一つの集落が支えてきた民俗芸能
市来の七夕踊は、鹿児島県いちき串木野市の大里地区に古くから受け継がれてきた風流の踊りである。昭和56年(1981年)1月21日、国の重要無形民俗文化財に指定された。指定の対象となったのは、大里という一つの農村が約400年にわたって守ってきた行事そのものであった。最も大きな規模で行われていた頃には、行列に加わる人数は三、四百人にのぼり、その大半が大里に縁を持つ人々であったという。
「七夕」の名を冠するが、星に願いをかける七夕の伝説と直接結びつくわけではない。研究者はこの行事に、豊作を祝う性格と、亡くなった人々を供養する性格の双方を見いだしてきた。形式としては風流に分類される。大張子や行列といった華やかな趣向で見る者を楽しませる、群行形式の芸能である。
行事を担ってきたのは七夕踊保存会である。中心にあるのは太鼓踊だが、その踊りは作り物の動物や歴史行列を伴う大きな行列の一部として演じられた。この組み合わせこそが、国の文化財としての評価につながっている。
島津義弘の凱旋から、大里水田の開拓へ
踊りの起こりについては二つの伝承があり、地域でもいずれか一方に定まってはいない。広く語られてきたのは、約400年前、薩摩の領主島津義弘が朝鮮の役から帰還したことを祝う芸能として始まったという説である。豊臣秀吉が1590年代に起こした朝鮮への出兵に、義弘も兵を率いて加わっていた。この説を裏づけるように、踊り手の装束には丸に十の字を描いた島津氏の家紋が付けられていた。
もう一つの伝承は、それから約90年後のできごとにさかのぼる。地区にあった金鍾寺の住職と、地頭の床濤到住が力を合わせ、大里の水田へ水を引く用水路の建設にあたった。用水路は天和4年(1684年)に完成し、新たに開けた田を記念して踊りがふたたび始められたと伝わる。文化庁の記録は床濤到住を大里の田を開いた人物として記し、その霊を慰めるために踊られたという言い伝えも残る。
こうした由来があるため、この行事を一つの言葉で言い表すのは難しい。七夕の日に行われながら、大きな作り物は動物の精霊を表すものと考えられ、その時期は祖先の霊が帰るとされる盆の直前にあたる。豊作への感謝と、静かな供養とが、同じ一日のなかに重なっていた。
国の指定を受けた理由
文化財として保護するに足ると判断された決め手は、その構成にあった。太鼓踊は鹿児島の祭りに広く見られる芸能だが、市来の七夕踊では珍しい形に組み立てられていた。一日の演目は三つの部分に分かれる。前踊として行われる行列、本踊にあたる太鼓踊、そして演目を締めくくる後踊である。
前踊では大きな作り物と仮装の行列が繰り出し、本踊で太鼓踊が演じられ、後踊として薙刀を用いた踊りが続いた。太鼓踊が前踊と後踊を伴って演じられる例はきわめて少なく、指定にあたっても特色ある形として評価された。
規模もまた重視された。仮装した者たちが連なって進む群行は他に類を見ない演出であり、大里の多くの住民が何らかの役を担って参加していた。一つの集落が総出で支える行事を、失われる前に記録しておくべきものと判断したのである。
行列が見せた光景
最も目を引いたのは、行列の先頭をゆく作り物であった。鹿、虎、牛、鶴をかたどった大きな張子で、いずれも数人がかりで担ぎ、動かす。虎については、これを捕らえる場面が演じられた。
作り物に続いたのは歴史行列である。一つは琉球の王が薩摩へ赴いた往時を映す琉球王行列、もう一つは参勤交代の大名行列をかたどったもので、薙刀を携えた行列も加わった。江戸時代、大名は領地と将軍の城下とを行き来することを定められており、その道中が再現されていた。
そして太鼓踊が続く。青年と子供あわせて三十余名が古風な歌詞に合わせて演じ、青年の踊り子はヤッサと呼ばれた。一番ドン、二番ドン、イデコヒキ、ヒラデコといった役があり、子供はカネウチやイデコの役を受け持った。行列が定められた踊り場に着くと、花笠をかぶった踊り手は列を離れ、提灯を囲んで輪になって踊り、踊り終えるとふたたび列を組んで進んだ。一日はこの到着と出発の繰り返しであり、行列は地区のなかで幾度も組み直された。
いまの大里を訪ねる
踊りを見たいと考える方に、まず伝えておくべきことがある。本来の形での七夕踊は、現在は行われていない。令和4年(2022年)の夏までは、8月5日から11日までのあいだの日曜日に、作り物と歴史行列を伴う行列が従来どおり繰り出していた。しかしその年を最後に、七夕踊保存会は本来の規模での開催を休止した。令和5年(2023年)からは、有志によって太鼓踊のみが受け継がれ、大里の中福良公民館に近い踊り場で一時間ほど奉納されている。太鼓踊は続いているが、作り物の行列はいまのところ見ることができない。
