退位した天皇が、僧に宛てて書き続けた手紙
かつて帝位にあった人物が、一人の僧に向かって筆を執る。命令ではない。法を授けてほしいという願い事であり、しかも一度では終わらなかった。書き手は、退位し出家して間もない後宇多上皇。受け取ったのは、京都の南東、山あいに広がる醍醐寺の阿闍梨・憲淳である。その私信のうち三通が今に残り、のちに巻子装一巻に仕立て直されて、国宝に指定されている。
正式名称は「後宇多天皇宸翰当流紹隆教誡(三通)」。宸翰とは天皇自筆の文書を指し、数ある古文書のなかでも別格に扱われてきた。残る語句は手紙の主題、すなわちある法流を受け継ぎ栄えさせることを示している。文化庁の国指定文化財等データベースは本品を古文書に分類し、時代を鎌倉、作者を後宇多天皇と記録する。
密教の道を自ら歩んだ、二人だけの天皇
後宇多天皇は文永四年(1267)に生まれ、元亨四年(1324)に没した。幼くして即位し、二十歳で退位したのち、生涯をかけて真言密教へと傾倒していった。「後宇多」という追号そのものが手がかりになる。四百年ほど前に密教の阿闍梨となった宇多天皇を深く崇敬し、その名にあやかったものだからである。日本史を通じて、天皇でありながら阿闍梨として修行し、自ら祈祷を行い弟子を育てた例は、宇多と後宇多の二人しかいない。
徳治二年(1307)、皇后の遊義門院を失った後宇多上皇は出家を遂げた。翌年正月には真言の広沢流の伝法灌頂を受け、金剛性という法名を授かる。しかし、それで満ち足りはしなかった。心を定めていたのは、醍醐寺に受け継がれる三宝院流の相承であり、さらにその先にあったのは、当時の僧でもなかなか口にしえぬ大願だった。真言密教の二大法流である小野流と広沢流をふたたび一つに束ね、空海の頃の姿に近づけたい。三通の手紙は、それを許しうる唯一の師に、私的に訴えた記録である。
三通の手紙が記すこと
この往復は、情に押されながら進む交渉のように読める。第一通で後宇多法皇は、病に伏した憲淳に対し、もし回復がかなわなければ自分が法流を受け継ぎたいと記し、存命のうちに細かく教えを乞いたいと申し出る。すでに広沢流の秘儀を極めたこと、附法の正統に列することができれば分かれた教えを一つにまとめられるであろうことが、率直に綴られている。
憲淳はただ承諾したわけではない。密教行者として相応しい立場を守ることなど、いくつかの条件を示した。第二通で法皇はその条件を受け入れ、さらに醍醐寺報恩院に住することまで約束する。第三通は「始終偏に当流紹隆の謀いを廻らすものなり」と誓って締めくくられた。ここで用いられた「当流紹隆」の語が、のちに巻全体の名称となった。嘆願から誓約へと移っていく三通を読み通したからこそ、憲淳は三宝院流の奥旨の相承を許したのだと考えられている。
どこで出会えるのか、周囲に何があるのか
この巻子を所蔵するのは醍醐寺である。貞観十六年(874)に聖宝が開いた古刹で、京都市伏見区の醍醐山一帯に広がる世界遺産でもある。寺宝は十万点を超え、本品のように傷みやすい古文書が公開されるのは、春と秋に霊宝館で開かれる特別展の折に限られる。実物を目にしたい場合は、ふだんは収蔵庫に収められているため、その時々の展示予定を出かける前に確かめておきたい。
たとえ手紙そのものに会えなくとも、見どころには事欠かない。下醍醐には天暦五年(951)建立の五重塔が立つ。京都に現存する最古の木造建築である。豊臣秀吉が和歌山から移築させた金堂(国宝)も近い。本坊にあたる三宝院の前には、秀吉自身の設計と伝わる庭園が広がる。醍醐寺へは、京都市営地下鉄東西線の醍醐駅から徒歩約十分。市街地から無理なく足を運べる距離にある。
Q&A
- 誰が誰に宛てて書いた手紙ですか。
- 後宇多天皇が、退位・出家したのちに自筆で記したものです。宛先は醍醐寺報恩院の阿闍梨・憲淳で、後宇多法皇はこの憲淳から三宝院流の相承を受けることを願っていました。
- 名称はどういう意味ですか。
- 「宸翰」は天皇自筆の文書であることを示します。残る部分は法流を受け継ぎ栄えさせる意で、第三通で後宇多法皇自身が当流の興隆を誓った際の語句に由来します。
- 三通あるのに、なぜ員数は一巻なのですか。
- 別々だった三通の手紙が、後年まとめて一巻の巻子に仕立て直されたためです。そのため公式の記録では員数を一巻とし、名称に三通と添えています。
- 実物を見ることはできますか。
- 醍醐寺が所蔵し、霊宝館の特別展で折にふれ公開されます。多くはおおむね春と秋です。ふだんは収蔵されているため、訪問前に展示予定を確認することをおすすめします。
- 天皇の願い事が、なぜそれほど重いのですか。
- 後宇多天皇は、日本史上で密教の阿闍梨として修行した二人の天皇のうちの一人です。手紙には個人としての厚い信仰と、真言の二大法流を再び一つにしようとする大きな構想の両方が記され、書としても歴史史料としても貴重とされます。
基本情報
| 名称 | 後宇多天皇宸翰当流紹隆教誡(三通) |
|---|---|
| ふりがな | ごうだてんのうしんかんとうりゅうしょうりゅうきょうかい |
| 指定区分 | 国宝(古文書) |
| 指定年月日 | 1952年(昭和27)3月29日 |
| 時代 | 鎌倉時代(1307〜1308年頃) |
| 作者 | 後宇多天皇(1267〜1324) |
| 員数 | 一巻(三通を巻子装に仕立て直し) |
| 所有者 | 醍醐寺 |
| 所在地 | 京都府京都市伏見区醍醐東大路町22 |
| アクセス | 京都市営地下鉄東西線・醍醐駅から徒歩約10分 |
| 公開 | 霊宝館の特別展で折にふれ公開(ふだんは収蔵) |
参考文献
- 文化庁 国指定文化財等データベース
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/815
- 醍醐寺 文化財アーカイブス 特集9 後宇多天皇と醍醐寺
- https://www.daigoji.or.jp/archives/special_article/sp_vol_9.html
- 醍醐寺 文化財アーカイブス 醍醐寺の国宝・重要文化財
- https://www.daigoji.or.jp/archives/cultural_assets/NA004/NA004.html
- 世界遺産 京都 醍醐寺 境内案内・拝観案内
- https://www.daigoji.or.jp/grounds/index.html
最終更新日: 2026.06.07