信行寺書院(和倉御便殿供奉殿):和倉温泉に息づく明治の皇室建築

石川県七尾市の和倉温泉に佇む信行寺書院は、明治42年(1909年)に東宮殿下(後の大正天皇)の和倉行啓に際して建てられた御便殿(ごべんでん)のうち、随行員の控室であった供奉殿(ぐぶでん)を移築保存した建物です。2017年(平成29年)10月には国登録有形文化財(建造物)に登録され、全国的にも極めて希少な御便殿建築の遺構として注目を集めています。

御便殿とは、天皇や皇太子が地方を訪れた際に設けられる仮設の休憩施設で、通常は使用後に取り壊されるため、現存する例はきわめて少なくなっています。和倉の御便殿は本殿と供奉殿の両方が残されているという全国的にも類を見ない貴重なケースであり、温泉街の歴史と皇室の行啓が織りなす特別な物語を今に伝えています。

歴史的背景:明治42年の東宮殿下行啓

明治42年(1909年)、東宮殿下(嘉仁親王、後の大正天皇)が北陸行啓の一環として和倉温泉を訪れることが決まりました。しかし当時の和倉には、各地の行啓で通常使われるような藩主の館や大名屋敷がありませんでした。そこで地元の人々は、東宮殿下がわずか2時間ほど滞在するためだけに、立派な御便殿を新たに建設するという決断を下しました。

建設された御便殿は、東宮殿下ご自身がお過ごしになる本殿(御座所を含む)と、随行する供奉員たちの控室となる供奉殿の2棟から構成され、廊下でつながった一体の建築群として白崎山の中腹に完成しました。建物全体には高品質な木材が使われ、当時の最高水準の技術と意匠が注ぎ込まれました。

行啓に同行した東宮主事の錦小路在明がこの建築の出来栄えを絶賛し、永久に保存すべきと述べたことが翌日の北國新聞に記録されています。この言葉が、通常であれば取り壊される運命にあった御便殿を後世に残す大きなきっかけとなりました。

御便殿から信行寺書院へ

御便殿は長年にわたり白崎山の原位置で保存されていましたが、戦後、地域の寺院に移築して保存する方針が取られました。昭和35年(1960年)に供奉殿部分が真宗大谷派の信行寺に移築され、同寺の書院として新たな役割を担うことになりました。一方、本殿部分は昭和51年(1976年)に同じ和倉町にある曹洞宗の青林寺に移築され、客殿として保存されています。

こうして和倉温泉の2つの寺院が、明治時代の御便殿の全体像を今に伝えるという全国的にも稀有な文化的景観を形成しています。両方の建物を訪れることで、かつての御便殿の全貌を体感することができます。

国登録有形文化財としての価値

平成29年(2017年)10月27日、信行寺書院(和倉御便殿供奉殿)は、青林寺客殿(和倉御便殿本殿)とともに国登録有形文化財(建造物)に登録されました。文化遺産オンラインの解説によれば、本建物は「明治四二年の皇太子行啓に際し建てられた御便殿のうち、供奉殿部分を移築したもの」であり、「便殿建築の希少な遺例」として評価されています。

その文化財的価値は、第一に全国的にほとんど現存しない御便殿建築の実例であること、第二に明治期における地方と皇室の関係を物語る歴史的証拠であること、そして第三に地域の人々が100年以上にわたって大切に守り継いできた文化遺産としての意義にあります。仮設の施設として建てられたものが地域に根付き、寺院建築の一部として生き続けているという歴史そのものが、この建物の大きな魅力です。

建築の見どころ

信行寺書院は、木造平屋建・瓦葺で、建築面積は約106平方メートルです。北側に廊下を配し、その南側に西から12畳半の座敷、15畳の間、8畳の間を並べ、南側には部分的に縁側が設けられています。

浮造り(うづくり)の床板

信行寺書院で最も注目される見どころの一つが、廊下に施された「浮造り(うづくり)」の床板です。浮造りとは、木材の表面を丁寧に磨き上げ、柔らかい部分を削ることで木目を浮き立たせる日本の伝統的な木工技法です。手で触れると木目の凹凸を感じることができ、視覚的にも美しい立体感が生まれます。明治時代の匠の技を今に伝えるこの床板は、多くの来訪者を魅了しています。

「極彩色皇華能登行幸絵図」

書院内には、京都を拠点に活動する絵描きユニット「だるま商店」の島氏・安西氏が手がけた大作「極彩色皇華能登行幸絵図(ごくさいしきこうかのとぎょうこうえず)」が飾られています。「皇華」には皇族を敬うという意味が込められ、絵には桜が満開に咲き誇る様子が鮮やかな色彩で描かれています。能登行幸の際に訪れた土地の風景を題材とした本作は、明治の歴史空間と現代アートが見事に融合した空間を生み出しています。

格式ある和風建築の意匠

書院全体を通じて、皇室の行啓にふさわしい格式高い空間設計を観察することができます。随行員の身分に応じて部屋が配置された階層的な間取り、南面する縁側からの採光と通風、庭園への眺望など、日本の伝統建築が大切にしてきた自然との調和が随所に見られます。

