崖に立ち続けて約350年、一本の巨木
小田原市早川、石垣山の北側にあたる急斜面の崖に、バクチノキの巨木が一本立っている。株元の幹周りはおよそ6メートル、樹高は約20メートル。短く太い幹から五本の大枝が分かれ、東西におよそ17メートル、南北に14メートルの枝を広げる。大正13年(1924年)12月9日、国の天然記念物に指定された。神奈川県内で国の天然記念物に指定された樹木は数えるほどしかなく、このバクチノキはその早い例にあたる。
正式な名称は「早川のビランジュ」。早川は所在する地区の名で、ビランジュはこの木の地方名である。場所は箱根ターンパイクの入口から約300メートル、小さな凹地に面した斜面で、小田原城跡と石垣山城跡のおおよそ中間にあたる。
たやすく行き着ける木ではない。最後はかなりの坂と階段を上ることになり、登りきったところで木がようやく姿をあらわす。斜面に根を張った姿は、平地に立つ巨木とはまた違った迫力を持つ。
一本の木が国の天然記念物になるとき
日本の文化財保護は建造物や美術工芸品にとどまらない。すぐれた自然物――名木や巨樹、特異な地質、貴重な生育地など――も、同じ法のもとで天然記念物に指定される。早川のビランジュは、名木・巨樹・老樹などを対象とする指定基準のもとで国の天然記念物となった。
その理由は、大きさだけでなく地理にある。バクチノキ(Prunus zippeliana)は暖温帯南部の樹種で、四国や九州の暖かい地域では珍しくないが、東国ではまばらにしか育たない。小田原はこの木の自然分布の東北限に近く、これだけの大きさの個体が分布の中心から遠く離れて立っていること自体が、学術上の価値とされた。
国内で記録されたバクチノキのなかでも、早川のビランジュは幹の太さで群を抜く。樹種としてのバクチノキで国の天然記念物に指定されている個体は、現在もこの一本だけである。大正期の調査では幹囲が一丈七尺、つまり5メートル近くと記録され、五本の太い枝に分かれる姿が書きとめられた。その骨格は今もそのまま受け継がれている。
「博打の木」と、剥がれ続ける樹皮
標準和名のバクチノキは、文字どおり「博打の木」を意味する。由来はそっけない。樹皮は灰褐色で、木の成長につれてうろこ状になり、自然に剥がれ落ちる。その下からあらわれるのは紅黄色の肌である。外皮を脱いでいく幹の姿を、博打に負けて衣を剥がされる様子になぞらえた、というのである。
もう一つの呼び名ビランジュには、変わった経緯がある。仏典に出てくる毘蘭樹――世界の始まりと終わりに吹くという暴風の名――と取り違えられたものとされる。誤りから生まれた名がそのまま定着し、しかも土地の地名にまでなった。
木が生える早川の一画は、字名を飛乱地(びらんじ)という。地名が木にちなんだのであって、その逆ではない。一本の木が、自らの立つ土地に名を与えた。その名は、木を知る人々の世代をいくつも越えて残っている。
三世紀におよぶ土地の記憶
樹齢の推定は資料によって幅があり、およそ250年とするものから350年とするものまである。小田原市がしばしば挙げるのは約350年で、これに従えば、木の若い時期は江戸時代にさかのぼる。
地元には、江戸時代後期の文化年間に小田原藩主だった大久保忠真にまつわる逸話が伝わる。文書よりも口伝えに近い話だが、その頃にはすでに珍しい木として知られていたことをうかがわせる。正式な指定を受けるより二世紀以上も前から、人に気づかれ、語り継がれてきた木――それ自体が、この斜面における木の長い時間を静かに示している。
訪ねるために
現地は開かれた場所で、見学は自由、門も決まった時間もない。最寄り駅は二つある。箱根登山線の箱根板橋駅と、JR東海道線の早川駅で、どちらからも徒歩約20分である。
道のりは終盤までは難しくない。小田原市が経路を段階ごとに案内しており、木は一般的な地図サービスにも記されている。難所は最後の登りに集中する。急で、ときに滑りやすい斜面と階段を上ることになるため、歩きやすい靴が望ましく、雨天時は足元がいっそう不安定になる。木は崖の斜面に根を張っているので周囲をぐるりと回ることはできず、見やすいのは登りの途中と頂上のわずかな平地からである。
春は訪れるのに心地よい季節で、海へ向かう道筋には早咲きの桜が見られる。もっとも、幹の色のついた樹皮そのものは、どの季節でもはっきりと目にとまる。
周辺の見どころ
この木は、地域を代表する二つの歴史的な場所のすぐ近くにある。斜面の上に広がる石垣山城跡は、天正18年(1590年)の小田原攻めにあたって豊臣秀吉が築いた城の跡で、当時の小田原城は北条氏が押さえていた。二つの城を結ぶ道のあいだにバクチノキが立っており、その線をたどれば、天下統一の決定的な場面の一つに重なる。
斜面を下りた早川は現役の漁港で、港の市場では水揚げされたばかりの魚を味わえる。完全に復元され公園に囲まれた小田原城へは、電車で短い距離である。木のすぐ近くから始まる箱根ターンパイクは、箱根の温泉地や展望台へと登っていく。
Q&A
- これはどのような木ですか。
- バクチノキ(Prunus zippeliana)で、サクラやウメと同じバラ科の常緑高木です。和名は「博打の木」を意味し、樹皮がうろこ状に剥がれ落ちる様子に由来します。
- なぜ国の天然記念物に指定されたのですか。
- バクチノキは主に西日本の暖地に育つ樹種で、東日本では少なくなります。小田原はその自然分布の東北限に近く、この大きさの個体が育っていること自体が学術上貴重とされました。樹種として国の天然記念物に指定された個体は、このバクチノキだけです。
- 樹齢はどれくらいですか。
- 推定には幅があります。調査によりおよそ250年から350年とされ、小田原市は約350年とすることが多くなっています。
- 行きにくい場所ですか。
- 経路には案内があり地図にも記されていますが、最後の登りは急で滑りやすい斜面と階段になります。歩きやすい靴で、特に雨天時は足元に注意してください。
- 見学に時間や料金の決まりはありますか。
- ありません。木は開かれた斜面に立ち、無料で自由に見学できます。現地に設備はないため、明るい時間帯の見学が安心です。
基本情報
| 名称 | 早川のビランジュ(はやかわのびらんじゅ) |
|---|---|
| 指定区分 | 国指定天然記念物(大正13年〔1924年〕12月9日指定) |
| 所在地 | 神奈川県小田原市早川字飛乱地1374-1 |
| 樹種 | バクチノキ(Prunus zippeliana)、バラ科 |
| 員数 | 1樹 |
| 樹相 | 樹高 約20メートル/目通り幹囲 約4.9メートル/株元周囲 約6メートル/枝張り 東西約17メートル・南北約14メートル |
| 推定樹齢 | 約350年 |
| 管理団体 | 小田原市(大正14年〔1925年〕8月13日より) |
| アクセス | 箱根登山線 箱根板橋駅、またはJR東海道線 早川駅から徒歩約20分 |
| 公開状況 | 無料/屋外、見学自由 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)── 早川のビランジュ
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/775
- 文化遺産オンライン(文化庁)── 早川のビランジュ
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/138257
- 小田原市 ── 天然記念物・早川のビランジュ
- https://www.city.odawara.kanagawa.jp/field/lifelong/property/cultural/natural/tenbi.html
最終更新日: 2026.05.25