退位した天皇が記した一通の礼状

寛元4年(1246年)の四月十五日、位を退いたばかりの一人の人物が筆をとり、京都・仁和寺の高僧へ短い手紙を送った。前年に営まれた修法への礼をしたためたものである。現在は一幅の掛軸に仕立てられているこの紙片こそ、後嵯峨天皇(1220〜1272)の真筆と確実に判断できる、ただ一つの書である。

正式な名称は「後嵯峨天皇宸翰御消息(四月十五日)」という。「宸翰」とは天皇自身が筆を執った書を指し、「御消息」は手紙の意である。種別としては美術品ではなく古文書に区分される。鑑賞のために作られた作品ではなく、誰の手が筆を握ったかにこそ価値がある一点といえる。

書いた人物、後嵯峨天皇

後嵯峨天皇の即位は、いわば不意の出来事だった。仁治3年(1242年)、十二歳の四条天皇が急逝すると、後継をめぐって朝廷と鎌倉幕府の思惑が激しく交錯した。摂政九条道家は順徳上皇の皇子を推したが、承久の乱に連なる血筋を警戒した幕府はこれを拒む。白羽の矢が立ったのは、後鳥羽天皇の孫にあたり、権力の中枢から離れて育ち、僧籍に入る寸前であった邦仁王であった。こうして第八十八代の天皇が誕生する。

在位はわずか四年。寛元4年(1246年)正月、幼い皇子(後深草天皇)に譲位し、その後二十数年にわたって治天の君として院政を敷いた。仁和寺に残るこの書状の日付は同じ1246年の四月十五日であり、玉座にあった時期と、長い院政の時代との、ちょうど境目に位置する。

後嵯峨天皇の名は、下した決断よりも、下さなかった決断によって記憶されている。後深草・亀山いずれの系統に正嫡の地位を与えるかを最後まで定めず、その判断を幕府に委ねたまま世を去った。二人の皇子に発する二つの皇統はやがて対立する陣営へと固まり、十四世紀の南北朝の分裂を招く一因となる。静かな礼状は、中世史の蝶番に名を残す人物の手から生まれた。

一通の手紙が国宝となった理由

この掛軸は、昭和27年(1952年)11月22日、戦後の文化財保護法のもとで国宝に指定された最初期の一群に含まれる。指定の理由は、書としての美しさ以上に、その稀少さにある。朝廷の文書の多くは側近が代筆したため、天皇自身の筆跡は思いのほか残っていない。後嵯峨天皇に帰されてきた数々の書のうち、真筆と確証をもって認められるのはこの一点のみである。これを除けば、確実な筆跡はどこにも残されていない。

そのため本品は、書道資料であると同時に第一級の歴史史料でもある。宛先は道深法親王、仁和寺の門跡をつとめた皇族出身の僧であり、皇室と血縁で結ばれた人物であった。退位した天皇自身の言葉によって、院と京都の真言の名刹とを結ぶ私的・宗教的な関係が書きとめられているのである。鎌倉時代の研究者にとって、後世の写しでは代えがたい重みを持つ文書だといってよい。

書の専門家は、鎌倉期の天皇の筆跡を、その個性ゆえに高く評価する。宸翰を集めた展覧会では、本品が後鳥羽天皇・亀山天皇・後醍醐天皇らの自筆と並べて展示されることも多い。そうした顔ぶれの中に置かれたとき、この書状は私的な覚書というより、十三世紀の君主が実際にどのような字を記したかをのぞき見る、数少ない窓となる。

どこで見られるか、周囲には何があるか

掛軸は脆弱であり、常時公開されてはいない。保存のため京都国立博物館に寄託されており、人目に触れるのは、同館の特別展や、仁和寺霊宝館の季節ごとの公開のおりなど、限られた機会に限られる。実物を目にしたい場合は、訪れる前に両館の最新の展示予定を確かめておくとよい。多くの日は、どちらの建物にも展示されていないからである。

もっとも、仁和寺そのものが訪れる価値を十分に備えている。仁和4年(888年)に創建され、長く皇族出身の門跡が住持をつとめてきたこの寺は、京都市右京区の御室にあり、古都京都の文化財として世界遺産に登録されている。壮大な二王門、五重塔、そして晩春に咲く背の低い御室桜は、一年を通じて参拝者を集める。霊宝館は春と秋の限られた期間に開かれ、その折こそ、本品をはじめとする寺宝の文書や絵画に出会う好機となる。

仁和寺へのアクセスは難しくない。京福電鉄北野線の御室仁和寺駅から門前まで歩いてすぐで、近くの龍安寺や金閣寺と合わせれば、京都西部の文化財を巡る一日が組み立てられる。

Q&A

Q仁和寺で実物を見ることはできますか。
A通常の日には見られません。掛軸は京都国立博物館に寄託されており、公開されるのは同館の特別展や、仁和寺霊宝館の季節公開など限られた機会のみです。本品を目当てに訪れる際は、両館の最新の展示予定をご確認ください。
Q手紙には何が書かれているのですか。
A礼状です。後嵯峨天皇が、前年に自らのために営まれた修法への謝意を、僧の道深に向けて記したものです。儀礼的というより私的な調子で、その点が歴史研究上の価値を高めています。
Qただの手紙がなぜ国宝なのですか。
A後嵯峨天皇の筆跡と確実に認められる唯一の書だからです。宸翰そのものが希少なうえ、本品はこの天皇に関しては他に例がなく、歴史史料であると同時に、確証ある唯一の筆跡資料として位置づけられます。
Q後嵯峨天皇とはどのような人物ですか。
A第八十八代の天皇で、在位は1242年から1246年、その後二十年余りにわたって院政を敷きました。明確な皇位継承の道筋を定めなかったことが、後の皇統分裂の一因となりました。
Q手紙が展示されていなくても仁和寺を訪れる価値はありますか。
Aあります。仁和寺は仁和4年(888年)創建の世界遺産で、二王門・五重塔・晩春に咲く御室桜で知られます。近隣の龍安寺や金閣寺と組み合わせれば、京都西部を巡る一日になります。

基本情報

名称後嵯峨天皇宸翰御消息(四月十五日)
ふりがなごさがてんのうしんかんごしょうそく
指定区分国宝(古文書)
国宝指定年月日昭和27年(1952年)11月22日
員数1幅
時代・年代鎌倉時代・1246年
作者後嵯峨天皇(1220〜1272)
所有者仁和寺
所在地京都府(京都市右京区御室)
保管京都国立博物館に寄託

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/822
仁和寺 仁和寺の文化財
https://ninnaji.jp/about_culturalassets/
京都国立博物館「宸翰─天皇の書─」
https://www.kyohaku.go.jp/jp/theme/floor1_3/f1_3_koremade/syoseki_20150512.html

最終更新日: 2026.06.06