チャグチャグ馬コ──岩手の田園に響く七百個の鈴の音
六月第二土曜日の早朝、岩手山の南麓にある鬼越蒼前神社の境内には、紅や紫紺、黄に染め抜かれた装束をまとった農用馬が次々と集まってくる。一頭につけられる鈴の数は、大小あわせておよそ七百個。馬が一歩踏み出すたびに、装束に縫いつけられた鈴と、首から下げられたドーナツ型の真鍮製大鈴「鳴り輪」とが重なり合い、何ともいえない協和音を生む。この音を擬したのが「チャグチャグ」という呼び名である。
滝沢市の鬼越蒼前神社から盛岡市の盛岡八幡宮までおよそ十四キロを、約四時間かけて行進するこの祭は、岩手の初夏を象徴する行事として知られている。昭和五十三年(一九七八年)一月三十一日に、文化庁から「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選択された。さらに平成八年(一九九六年)には、この行進が生み出す鈴の音そのものが、環境庁(当時)の「残したい日本の音風景100選」に選定されている。
馬と暮らした南部の風土
岩手が馬の名産地であった歴史は古く、奈良時代まで遡ることができる。江戸期に入ると、旧南部藩主・南部利直が馬産を奨励し、大型で頑健な「南部駒」が広く知られるようになった。当初は軍馬や駄馬として用いられた馬も、やがて農耕に欠かせない家族同然の存在となり、人と馬とが同じ屋根の下に住む「南部曲り家」という独特の住居形式が生まれた。母屋の暖気が厩に通うつくりで、馬は単なる家畜ではなく、生活の伴侶として大切にされていた。
こうした愛馬精神が信仰の形をとったのが、馬の守護神・蒼前様への参詣「お蒼前参り」である。蒼前様は、古い東北に住み、馬の治療と育成に長けた人物であったと伝わり、滝沢の鬼越蒼前神社に祀られている。旧暦五月五日の端午の節句──田植え前のひととき、人も馬も束の間休む日──に、農民たちは愛馬を連れて参拝し、無病息災を祈った。
寛政の頃(江戸後期)になると、参勤交代の大名行列で荷物を運ぶ輸送馬隊が用いた「小荷駄装束」を着けて参拝する馬が現れ、これが大流行した。素朴な愛馬の祭りに、華やかな大名行列の意匠が重なって、現在のチャグチャグ馬コの原型ができあがる。首から下げる鳴り輪は、もともと山中の熊や狼を遠ざけるための大鈴で、見晴らしの良い場所であれば四キロ四方に届くともいう。
選択無形民俗文化財としての価値
昭和五十三年の選択は、トラクターの時代を迎えてなお、人と労働畜である馬との関係を保ち続けてきた民俗を記録に残すべきものとして評価したものである。「選択」は、消滅の恐れがあるため記録作成・保存が必要と判断された無形民俗文化財に与えられる区分で、いわば文化財保護法上の警戒灯にあたる。実際、平成二年に百二頭を数えた装束馬は、近年では六十頭前後にまで減少しており、滝沢市は市有の繁殖牝馬を確保し、生まれた仔馬を出馬者に無償譲渡する取り組みも始めている。
装束そのものもまた、記録・継承の対象である。素材は良質の麻、染料は紫紺染めや草木染め。鳴り輪に始まり、むながい、しりがい、首よろい、まびさし、鼻かくし、耳袋、はづな、おもがい、そして最後に吹き流しを取り付けるという順序が、家ごとに少しずつ異なる配色とともに受け継がれてきた。製作の講習会は、農作業の落ち着く冬場に行われる。一頭ずつ意匠が違うのは、家ごとの工夫が積み重ねられてきた結果である。
当日の見どころ
馬たちは午前八時頃から鬼越蒼前神社に集まり、安全祈願祭ののち、午前九時三十分に出発する。背には子どもが乗せられることが多い。揺れる馬上で眠ってしまう子もいるが、帯で鞍にしっかりと結ばれているので落ちる心配はない。隊列は岩手山を背に滝沢ニュータウンを抜け、夕顔瀬橋を渡って盛岡市内に入り、大通りを経て、午後一時四十五分頃に盛岡八幡宮に到着する。
観覧の場所選びは、何を見たいかによる。岩手山を背景にした静かな田園風景を求めるなら、出発地の鬼越蒼前神社や滝沢市役所付近が良い。市街地での華やかな行進を撮るなら、中津川河畔──昼前後に約四十頭が川岸に繋がれる──や大通り。終着の儀式を見たいなら、午後の盛岡八幡宮へ向かうことになる。
関連する見どころとして、毎年元日には鬼越蒼前神社で「チャグチャグ馬コ初詣」が行われる。雪景色を背景に、初夏とはまた違った装束馬の姿を見ることができる。盛岡出身の宮沢賢治は、下の橋でこの馬コを見た折の印象を短歌に詠み、「ちゃんがちゃんがうまこ」「ちゃがちゃがうまこ」と擬音を書き分けている。耳に残るリズムをそのまま写し取ったような表記である。
周辺で楽しむ
祭の前後には、滝沢・盛岡それぞれの拠点で関連行事が行われる。出発前の早朝、滝沢市の複合施設ビッグルーフ滝沢では、午前七時頃から装束の着付けが見学でき、滝沢駒踊りや蒼前太鼓といった郷土芸能も披露される。装束をつけたポニーとの記念撮影ができる時間も設けられている。
歴史的背景を理解したい人には、滝沢市内の「南部曲り家藤倉邸」が分かりやすい。L字型に折れた茅葺き屋根のなかで、人の居間と馬の厩がどう繋がっていたかを実物で確認できる。盛岡市街では、白い花崗岩で築かれた珍しい城址・盛岡城跡公園(岩手公園)が、行進終盤のルートから徒歩圏内にある。土産には、もりおか手づくり村などで売られている木製のチャグチャグ馬コ人形がよく選ばれる。戦後、昭和二十年代から地元の手内職として作られはじめた郷土玩具で、実物の馬の晴れ姿をそのまま小さく写したものである。
Q&A
- チャグチャグ馬コはいつ行われますか?
