関白が遺した自筆日記、死の十一日前まで

寛治七年(一〇九三)の二月、朝廷は篤子内親王を堀河天皇の后に立てる儀式を執り行った。その式次第をとりしきり、克明に書き留めたのが藤原師通である。師通の手になる巻物として唯一現存するのが、この立后を記した一巻で、薄く引かれた界線の上に端正な楷書が連なっている。

この一巻が、藤原師通(一〇六二〜一〇九九)の日記『後二条殿記』の中核をなす。師通は堀河天皇の御代に関白・藤原氏長者の地位に昇った人物で、平安中期に権勢をきわめた藤原道長の曾孫にあたる。二十二歳で内大臣に任じられた永保三年(一〇八三)から、関白在任のまま三十八歳で没した康和元年(一〇九九)まで、十七年にわたって筆を執り続けた。記述は没する十一日前にまで及んでおり、当人にとっても死が突然であったことをうかがわせる。

三十巻のうち、自筆は一巻のみ

文化庁が指定するのは三十巻の巻物である。そのうち自筆本は一巻、寛治七年の篤子内親王立后を記したものだけにとどまる。残る二十九巻は古写本で、仁平元年(一一五一)に師通の孫・藤原頼長の家司らが書写したものとされる。各巻に付された奥書がそのことを記しており、書写の年代と経緯を細かくたどれるのはこのためである。

日記そのものはかつてもっと長大だった。若き大臣であった頃から最期の病まで十七年に及ぶが、うち五年分ほどが失われている。残された本文は『後二条関白記』『師通記』『師通公記』など、いずれも同じ人物を指す複数の名で呼ばれてきた。これらの呼称は後世の読み手が付けたもので、記主自身が立派な題号を掲げたわけではない。

日記を書き継ぐ営みは、この一族に脈々と受け継がれてきた。巻物を所蔵する陽明文庫には、道長その人の自筆日記『御堂関白記』も収められている。ユネスコの「世界の記憶」に登録された記録である。二つの日記を並べて読めば、およそ一世紀にわたる宮廷生活が一筋の血脈の上に浮かび上がる。

国宝に指定された理由

『後二条殿記』が国宝に指定されたのは昭和二十七年(一九五二)三月二十九日、古文書の部においてである。その価値は、一つの史料のなかで結びつくことの少ない二つの柱に支えられている。

第一は、記述そのものの権威である。平安の関白は宮廷儀礼を、見聞としてではなく作法の手本として書き留めた。誰がどこに立ち、何を着し、いかなる先例に従うのか。朝廷の儀式は過去の例を参照して繰り返されたため、関白の日記はそのまま次代の実務マニュアルとなった。師通の筆はその仕組みを微細に書きとめており、だからこそ孫の家が全巻を写し取る労を惜しまなかったのだろう。

第二は、宮廷の外へと及ぶ視野である。永長元年(一〇九六)の巻には、永長地震のあと駿河国の沿岸が受けた被害が記され、津波によって四百余戸が押し流されたとある。こうした記述は、私的な日記を自然災害や地方行政、貴族の日常を知るための一次史料へと変える。現存する自筆本と十二世紀の古写本は、その証言を歴史家が信頼しうる形で今日へと運んでいる。

注目したい見どころ

二種の巻物の対照には、立ち止まって眺めたくなるものがある。一巻だけの自筆本には、実時間で筆を動かした手の臨場感があり、わずかな筆勢の乱れにもそれが現れる。一方の古写本は、界線を引いて整然と写された清書で、名門の家が記録を偶然の遺存ではなく、意識的な記憶の継承として守ってきた姿を示す。

筆の主その人を知っておくのもよい。師通は学問を好み、ある記録には書を読んで倦むことがなかったと評される。官にあっては妥協を知らない人物でもあった。嘉保二年(一〇九五)には、所領の争いをめぐって延暦寺・日吉社の僧兵に武力を用いるよう命じ、僧側に死者が出て寺は激しく抗議した。数年後に病で没したとき、その早世を呪詛のためと見る向きが宮廷にあったという。自らの手で、悪化する健康のなか書き継がれたこの日記は、そうした伝説に人間的な重みを添える。

