名前の素っ気なさが示すもの

京都市右京区、栂尾の山あいに建つ高山寺の指定文化財の一覧に、黒漆机(こくしつつくえ)という一脚の調度がある。国指定文化財等データベースの記載はごく短い。種別は工芸品、時代は平安、員数は一脚。作者も、紀年銘も、公表された寸法もない。残されているのは、机そのものと、それを守ってきた寺だけである。

この簡素さがかえって目を引く。木製の調度は本来、長い年月を越えにくい。使われ、傷み、やがて新しいものに替えられる。平安時代から黒漆をまとったまま現在まで残った一脚は、同種の品の多くが失われたなかでの数少ない生き残りといってよい。

黒漆は、漆の木から採った樹液を薄く塗り重ね、研いでは塗りを繰り返して仕上げた、深く沈んだ黒の塗膜である。木地を封じ、湿気をしりぞけ、年を経ても容易には衰えない硬く艶やかな肌をつくる。こうした塗りを施した机は、ありふれた日用の品ではない。寺院にあって、この種の低い机は経巻を載せて読み写すため、あるいは僧が筆を執るための台として用いられた。公的な記録は本品の用途を一つに定めてはいないが、平安の工人が黒漆で仕上げた一脚の机であること、それが学問の寺として知られた高山寺に伝わってきたこと、その二点は動かない。

守り伝えてきた寺

高山寺のある栂尾は、高雄・槙尾・栂尾の三尾(さんび)と総称される谷の最も奥に位置し、古くから紅葉の名所として知られる。この地には奈良時代からなんらかの寺があったとされるが、寺の性格を決定づけたのは明恵上人(1173〜1232)であった。建永元年(1206)、後鳥羽上皇から寺域を賜った明恵は、華厳興隆の道場としてここを再興する。寺号は華厳経の一節、日が出ればまず高い山を照らすという句に由来するという。

明恵は学僧であり、記録を残す人でもあった。長年にわたって自らの見た夢を書き留め、経典や典籍を厨子に収めきれぬほど集め、書写した。その結果、高山寺には平安後期から鎌倉期を中心とする一万二千点におよぶ典籍・古文書が蓄えられ、その全容が調査・目録化されたのは二十世紀後半のことである。読み、書き、写すことを軸に営まれた寺は、平安の机が捨てられずに守られる場としてふさわしい。本品は明恵の再興より少なくとも一世代はさかのぼる平安の調度であり、文字を大切にした集団のなかで、おのれの時代を生きのびた一脚である。

なぜ指定されたのか

黒漆机が重要文化財に指定されたのは昭和42年(1967)6月15日、指定番号は02223である。価値は、華やかさよりも稀少さにある。平安期の漆工は、中世以降に花開く蒔絵の隆盛に先立つ技法と形の研究対象として重んじられる。金の装飾を一切持たない素地の机は、日常や法会の調度がどのように作られ、仕上げられたかを知る手がかりとして、むしろその飾り気のなさゆえに価値をもつ。

高山寺には本品のほかに、阿字螺鈿蒔絵月輪形厨子、木製彩絵転法輪筒、輪宝羯磨蒔絵舎利厨子といった工芸の重要文化財がある。いずれも装飾の豊かな品で、黒漆机はそのなかで最も寡黙な一点といえる。装飾を競う品々と並べて見るとき、黒一色の机の手触りは、かえって平安の工人の手わざを近くに感じさせる。

実際に何を見られるか

率直に記しておきたい。ふらりと訪れて黒漆机を目にすることはできない。高山寺の工芸系の文化財の多くと同じく本品は常時公開されておらず、寺を代表するいくつかの名品は東京と京都の国立博物館に寄託されている。机そのものを目当てに計画を立てれば落胆するが、それを守る寺を目当てにするなら話は別である。

まず向かうべきは石水院である。明恵の時代から残る唯一の遺構で、寺の国宝建築でもある。清滝川の谷へ開いた縁側の景色がよく、堂内の落板敷には、華厳経のなかで知を求めて旅をする童子、善財童子の小像が斜めに据えられている。ここでは寺が誇る絵画の精巧な複製も見られる。日本最古の漫画とも呼ばれる鳥獣人物戯画、そして山上の松の二股で坐禅する明恵を小さく描いた樹上坐禅像である。石水院内は撮影できない。

外に出れば、境内の散策が報いてくれる。一段高い斜面には、栄西が中国から持ち帰った種を明恵が植えたと伝わる、日本最古とされる茶園がある。菱形の敷石が続く参道、金堂や開山堂へ登る石段、市中より早く色づく楓。谷を登る本当の理由はそこにある。

栂尾のまわり

三尾は一日でめぐりやすい順路をなす。高山寺の下手には槙尾の西明寺があり、さらに先には高雄の神護寺がある。山上の神護寺は急な石段を登りきった先にあり、眺めがよく、谷へ素焼きの皿を投げる「かわらけ投げ」でも知られる。一帯は清滝川に沿って続き、市中より少し早く始まる紅葉の時期には、十一月を通して人出が多い。午前のうちが最も静かである。

所在地は〒616-8295、京都市右京区梅ヶ畑栂尾町8。最も分かりやすいのは、京都駅から高雄・京北方面行きのJRバスに乗る経路で、所要およそ一時間、栂ノ尾で下車すれば寺はすぐ近くにある。境内の拝観時間は8時30分から17時まで。

Q&A

Q高山寺を訪ねれば黒漆机を見られますか。
Aいいえ。本品は常時公開されておらず、これは寺の工芸系指定文化財の多くに共通します。拝観の中心は国宝の石水院と境内です。机をどうしても見たい場合は、高山寺の宝物を扱う博物館の特別展の機会を待つか、事前に寺へ問い合わせるとよいでしょう。
Qこの机は国宝ですか。
Aいいえ。昭和42年(1967)に指定された重要文化財で、国宝の一段下の区分にあたります。高山寺は両方の区分の文化財を持ち、石水院や鳥獣人物戯画は国宝です。
Qこの机は開山の明恵上人が使ったものですか。
A公的な記録にそうした記載はありません。本品は平安時代の作とされ、明恵が寺を再興した建永元年(1206)より前の時代にあたります。明恵が学問の寺に育てた高山寺に伝わってきた品ですが、明恵その人との関わりを記す記録は確認されていません。
Q訪ねるのに良い時期はいつですか。
A楓を見るなら秋です。十一月中旬から色づき、市中よりやや早く見頃を迎えます。紅葉期は別途、秋期の入山料が必要です。春から初夏は静かで、茶園の茶摘みは五月に行われます。
Q市中からの行き方を教えてください。
A京都駅から高雄・京北方面行きのJRバスに乗り、所要およそ一時間、栂ノ尾で下車します。寺の入口は停留所からすぐです。近くに有料駐車場があり、十一月は有料となります。

基本情報

名称黒漆机(こくしつつくえ)
種別工芸品
時代平安時代(794〜1185)
指定区分重要文化財(指定番号 02223)
指定年月日昭和42年(1967)6月15日
員数1脚
所有者高山寺
所在地〒616-8295 京都市右京区梅ヶ畑栂尾町8
公開状況常時非公開。境内・石水院の拝観時間は8時30分〜17時

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)— 黒漆机
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/6941
世界遺産 栂尾山 高山寺 公式ホームページ
https://kosanji.com/
高山寺について 概略・国宝・重要文化財(高山寺公式)
https://kosanji.com/about/
高山寺 — ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/高山寺

最終更新日: 2026.06.17