戦国の朝廷を生きた二帝の歌、一巻の料紙に
京都市左京区一乗寺、比叡山の西麓に建つ門跡寺院・曼殊院に、後土御門・後柏原という二代の天皇が詠んだ和歌を収めた巻子本が伝わる。国指定文化財等データベースに「後柏原天皇宸翰後土御門後柏原両天皇御詠草」と登録された一巻で、後柏原天皇(一四六四〜一五二六)の宸筆により、父帝後土御門天皇(在位一四六四〜一五〇〇)と自身の詠草が書写されている。種別は書跡・典籍にあたる。
二帝が在位したのは応仁・文明の乱を経た戦国の世である。朝廷の財政は逼迫し、後土御門天皇の崩御に際しては大葬を四十三日ものあいだ営むことができず、子の後柏原天皇に至っては、践祚から即位の礼までおよそ二十一年を要した。そうした困窮の時代に、現に位にあった天皇の手になる私的な詠草の巻が今日まで残されたこと自体が、この作品の重みを支えている。
巻子は右から左へ繰り広げながら読み進める。縦の筆勢にしたがって和歌が連なり、三十一文字の調べが一首ずつ料紙の上に置かれていく。一幅の絵を眺めるというより、書き手の手控えを静かにめくっていくのに近い読み方になる。
宸翰の筆と、添削の合点
天皇自筆の書は宸翰と呼ばれ、記された内容を超えた価値をもって扱われてきた。その筆跡は天皇その人の直接の痕跡とみなされ、ことに中世の宸翰で現存するものは多くない。後柏原天皇は能書としても名高く、その書風は青蓮院流(尊円流)の流れを汲み、のちに後柏原院流と称された。筆線の肥痩の変化を巧みに用いる点が、その書の見どころとして知られる。
収められた和歌も、当時の宮廷に根づいた実践のなかから生まれている。和歌を詠むことは個人の趣味にとどまらず、師から学ぶべき教養であり技芸であった。後柏原天皇は父後土御門天皇に、また当代屈指の文化人であった三条西実隆(一四五五〜一五三七)に和歌を学び、家集『柏玉集』を残している。詠草はしばしば、批評を仰ぐために清書して提出されるものであった。
その批評の跡が、この巻には記されている。データベースのト書には「飛鳥井栄雅点」とある。栄雅は飛鳥井雅親(一四一七〜一四九〇)の法名で、和歌と蹴鞠を家業として相承した飛鳥井家の第八代当主である。将軍足利義政・義尚にも歌道を伝授し、文明・長享期の歌壇の中心にあった人物で、書道飛鳥井流(栄雅流)の祖でもある。師が弟子の歌を見るとき、すぐれた一首の傍らには「点」あるいは「合点」と呼ばれる印を打ち、ときに細字で添削の語を書き添えた。この巻に残る栄雅の点は、二人の天皇が筆をとった事実だけでなく、その歌がいかに評され、磨かれていったかをも今に留めている。
本品は大正五年(一九一六)五月二十四日に重要文化財に指定された。一首の完成形ではなく、推敲と批評の過程そのものを伝える資料として、書道史・国文学の双方から繰り返し参照されてきた作品である。
歌に向かう二帝のすがた
天皇という肩書きをいったん措いて眺めれば、この巻には人間らしい光景が浮かぶ。歌に向き合う父と子、そして料紙の上に身をかがめて出来栄えを点する歌の師。詠まれた題は宮廷の歌の慣わしに沿い、四季や自然を主題とするものが多い。後柏原天皇の現存する詠草には「瀧水」を題とした歌が見え、落ちくだる水の音と、松や岩根の静けさとを対照させている。
後柏原天皇は同じ筆を信仰にも向けた。大永五年(一五二五)に疱瘡が流行した際には、自ら『般若心経』を書写して延暦寺と仁和寺に納め、苦しむ人びとの安穏を祈っている。また明応十年(一五〇一)には正月の月次歌会を独立した儀式として執り行い、これが今日まで続く宮中の歌会始の直接の起源とされる。こうした生涯に照らせば、この詠草もまた、ほとんどあらゆるものが揺らいだ時代に宮廷文化の灯を絶やすまいとした営みの、ひとつの筋にあたる。
訪れる人に断っておきたい点がある。本品は数百年を経た紙の巻子であり、常時公開されているわけではない。曼殊院が誇る国宝の黄不動や曼殊院本古今和歌集も、保存のため京都国立博物館に寄託されており、この種の繊細な書跡が人目に触れるのは特別展などの限られた機会に限られる。拝観の値打ちは、こうした品々を長く護ってきた寺そのものにある。
曼殊院と周辺の見どころ
曼殊院は左京区一乗寺、比叡山西麓の修学院離宮にほど近い地にある。青蓮院・三千院・妙法院・毘沙門堂と並ぶ天台五門跡のひとつで、勅使門わきの築地塀に引かれた五本の白い定規筋が、皇族・貴族が門主を務める門跡寺院の格式を示している。勅使門は閉ざされ、参拝者は北側の通用門から入る。
