禅僧の筆が写しとった唐の名文

京都・東福寺に四幅の掛軸が残されている。書いたのは鎌倉時代後期から南北朝期にかけて活躍した臨済宗の僧、虎関師錬(こかん しれん、1278〜1346)。ただし文章そのものは虎関の創作ではない。約五百年前の唐で書かれた散文「進学解」を、彼が自らの手で書写したものである。正式な指定名称は「虎関師錬墨蹟〈進学解残本〉」。末尾の「残本」が示すとおり、本来あったうちの一部分が伝わっているにすぎない。完本の姿は今となっては知るすべがなく、手元に残るのはこの四幅である。

「墨蹟」とは、禅僧の筆跡を指す。茶席にかけられ、あるいは法の継承を証す品として大切にされてきた。その多くは法語や印可、偈頌といった宗教的な内容を持つ。中国の世俗の散文を書き写した墨蹟というのはやや珍しく、本作の興味深さもそこにある。

虎関師錬という人

虎関は弘安元年(1278年)に京都で生まれた。八歳で聖一派の東山湛照に参じて禅の道に入り、弘安十年(1287年)に比叡山で受戒している。師を失った後は南禅寺の規庵祖円、円覚寺や建長寺の禅僧のもとで修行を重ねた。学びは禅一筋にとどまらない。菅原在輔から『文選』を、六条有房から『易』を学び、仁和寺・醍醐寺では真言密教を修めている。和漢の学に広く通じた点が、この僧の際立った特徴である。

その生涯には一つの転機があった。徳治年間、鎌倉に下って建長寺の一山一寧を訪ねた際、本朝の高僧の事績を問われて十分に答えられなかった。この経験が著述の動機となり、元亨二年(1322年)、日本で初めての本格的な仏教通史『元亨釈書』全三十巻を完成させた。やがて東福寺・南禅寺の住持を歴任し、東福寺に海蔵院を開く。興国三年(康永元年、1342年)には後村上天皇から国師号を賜り、諡号は本覚国師。漢詩文に秀で、五山文学の先駆者と位置づけられる。詩文集『済北集』、日本初の韻書『聚分韻略』など著作も多い。

虎関と東福寺の縁は形式的なものではない。彼は同寺の第十五世住持を務め、晩年は塔頭の海蔵院に退いて貞和二年(1346年)に六十九歳で世を去った。その筆になる墨蹟が東福寺に伝わるのは、この寺で過ごした歳月を考えれば自然な帰結といえる。

書き写された「進学解」

「進学解」は、唐中期の文人・韓愈(かんゆ、768〜824)が元和八年(813年)ごろに著した散文である。韓愈は唐代の古文復興運動の中心人物で、唐宋八大家の筆頭に数えられる。当時、国子博士の任にありながら昇進から取り残されていた境遇のなかで、この一文を書いた。

構成は三段からなる。まず国子先生が学生に学問への精励を説き、「業は勤むるに精しく、嬉しむに荒む。行は思うに成り、随うに毀る」と語り出す。ところが学生は、先生ほどの学識と徳行をもってしてもなお左遷と窮乏を免れていないではないかと反論する。先生はこれに自嘲をもって応じる。機知に富んだ文章の底には、才能を見いだそうとしない世への鋭い不満が流れている。

禅僧がこの文章をなぜ書写したのか。世俗の学にあって虎関自身が、この一文の描く博学の士そのものであった。才が用いられないという主題は、宗教・宮廷・文事の世界を行き来した学僧にとって、ひとごとではなかったろう。漢籍を読み、書き写し、論じることが僧院文化の一部であった五山の知的風土が、この選択の背景にある。

指定が評価したもの

本作は昭和十七年(1942年)六月二十六日に重要文化財に指定された。指定番号は八〇〇。重要文化財は国宝の一段下に位置する国の指定区分で、ともに国が指定し、歴史上・芸術上の価値が高い品を対象とする。書跡・典籍はそのなかの一部門をなす。