大里は、いちき串木野市のうち旧市来町にあたる内陸の地区である。JR鹿児島本線では市来駅と串木野駅が近い。奉納される太鼓踊の日程や場所は年によって変わることがあるため、訪問を計画する際は市の社会教育課に確認しておくとよい。
いちき串木野市そのものにも見どころは多い。海沿いの羽島には薩摩藩英国留学生記念館があり、慶応元年(1865年)に19名の藩士が国禁を犯して海を渡った地に建つ。館内では彼らの旅路が資料と映像で紹介されている。内陸では、旧串木野金山の坑道を活用した焼酎蔵があり、年間を通じて19度前後に保たれた坑内をトロッコで見学できる。中国の方士徐福の伝説が残る冠岳がそびえ、その麓には中国風庭園が設けられている。串木野麓の武家屋敷群は日本遺産の構成文化財に数えられる。踊りの由来に関わる金鍾寺の跡も、市内に残されている。
Q&A
- いま訪ねれば市来の七夕踊を見られますか。
- 作り物や歴史行列を伴う本来の七夕踊は、令和4年(2022年)を最後に休止されています。令和5年からは有志により太鼓踊のみが受け継がれ、大里の中福良公民館付近で一時間ほど奉納されています。日程は市にご確認ください。
- 踊りはいつ行われていましたか。
- もとは旧暦7月7日の七夕の日に行われていました。のちに8月5日から11日までのあいだの日曜日に移り、本来の形での最後の開催は令和4年(2022年)8月7日でした。
- 風流とはどのような芸能ですか。
- 華やかな装束や大きな作り物、視覚的な趣向を特徴とする民俗芸能の一分野です。見て楽しむ要素を重んじる芸能で、巨大な作り物と仮装行列を備えた市来の七夕踊はその典型といえます。
- 七夕の踊りでありながら供養の性格を持つのはなぜですか。
- 七夕の日に行われる一方で、別の意味も重ねられてきました。作り物は動物の精霊を表すと考えられ、時期は盆の直前にあたります。研究者はこの行事を、豊作を祝う芸能であると同時に、盆の供養に先立つ前祭りとしての性格を持つものと説明しています。
- 大里へはどのように行けますか。
- 大里はいちき串木野市の旧市来町にあたる内陸の地区です。JR鹿児島本線の市来駅・串木野駅が近く、市域は鹿児島市中心部から鉄道や車でおよそ1時間の距離にあります。
基本データ
| 名称 | 市来の七夕踊(いちきのたなばたおどり) |
|---|---|
| 指定区分 | 国指定重要無形民俗文化財(昭和56年〈1981年〉1月21日指定) |
| 種別 | 民俗芸能/風流 |
| 所在地 | 鹿児島県いちき串木野市大里地区 |
| 保護団体 | 七夕踊保存会 |
| 実施時期 | もとは旧暦7月7日。のちに8月5日〜11日のあいだの日曜日 |
| 現在の状況 | 令和4年(2022年)を最後に本来の行列形式は休止。令和5年以降は有志が太鼓踊のみを継承 |
| アクセス | JR鹿児島本線 市来駅・串木野駅が最寄り |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)「市来の七夕踊」
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/302/153
- 文化遺産オンライン「市来の七夕踊」
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/159378
- いちき串木野市「市来の七夕踊」
- https://www.city.ichikikushikino.lg.jp/bunka1/tanabata.html
- いちき串木野市「七夕踊(太鼓踊)」
- https://www.city.ichikikushikino.lg.jp/bunka1/tanabataodori2023.html
- 文化デジタルライブラリー(日本芸術文化振興会)「市来の七夕踊」
- https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc27/genre/furyu/taikoodori/arts08.html
最終更新日: 2026.05.26