床が竹でできた農家
旧伊藤家住宅のヒロマに上がると、足の裏に当たるのは板ではなく、丸い竹を並べた簀子の床である。風の強い日には、竹のすき間から床下の風が吹き上げてくる。江戸時代、床板をつくるには手間も費用もかかった。一方、竹は屋敷のまわりに無償でいくらでも生えていた。だから、それほど裕福でない農家は、手近な竹を板の代わりに使った。この一点が、ここに暮らした家のありようをよく示している。村の名主を勤めるだけの家格はあったが、富裕とまではいかない、中ぐらいの農家だった。
家がもともと建っていたのは、多摩丘陵南西部の金程(かなほど)という農村で、現在の川崎市麻生区にあたる。伊藤家は橘樹郡金程村の農家で、江戸時代には名主を勤めたという。建築年代を示す史料は残っておらず、構造や細部の特徴から、17世紀末から18世紀初めごろの建築と推定されている。現在は、もとの場所から数キロ離れた川崎市多摩区の日本民家園のなかに移築されている。
民家園が生まれるきっかけになった家
昭和38年(1963)、伊藤家住宅は建て替えのために取り壊されることが決まり、横浜市の三溪園へ移築する話が進んでいた。これに対して川崎市は、市内で残せないかを検討する。一軒の農家を救おうとする動きは、やがてより大きな構想へと育った。消えていく民家を移築して保存する野外博物館をつくる、という発想である。昭和42年(1967)に開園した日本民家園にとって、伊藤家住宅はその出発点となった建物にあたる。
文化財としての評価は、移築よりも先に下されていた。昭和39年(1964)5月29日、伊藤家住宅は重要文化財に指定された。神奈川県の民家としては最初の指定である。評価の理由は豪壮さではなく、中層農家の標準的な姿がそのまま残っている点にある。多摩丘陵の地域的な建築の手法が、柱や床のひとつひとつから読み取れる遺構として貴重とされた。
見どころ
正面には、地元でシシ窓あるいはシシよけ窓と呼ばれた格子窓がはまっている。シシとは獣のことで、狼や猪を防ぎながら、光と風を採り入れるための窓である。柱間の半分しか開かない片引戸で、外に対して身構えたような閉鎖的な構えは、この地方の古い農家に共通する。18世紀後半以降の家は正面に縁側を設けて開放的になるが、この家はまだ守りの姿勢を崩していない。
間取りは当地方に一般的な広間型三間取だが、一点だけ通例と異なる。正式な座敷であるデイが12畳もあり、かなり広い。家のなかで唯一畳を敷く部屋でありながら、床の間も天井もない。床の間と天井は18世紀中期以降の農家で標準になっていく要素で、それが無いことが、この家を一段古い時代の建物として位置づける根拠になっている。
土間の奥の炊事場には、しゃがんで使う「すわり流し」と大きな水がめが置かれている。頭上の構造は整った四方下屋造で、四方に下屋の屋根をかけるこの形式は、神奈川の農家に共通する特徴である。深く葺き下ろした正面の庇が軒先に濃い影を落とし、彫りの深い表情を生んでいる。園内のガイドは、魔除けとして据えられた魚の尻尾の形をした飾りにも触れてくれる。
周辺とアクセス
伊藤家住宅は、生田緑地の斜面に広がる日本民家園に集められた25棟の文化財建造物のひとつである。園路沿いには東日本各地の農家が並び、水車小屋や歌舞伎舞台、高倉なども見られる。多くの日には、ボランティアスタッフがいくつかの民家の囲炉裏に火を入れており、垂木の間を上っていく薪の煙が、これらの部屋でどのように暮らしが営まれたかを感じさせる。伊藤家住宅をはじめ、多くの建物では床上に上がることができる。
民家園へは、小田急線向ヶ丘遊園駅の南口から徒歩約13分、JR南武線登戸駅からは徒歩約25分ほどである。同じ丘の上には岡本太郎美術館やプラネタリウムのある科学館もあり、民家の見学を生田緑地での半日の散策に組み込みやすい。
Q&A
- 旧伊藤家住宅の中に入れますか。
- 入れます。民家園の一部として一般公開されており、竹簀子のヒロマを含め、床上に上がって見学できます。指定された場所では靴を脱ぎます。
- いつ建てられた家ですか。
- 建築年代を示す史料は残っていません。建築様式から、江戸時代中期にあたる17世紀末から18世紀初めごろと推定されています。
- なぜヒロマの床が板ではなく竹なのですか。
- 床板は費用も手間もかかる一方、竹は屋敷の近くで無償に手に入りました。中ぐらいの農家が板の代用として竹を使ったもので、家の格を表す要素でもあります。
- 「シシ窓」とは何ですか。
- 獣を防ぐための窓という意味です。正面の格子窓で、狼や猪などの野獣が家に入らないようにするためのものでした。
- 見学にどのくらい時間がかかりますか。
- 伊藤家住宅だけなら数分ですが、25棟が並ぶ園全体は2〜3時間ほどみておくとよく、囲炉裏に火が入る時間帯は特に見ごたえがあります。
基本情報
| 名称 | 旧伊藤家住宅(きゅういとうけじゅうたく) |
|---|---|
| 指定区分 | 重要文化財(昭和39年〔1964〕5月29日指定) |
| 種別 | 近世以前/民家 |
| 年代 | 17世紀末〜18世紀初め(江戸中期) |
| 構造形式 | 一重、入母屋造、茅葺、桁行16.4m・梁間9.1m、1棟 |
| 旧所在地 | 神奈川県川崎市麻生区金程 |
| 現所在地 | 神奈川県川崎市多摩区枡形7-1-1 日本民家園内 |
| 所有者 | 川崎市 |
| 公開状況 | 日本民家園内で一般公開 |
| 開園時間 | 3〜10月 9:30〜17:00/11〜2月 9:30〜16:30(入園は閉園30分前まで) |
| 入園料 | 一般550円/高校・大学生・65歳以上330円/中学生以下無料 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/102/593
- 文化遺産オンライン(文化庁)
- https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/188433
- 川崎市教育委員会「旧伊藤家住宅」
- https://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000266.html
- 川崎市立日本民家園 利用案内
- https://www.nihonminkaen.jp/information.html
最終更新日: 2026.06.03