信行寺について

信行寺は真宗大谷派に所属する寺院で、初代住職は伊賀国上野の住人・慶恩と伝えられています。昭和48年(1973年)に本堂が再建され、現在の姿となっています。和倉温泉の「七福神福々めぐり」では福禄寿の石像が境内に安置されており、温泉街散策の人気スポットの一つとなっています。

なお、令和6年(2024年)1月の能登半島地震の影響により、書院の拝観が休止されている場合があります。お参り自体は可能ですが、書院の見学をご希望の場合は事前に和倉温泉観光協会(電話:0767-62-1555)へお問い合わせください。

周辺情報

信行寺書院は和倉温泉街の中に位置しており、周辺の観光スポットとあわせて訪れることができます。

  • 青林寺客殿(和倉御便殿本殿):信行寺書院と対をなす御便殿の本殿部分を保存する曹洞宗の寺院です。折上格天井や木曽檜・秋田杉の見事な木造建築を鑑賞でき、庭園が磨かれた床に映り込む「リフレクション撮影」がSNSで話題となっています。
  • 和倉温泉総湯:和倉温泉の中心にある共同浴場で、塩分を含んだ温泉を気軽に楽しめます。足湯や温泉たまご作りの体験もできます。
  • 七福神福々めぐり:和倉温泉の7つの名所に安置された七福神の石像を巡る約1時間の散策コースです。信行寺の福禄寿、青林寺の布袋など、それぞれの場所にちなんだ七福神に出会えます。
  • 渡月橋:大正ロマンの雰囲気を感じさせる橋で、夜にはライトアップされ温泉街の散策に風情を添えます。
  • 能登島:能登島大橋を渡って行ける島で、のとじま水族館やドライブコースが人気です。

Q&A

Q御便殿とは何ですか?なぜ貴重なのですか?
A御便殿(ごべんでん)とは、天皇や皇太子が地方を訪れた際に設けられる仮設の休憩施設のことです。通常は使用後に取り壊されるため、現存するものは全国的にも極めて少なく、和倉温泉のように本殿と供奉殿の両方が同じ地域に残されている例は他にほとんどありません。
Q信行寺書院は見学できますか?予約は必要ですか?
Aお参りは通常通り可能ですが、令和6年の能登半島地震の影響により書院の拝観が当面休止されている場合があります。見学をご希望の際は、和倉温泉観光協会(電話:0767-62-1555)に事前にお問い合わせください。
Q信行寺へのアクセス方法は?
Aのと鉄道・和倉温泉駅から徒歩約22分、またはタクシーで数分です。和倉温泉の旅館に宿泊されている場合は、温泉街の中心から徒歩圏内です。
Q信行寺書院と青林寺客殿の違いは?
Aどちらも明治42年の行啓のために建てられた同じ御便殿の一部です。青林寺客殿は東宮殿下がお過ごしになった本殿(御座所を含む)で、折上格天井や総檜造りが見どころです。信行寺書院は随行員の控室であった供奉殿で、浮造りの床板やだるま商店による現代絵画が特徴です。両方を訪れることで御便殿の全体像を知ることができます。
Q拝観料はかかりますか?
A拝観料については信行寺または和倉温泉観光協会に直接ご確認ください。境内へのお参りは通常無料で行うことができます。

基本情報

名称 信行寺書院(和倉御便殿供奉殿)
文化財区分 国登録有形文化財(建造物)/登録年月日:平成29年(2017年)10月27日
建築年 明治42年(1909年)建築/昭和35年(1960年)信行寺へ移築
構造 木造平屋建、瓦葺、建築面積約106㎡
宗派 真宗大谷派
所有者 宗教法人信行寺
所在地 〒926-0175 石川県七尾市和倉町ソ16他
アクセス のと鉄道・和倉温泉駅から徒歩約22分
お問い合わせ 和倉温泉観光協会:電話 0767-62-1555

参考文献

文化遺産オンライン - 信行寺書院(和倉御便殿供奉殿)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/286316
ほっと石川旅ねっと - 信行寺書院(和倉温泉)
https://www.hot-ishikawa.jp/spot/detail_21686.html
七尾市・中能登町観光NAVI - 信行寺書院
https://kankou.nn-dmo.or.jp/article/article-542/
文化遺産オンライン - 青林寺客殿(和倉御便殿本殿)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/256705
Discover Noto - 国内に2箇所のみの国登録有形文化財の御便殿を持つ「青林寺」
https://discover-noto.com/4049/
北陸中日新聞 - 希少 和倉御便殿を学ぶ 大正天皇の休憩所ツアー
https://www.chunichi.co.jp/article/1140239
文化時報社 - 【能登半島地震】青林寺、御便殿と復興目指す
https://note.com/bunkajiho/n/ne2ebdecd02b4
加賀屋公式サイト - 七福神めぐり
https://www.kagaya.co.jp/sightseeing/detail.php?id=11

最終更新日: 2026.03.27