- 毎年六月の第二土曜日です。もとは旧暦五月五日に行われていましたが、田植えの最盛期と重なるため昭和三十三年に新暦六月十五日に変更され、平成十三年から現在の第二土曜日になりました。出発は午前九時三十分頃、盛岡八幡宮到着は午後一時四十五分頃です。
- どこで見るのが良いですか?
- 岩手山を背景にした出発地・鬼越蒼前神社、装束の着付けが見られるビッグルーフ滝沢、市街地の華やかさを楽しめる中津川河畔や大通り、終着の盛岡八幡宮など、それぞれ趣が異なります。混雑を避けたい方は出発地周辺が比較的ゆったりしています。
- 鈴は一頭に何個ついていますか?
- 大小あわせて約七百個といわれています。首にはドーナツ型の真鍮製大鈴「鳴り輪」が一つ、むながい、しりがい、首よろいなどには小さな鈴が無数に縫いつけられています。この音の重なりが平成八年に「残したい日本の音風景100選」に選定されました。
- 馬に触れたり、写真を撮ったりしてもよいですか?
- 沿道からの撮影は歓迎されています。ただし行進中の馬はデリケートなため、触れたり大きな音を立てたりすることは事故防止の観点から禁止されています。行進ルートでのドローン使用も禁止です。ビッグルーフ滝沢では装束をつけたポニーと触れ合える時間が設けられています。
- 盛岡駅から出発地までどう行きますか?
- 祭当日は盛岡駅とビッグルーフ滝沢を結ぶ有料シャトルバス(大人片道五百円)が運行されます。ビッグルーフ滝沢から鬼越蒼前神社までは徒歩約一・四キロです。通常の岩手県交通バス(滝沢営業所行・滝沢鵜飼下車)でもアクセスできます。
基本情報
| 名称 | チャグチャグ馬コ |
|---|---|
| 指定区分 | 記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財(昭和五十三年〔一九七八年〕一月三十一日選択) |
| 関連の選定 | 平成八年〔一九九六年〕、鈴の音が環境庁(当時)「残したい日本の音風景100選」に選定 |
| 開催日 | 毎年六月第二土曜日 |
| 行進ルート | 鬼越蒼前神社(滝沢市)から盛岡八幡宮(盛岡市)まで、約十四キロメートル |
| 所要時間 | 約四時間(午前九時三十分頃出発/午後一時四十五分頃到着) |
| 参加頭数 | 近年は六十〜七十頭程度 |
| 出発地住所 | 鬼越蒼前神社/岩手県滝沢市鵜飼外久保一〇〇番地三 |
| 保護団体 | チャグチャグ馬コ保存会、チャグチャグ馬コ振興協賛会、チャグチャグ馬コ同好会 |
| アクセス | JR盛岡駅から祭当日運行の有料シャトルバスでビッグルーフ滝沢へ、徒歩約一・四キロ。車の場合、東北自動車道盛岡ICから県道一六号線(盛岡環状線)を北へ約十五分 |
参考文献
- チャグチャグ馬コ──文化遺産オンライン(文化庁)
- https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/203563
- チャグチャグ馬コ──滝沢市公式観光ページ
- https://www.city.takizawa.iwate.jp/kanko/umakko
- チャグチャグ馬コとは?──滝沢市
- https://www.city.takizawa.iwate.jp/kanko/umakko/contents-7499
- チャグチャグ馬コ──盛岡市公式観光ページ
- https://www.city.morioka.iwate.jp/kankou/kankou/1037105/umako/1007961.html
- 国指定文化財など──盛岡市
- https://www.city.morioka.iwate.jp/kankou/kankou/1037106/rekishi/1009335/1009340/1009341.html
- 装束──チャグチャグ馬コ保存会公式ホームページ
- https://chaguuma.com/costume/
最終更新日: 2026.05.18