二帝の歌がこの寺に伝わった背景には、皇室との深い結びつきがある。明応四年(一四九五)ごろ、伏見宮貞常親王の子で後土御門天皇の猶子であった慈運法親王が門主として入寺して以降、曼殊院は代々皇族を門主に迎え、宮門跡としての地位を確立した。現在の堂宇は明暦二年(一六五六)、桂離宮を営んだ八条宮智仁親王の子・良尚法親王が当地へ移して整えたもので、桂離宮と意匠を共有することから「小さな桂離宮」とも呼ばれる。
重要文化財の大書院・小書院は、ゆっくりと足をとめたい場所である。瓢箪や扇をかたどった杉戸の引手、月型卍崩しの欄間、約十種の寄木でできた曼殊院棚、縁先の梟の手水鉢など、細部にまで趣向が凝らされている。書院の前には白砂を敷いた枯山水の庭が広がり、樹齢約四百年と伝わる鶴島の五葉松が枝を低く伸ばす。秋には庭を囲む楓が色づき、洛北でも比較的静かに紅葉を味わえる名所として知られ、十一月には夜間のライトアップが行われる年もある。写真撮影は、縁側から庭園を写す範囲に限られている。
交通は、市バス「一乗寺清水町」から東へ徒歩約二十分、または叡山電鉄「一乗寺」駅から徒歩でもう少し、いずれもゆるやかな上り坂となる。拝観時間や拝観料は季節や特別公開によって変わるため、訪問前に寺の公式サイトで最新の情報を確かめておきたい。
Q&A
- 拝観すればこの巻子を見られますか。
- 通常は見られません。繊細な紙の書跡のため、常設の拝観順路には含まれていません。公開されるのは特別展など限られた機会に限られ、寺ではなく博物館で出陳されることもあります。曼殊院拝観の楽しみは、庭園、重要文化財の書院、そして門跡寺院ならではの趣にあります。
- 「宸翰」とはどういう意味ですか。
- 天皇が自ら筆をとって書いた書を指します。天皇その人の直接の筆跡とみなされ、中世の遺品が少ないこともあって、記された内容以上の価値をもって尊重されてきました。
- 飛鳥井栄雅とは誰で、「点」とは何ですか。
- 栄雅は飛鳥井雅親の法名で、天皇や将軍に和歌・蹴鞠を伝授した飛鳥井家の当主です。歌の師は弟子の和歌を見て、すぐれた一首の傍らに合点(点)を打ち、ときに細字で添削を加えました。この巻に残る点は、その評価の跡を記しています。
- なぜ即位の礼に二十年余りもかかったのですか。
- 応仁・文明の乱と中央権力の衰退により、朝廷の収入が枯渇したためです。荘園からの収納は滞り、献金者も離れていきました。後柏原天皇が即位の礼を挙げたのは践祚から二十年以上を経た大永元年(一五二一)で、将軍や本願寺の助力によってようやく実現しました。
- 周辺で他に見るべき場所はありますか。
- 一乗寺・修学院界隈には、修学院離宮、刈り込みの庭で知られる詩仙堂、紅葉の美しい円光寺などがあります。一帯は、表通りに名高いラーメン店が集まる土地としても知られています。
基本情報
| 名称 | 後柏原天皇宸翰後土御門後柏原両天皇御詠草 |
|---|---|
| 指定区分 | 重要文化財(書跡・典籍) 大正五年(一九一六)五月二十四日指定 指定番号〇〇八九六 |
| 員数 | 一巻 |
| 時代 | 室町時代 |
| 作者 | 後土御門天皇・後柏原天皇(飛鳥井栄雅点) |
| 所有者 | 曼殊院 |
| 所在地 | 京都市左京区一乗寺竹ノ内町四二 |
| 公開状況 | 常時公開はされていない。境内・庭園は拝観可能 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/7866
- 文化遺産オンライン(国立文化財機構)
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/157391
- 後柏原天皇 — コトバンク
- https://kotobank.jp/word/%E5%BE%8C%E6%9F%8F%E5%8E%9F%E5%A4%A9%E7%9A%87-63550
- 飛鳥井雅親 — コトバンク
- https://kotobank.jp/word/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E4%BA%95%E9%9B%85%E8%A6%AA-14319
- 曼殊院門跡 公式サイト
- https://manshuinmonzeki.jp/visit.html
最終更新日: 2026.06.17