名を巡って論争が続く一幅

束帯姿の貴人が、二枚重ねの畳の上に背筋を伸ばして座る。黒い袍は鋭く直線的な襞をつくり、左の腰には太刀を佩き、両手は笏を胸の前に立てて持つ。顔はわずかに右へ向き、視線は動かない。これが国宝「絹本著色伝藤原光能像」、京都市右京区の高雄山中腹にある神護寺が長く所蔵してきた三幅の肖像画の一つである。

この三幅は「神護寺三像」と総称される。いずれも絹本著色の掛幅で、縦はおよそ143センチメートル。本図はそのうち最も幅が狭く、横は約111.6センチメートルである。三幅とも複数の絵絹を継ぎ合わせるのではなく、一枚の幅広い絹に描かれている点が共通する。本図の像主は、通説では平安末期の公卿で後白河院の近臣を務めた藤原光能とされてきた。

文化庁の国指定文化財等データベースは、本図を鎌倉時代の作とし、作者を当時の似絵の名手とされる藤原隆信に比定している。ただし、この二点はいずれも現在の研究で大きく揺らいでいる。所有者は神護寺だが、本図は東京国立博物館に寄託されている。

国宝指定と、一世紀におよぶ論争

三像は明治30年(1897年)に古社寺保存法のもとで保護され、戦後の文化財保護法施行を受けて昭和26年(1951年)6月9日に国宝へ指定し直された。その評価そのものに疑いはない。日本の中世における俗人肖像画として最高水準の作例に数えられ、眉や睫毛、髪の生え際は細い墨線を丹念に重ねて描かれ、面貌の肉付けには中国・南宋の肖像技法を取り込んだ筆致がうかがえる。

問題は、三幅が誰を描き、いつ制作されたかという点にある。画面には像主を記す賛がいっさい書かれていない。通説の人物比定は、おもに後世の寺記『神護寺略記』の記述に拠っている。そこには、かつて神護寺に後白河院・源頼朝・平重盛・藤原光能らの肖像が安置されていたとある。

1995年、美術史家の米倉迪夫が、従来の理解を覆す新説を発表した。三幅の像主は通説がいう12世紀の人物ではなく、次の世紀の足利一族だというのである。頼朝像とされてきた一幅は足利直義、重盛像は将軍足利尊氏、そして光能像とされる本図は尊氏の子で後継者の足利義詮にあたる、という比定であった。のちに歴史学者の黒田日出男が膨大な史料でこの見方を補強し、制作時期を南北朝の動乱期、14世紀中葉に置いた。

制作年代を下げる根拠は物質面にもある。本図のような幅の一枚絹は鎌倉後期まで現れず、それ以前の大画面肖像は複数の絹を継いで作られていた。冠の形式、二枚重ねの畳、袍の文様も、12世紀よりむしろ14世紀の作例と一致する。現在、歴史学を中心に新説を受け入れる研究者は多い一方、様式の観点からなお早い年代を主張する美術史家も少なくない。各幅の正式名称が「伝」の一字で始まるのは、その名がいまだ確定していないことへの、制度上の控えめな注記である。

この一幅で注目したい点

三幅のうち、本図は研究者がしばしば別格に扱う一点である。制作は他の二幅よりやや遅れると考えられ、その手法は一段と硬く形式的だと評価される。輪郭線は乾いて、ほかの二幅に丸みを与えている柔らかな暈しは控えめになり、人物像はより様式化して見える。複数の研究者は、本図を古い肖像画の伝統が室町風へと固まり始める転換点に位置づけており、その意味で劣作というより二つの時代をつなぐ蝶番のような作と捉えている。

太刀に目を留めたい。本図では柄の部分が剥落しているが、対をなす二幅では柄が残り、古い形式の刀身であることが読み取れる。袍には轡唐草文があしらわれ、これは重盛像とされる一幅と同じ意匠で、人物の向きも重盛像と同じく左斜めである。新説に立てば、この視覚的な対応は偶然ではなく、父の系譜とその後継者を結びつける配置ということになる。

