にあり、祭器としての銅戈はしだいに大型化していった。福岡県春日市では48本もの銅戈が一括して見つかっている。
これに対し、大阪湾を取り巻く近畿地方は独自の道を歩んだ。ここで発達した大阪湾型銅戈は、九州の銅戈とは逆に、世代を追うごとに薄く、平たく、小さくなっていく。両者を分ける特徴の一つが、刃に沿って通る浅い溝「樋(ひ)」である。大阪湾型では樋の先が開いているのに対し、九州型では閉じている。大阪湾型の樋には、鋸歯文と呼ばれる細かなぎざぎざの文様が刻まれた例も多い。分布の中心は大阪湾周辺だが、東は現在の長野県あたりまで及んでおり、弥生時代の青銅器としては異例の広がりを見せる。
なぜ国宝なのか
銅戈・銅剣・銅矛は、武器の形をした祭りの道具、すなわち「武器形祭器」として一括りにされる。桜ヶ丘の一括遺物が高く評価される理由はいくつかあり、銅戈もその価値の一端を担っている。
第一に、青銅器が一か所に集中して埋められていたことである。複数の青銅器を一地点に埋めた例は少なく、古い記録に残るものの多くはすでに散逸してしまった。桜ヶ丘の一群はまとまったまま残り、この種の青銅遺物の性格を考えるうえで貴重な基準資料となっている。第二に、14口の銅鐸とともに7口の銅戈が出土したこと自体が重要である。ベル形の銅鐸と武器形の青銅器が一つの埋納坑に共存する事例は、種類の異なる祭器が互いにどう関わっていたかを考える手がかりになる。第三に、銅鐸14口のうち4口(1号・2号・4号・5号)に絵画が描かれており、人や動物の姿は弥生時代の暮らしを知る数少ない資料となっている。
銅鐸は、鈕(ちゅう)の形態や鐸身の特徴から製作年代に明らかな幅が認められ、しかも最古段階と最新段階の様式を欠いている。このことから、一群は弥生時代中期末から後期初めごろに埋められたと推定されている。14口の銅鐸と7口の銅戈は、昭和44年(1969年)6月20日に重要文化財に指定され、昭和45年(1970年)5月25日に「桜ヶ丘銅鐸・銅戈群」として国宝に指定された。
展示室での見どころ
21点すべては神戸市立博物館が所蔵し、専用のコレクション展示室で銅鐸と銅戈が並べて展示されている。ガラスケースの前に立ったら、ふだんは大きく有名な銅鐸に注目が集まりがちな銅戈に、あえて目を向けてみたい。
刃が幅広く、木の葉のように左右へ広がっていること、そして実際に物を切れそうな部分がほとんどないことに気づくはずである。中央を走る樋を先端までたどると、刃先の近くで溝が開いている箇所を見つけられるかもしれない。これが大阪湾型の証しである。7口は同じ規格で揃えられたものではなく、幅や薄さに違いがある。型式が時間とともに変化したことの反映であり、一括りにせず、互いに見比べてみるとおもしろい。
そのうえで、隣の銅鐸へ視線を移したい。絵画が描かれた4号・5号の銅鐸は、表裏を区画に分けてその中に人や動物を配し、裾部にはシカの行列が一周している。音の出ない武器と、かつて音を響かせた銅鐸。両者を並べて見ると、これらを神戸の斜面に埋めた弥生の人々が、確かな意図のもとに何かを行っていたことが感じられる。その意味そのものは、いまも解き明かされていない。
博物館の周辺
神戸市立博物館は、港のすぐ内側に整然と並ぶ近代建築の街区、旧居留地に建つ。建物はもともと昭和10年(1935年)竣工の旧横浜正金銀行神戸支店で、現在は国の登録有形文化財に登録されている。正面に連なるギリシャ様式の長い列柱は、入館前に見ておきたい。1階の「神戸の歴史展示室」は無料で見学でき、銅戈が出土した地域の成り立ちを知る入り口になる。
周辺は、カフェやデザイン雑貨の店が点在し、三宮・元町の広い商店街もすぐ近くにあって、ゆっくり歩くのに向いている。メリケンパークの港や、北野の異人館街も、一日の残りを過ごすにはほどよい距離である。
Q&A
- 銅戈はいつでも展示されていますか。
- 神戸市立博物館の常設的なコレクションとして、コレクション展示室で公開されています。ただし、個々の作品は入れ替えや特別展への貸し出しがある場合もあります。銅戈そのものを目的に訪れる場合は、事前に博物館へ現在の展示状況を確認することをおすすめします。
- 銅戈と銅鐸はどう違うのですか。
- 銅戈は、柄に直角に刃を付けた青銅器で、もとは大陸の武器に由来します。銅鐸はベル形の青銅器です。どちらも弥生時代の祭器ですが系譜が異なり、桜ヶ丘で両者がともに埋められていたことが、この遺物が注目される理由の一つになっています。
- この銅戈は実際の戦いで使えたのですか。
- 使えません。薄く平たく、刃も研がれておらず、戦いではなく祭りのために作られています。大阪湾型が鋳造されたころには、銅戈はすでに武器の形をした祭器へと変わっていました。
- 出土した場所を訪ねることはできますか。
- 出土地は灘区桜ヶ丘町の住宅地の斜面で、見学施設として整備されてはいません。銅戈そのものは、発見の経緯や背景もあわせて紹介している神戸市立博物館で見るのがよいでしょう。
- 神戸市立博物館への行き方を教えてください。
- JR三ノ宮駅の西口から徒歩約10分、元町に近い旧居留地にあります。地下鉄の旧居留地・大丸前駅からも近い場所です。
基本情報
| 名称 | 銅戈(桜ヶ丘銅鐸・銅戈群のうち) |
|---|---|
| 区分 | 考古資料(武器形祭器・大阪湾型銅戈) |
| 員数 | 7口(銅鐸14口とあわせ、指定一群は計21点) |
| 時代 | 弥生時代(埋納は中期末から後期初めごろと推定) |
| 出土地 | 兵庫県神戸市灘区桜ヶ丘町 |
| 指定区分 | 国宝(昭和45年〔1970年〕5月25日指定/重要文化財指定は昭和44年〔1969年〕6月20日) |
| 所有者 | 神戸市 |
| 所在地 | 神戸市立博物館(兵庫県神戸市中央区京町24) |
| アクセス | JR三ノ宮駅西口から徒歩約10分 |
参考文献
- 文化庁 国指定文化財等データベース(銅戈・桜ヶ丘)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/868
- 神戸市立博物館 コレクション「桜ヶ丘銅鐸・銅戈群」
- https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365146
- 文化遺産オンライン 銅戈(大阪湾型)
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/468824
- 神戸市立博物館 利用案内
- https://www.kobecitymuseum.jp/guide/
最終更新日: 2026.06.13