どう見るか

陽明文庫は博物館ではない。旧公家の最高位、五摂家の筆頭である近衞家の御蔵を受け継いだ機関で、千年以上にわたる約十万件の史料を保管している。財団は昭和十三年(一九三八)、当時の首相で近衞家当主であった近衞文麿により、京都西郊の宇多野の閑静な地に設立された。個人の見学は受け付けておらず、研究者や、限られた時期の予約団体に閲覧が限られている。

多くの来訪者にとって現実的な手立ては特別展である。この日記をはじめ近衞家の名品は、折にふれて各地の主要館へ出陳される。九州国立博物館での近衞家の国宝展や、京都文化博物館で長く続く陽明文庫の名宝シリーズなどがその例である。京都・奈良・九州の国立博物館の会期を確かめておくのが、巻物を実見する最も確実な道といえる。

足を運ぶ土地そのものにも見どころが多い。陽明文庫は京都西部の社寺が集まる一帯にあり、ともに世界遺産の仁和寺と龍安寺はすぐ近く、龍安寺の石庭や金閣寺も無理なく回れる距離にある。こうした場所を一日かけて訪ねれば、一巻の史料だけでは届かない、日記が描く王朝の世界の手ざわりがいっそう深まる。

Q&A

Q『後二条殿記』はどこかで見られますか。
A常時の公開はありません。巻物は陽明文庫に収蔵されており、同文庫は個人の見学を受け付けていません。各地の主要館の特別展に折々出陳されるため、京都・奈良・九州の国立博物館の会期を確認するのがよい方法です。
Q藤原師通とはどのような人物ですか。
A十一世紀後半の関白・藤原氏長者で、藤原道長の曾孫にあたります。康和元年(一〇九九)に三十八歳で在職のまま没しました。二条に住んだことから後二条殿と呼ばれます。
Q三十巻あるのに、なぜ自筆は一巻だけなのですか。
A師通自身の手で残るのは寛治七年(一〇九三)の立后記一巻のみです。残る二十九巻は、奥書が示すとおり、孫・藤原頼長の家司らが仁平元年(一一五一)に写した古写本です。三十巻が一括して指定されています。
Q宮廷の日記がなぜ歴史研究で重視されるのですか。
A平安貴族は後世が正しく再現できるよう儀式を克明に記したため、その日記は精度が高いのです。師通の日記は宮廷外の出来事にも触れ、永長元年(一〇九六)の永長地震による駿河の津波被害も記しています。
Q陽明文庫とは何で、どこにありますか。
A五摂家の筆頭・近衞家の家伝の史料を受け継ぐ文庫で、約十万件の史料を所蔵します。京都市右京区宇多野の仁和寺に近い地にあり、昭和十三年(一九三八)に近衞文麿が設立しました。

基本データ

名称後二条殿記〈自筆本一巻/古写本二十九巻〉
別称後二条関白記、師通記、師通公記
記主藤原師通(一〇六二〜一〇九九)
区分国宝(古文書)
指定年月日昭和二十七年(一九五二)三月二十九日
員数三十巻(自筆本一巻、仁平元年書写の古写本二十九巻)
時代平安時代(永保三年〜康和元年の記事)
所有者公益財団法人陽明文庫
所在地京都市右京区宇多野
公開状況個人見学は不可。特別展で折々出陳

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/817
公益財団法人 陽明文庫(公式サイト)
https://ymbk.sakura.ne.jp/
後二条師通記 コトバンク(国史大辞典・ブリタニカ)
https://kotobank.jp/word/後二条師通記-65678
レファレンス協同データベース(国立国会図書館)
https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000101268

最終更新日: 2026.06.06