本図の名がいかに不安定であり続けたかを示す挿話がもう一つある。江戸時代には、同じ一幅が光能像としてではなく、別の公卿である桜町中納言成範の御影として扱われていた。黒い袍の人物は幾度も名を変えており、その正体を巡る議論はなお決着していない。

どこで観られるか、そして所有する寺のこと

多くの拝観者がつまずく実務的な点がある。三幅は一か所にまとまって保管されているわけではない。頼朝像・重盛像とされる二幅は京都国立博物館に寄託され、毎年春、5月1日から5日に催される神護寺の寺宝の特別公開(虫払い行事)に合わせて寺へ里帰りする。これに対し、本図すなわち光能像とされる一幅は東京国立博物館に寄託されており、同館の日本美術の展示で折にふれて公開される。この一幅の前に立ちたいなら、上野の東京国立博物館の展示時期を待つのがよい。

神護寺そのものも、登る価値のある寺である。高雄山の樹林に覆われた斜面に建ち、起源は8世紀末の和気清麻呂に遡るとされ、9世紀初めには空海が住した。寺宝には一木造の国宝・薬師如来立像や、日本三名鐘の一つに数えられる古い梵鐘がある。境内奥の地蔵院からは、錦雲渓の谷へ向けて素焼きの小皿を投げる「かわらけ投げ」ができ、この習わしは当地が発祥と伝わる。晩秋、谷を紅葉が染める頃が見ごろである。拝観はJRバス「高雄」下車、石段を徒歩約20分。拝観時間は9時から16時、拝観料は1,000円である。

Q&A

Qこの肖像画は京都の神護寺で観られますか。
A通常は観られません。本図は東京・上野の東京国立博物館に寄託されており、同館の日本美術の展示で折にふれて公開されます。一方、対をなす二幅は5月1日から5日の神護寺の寺宝公開に合わせて寺へ里帰りします。
Q描かれているのは本当に藤原光能ですか。
A確定していません。正式名称が「伝」で始まるのはそのためです。1995年以降、像主を12世紀の公卿ではなく室町幕府2代将軍の足利義詮とみる説が多くの研究者に支持されており、議論はなお続いています。
Q作者は誰ですか。
A通説は藤原隆信に比定しますが、年代論争の双方がこれを否定しています。隆信は1205年に没しており、本図はそれより後の作とみられるためです。実際の作者は不明です。
Qこの一幅は他の二幅とどう違いますか。
A制作はやや遅れるとされ、線や暈しが乾いて形式的です。太刀の柄も剥落しています。研究者は本図を、古典的な肖像画が室町風へ移り変わる転換点に位置づけています。
Q神護寺を訪ねるなら、ほかに何が見どころですか。
A国宝の薬師如来立像や名高い古鐘があり、地蔵院では錦雲渓へのかわらけ投げが楽しめます。谷が紅葉に染まる晩秋が、訪問にもっとも印象深い季節です。

基本データ

名称絹本著色伝藤原光能像(けんぽんちゃくしょくでんふじわらみつよしぞう)
指定区分国宝(絵画)
指定年月日1951年(昭和26年)6月9日。1897年に旧国宝として保護
時代文化庁は鎌倉時代とする。新説では14世紀中葉の南北朝時代
形状・品質掛幅装、絹本著色、一枚絹に描く
寸法・員数縦約143センチメートル、横約111.6センチメートル、1幅
伝来上の作者伝藤原隆信(現在は疑問視されている)
所有者神護寺(京都府)
保管東京国立博物館に寄託、随時公開

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/00011002
神護寺三像(ウィキペディア日本語版)
https://ja.wikipedia.org/wiki/神護寺三像
神護寺三像(キヤノン 綴プロジェクト)
https://global.canon/ja/tsuzuri/works/jingojisanzo/
神護寺(京都市観光情報)
https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=7&tourism_id=377

最終更新日: 2026.06.07