評価の根拠はいくつか重なっている。鎌倉時代に遡る、中世を代表する人物の確かな筆跡であること。宗教的な書ではなく中国の世俗文学を書写した、彼の墨蹟としては珍しい一例であること。そして五山の禅僧が大陸の文学をいかに深く吸収していたかを、形あるものとして示している点である。なお文化庁の国指定文化財等データベースの記載は簡潔で、四幅という員数・時代・所有者を挙げるにとどまり、寸法や書写年、品質形状については記していない。後世の一般的な解説がこれらの細部に触れる場合があるが、国の記録が裏づけていない以上、慎重に扱うべきである。

東福寺とその周辺

この墨蹟を所蔵するのは、京都を代表する禅刹の一つである。東福寺は嘉禎二年(1236年)、摂政・九條道家が奈良の二大寺に並ぶ寺院を志して創建を発願した。寺名は東大寺と興福寺から一字ずつを取ったものである。造営には十九年を要し、建長七年(1255年)に完成した。開山は寛元元年(1243年)に宋から帰国した円爾、諡号は聖一国師。京都五山の一つに数えられる名刹である。

四幅の墨蹟は常時公開されているわけではない。多くの寺宝と同じく収蔵庫に納められ、ごく限られた機会にのみ展観される。訪れる人にはまず寺そのものを勧めたい。国宝の三門は現存最古の禅宗様式の三門であり、秋には通天橋から洗玉澗の渓谷とおよそ二千本の楓を望む。十一月下旬に参拝者が集まるのはこのためである。方丈の周囲には重森三玲が昭和十四年(1939年)に手がけた近代的な枯山水がめぐり、室町期の浴室・東司・禅堂もそれぞれ重要文化財として残る。同時代の書を実際に目にしたいなら、北にほど近い京都国立博物館が中世の禅僧の墨蹟を定期的に展示しており、確実な行き先となる。

交通の便もよい。JR奈良線と京阪本線が乗り入れる東福寺駅から徒歩約十分、京都駅からは一駅の距離である。境内は午前九時ごろから開くが、紅葉の時季は拝観時間や料金が変わり、通天橋の拝観路には別途料金がかかる。

Q&A

Q東福寺を訪ねれば、この墨蹟を見られますか。
A通常は見られません。四幅は収蔵庫に納められた寺宝で、一般の拝観路には含まれていません。特別展などで公開されることがあります。中世の書を確実に鑑賞したい場合は、近くの京都国立博物館が適しています。
Q文章は虎関師錬自身が書いたものですか。
A文章は唐の韓愈による「進学解」で、筆跡が虎関のものです。中国散文の名作を書写したもので、禅僧が大陸の文学に深く親しんでいたことを示す好例です。
Q名称にある「残本」とはどういう意味ですか。
A伝わらずに失われた部分があり、一部分のみが残っていることを指します。四幅は、かつてより長かった書写の一部を留めています。
Q重要文化財と国宝はどう違うのですか。
Aいずれも国による指定です。国宝は最も価値が高いものに限られる上位の区分で、重要文化財はそのすぐ下に位置する広い区分です。本作は重要文化財にあたります。
Q東福寺で他に見ておきたいものは。
A現存最古の禅宗様三門である国宝の三門、楓の渓谷に架かり秋に映える通天橋、そして昭和十四年に重森三玲が作庭した方丈周囲の枯山水が挙げられます。

基本データ

名称虎関師錬墨蹟〈進学解残本〉(こかんしれんぼくせき)
指定区分重要文化財(指定番号八〇〇)/昭和十七年(1942年)六月二十六日指定
部門・種別書跡・典籍
時代鎌倉時代
筆者虎関師錬(1278〜1346)
員数四幅
所有者東福寺(京都府)
公開状況常時公開はなし。寺の収蔵庫に保管
最寄駅東福寺駅(JR奈良線・京阪本線)から徒歩約十分

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース(管理対象7819)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/7819
文化遺産オンライン(NII)「虎関師錬墨蹟〈進学解残本〉」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/132954
コトバンク「虎関師錬」
https://kotobank.jp/word/%E8%99%8E%E9%96%A2%E5%B8%AB%E9%8C%AC-63614
そうだ 京都、行こう。「東福寺」
https://souda-kyoto.jp/guide/spot/tofukuji.html

最終更新日: 2026.06.17