竺仙梵僊墨蹟〈古林和尚碑文〉――長福寺に伝わる日中禅林交流の証

京都市右京区梅津、住宅街に静かに佇む長福寺。その寺宝のひとつに、中世における日中禅林交流の濃密さを今日に伝える一幅の墨蹟があります。元から日本に渡来した臨済宗の高僧・竺仙梵僊が、自らの師である中国の禅匠・古林清茂を追慕して記した碑文――その肉筆を一幅に仕立てた「竺仙梵僊墨蹟〈古林和尚碑文〉」です。昭和35年(1960年)に重要文化財に指定されたこの作品は、海を越えて伝えられた一つの法系と、師弟の絆を静かに語り続けています。

この作品について

本作は、禅僧の真跡を意味する「墨蹟(ぼくせき)」と呼ばれる書の一種で、形状は表装された一幅の掛軸です。書かれているのは、石に刻むことを念頭に書かれた追悼の文章である「碑文」――その本文を、後の世に伝えるべく一幅に仕立てたものです。筆者は竺仙梵僊(じくせん ぼんせん、1292~1348年)、追慕の対象となっているのは、中国・元代を代表する禅匠の一人である古林清茂(くりん せいむ、1262~1329年)です。

制作年は1346年。古林清茂が示寂してから17年後、南北朝の動乱期に、日本にある寺院の中で竺仙が亡き師を偲んで筆を執った一幅です。海を隔てて、なお続く師弟の情愛が、墨の濃淡のうちに息づいています。

竺仙梵僊とは

竺仙梵僊は、日本臨済禅の黎明期に決定的な影響を与えた中国出身の高僧です。中国・明州(現在の浙江省寧波)に生まれ、別流・瑞雲・中峰明本ら元代を代表する禅匠のもとを歴参したのち、金陵(南京)保寧寺の古林清茂の法を嗣ぎました。元徳元年(1329年)、38歳のとき、豊後の守護大名・大友貞宗の招請に応じ、明極楚俊に従って来日。

来日後は鎌倉の浄妙寺・浄智寺、三浦の無量寺、京都の南禅寺・真如寺、そして鎌倉の建長寺と、当時の日本禅林の最高位の寺院を歴住しました。花園上皇や足利尊氏・直義の帰依を受け、その門下からは大年法延・椿庭海寿ら多くの傑僧が輩出し、後に「竺仙派」と呼ばれる一派を形成します。さらに、五山文学の発展の基礎を築いた人物としても知られ、宋・元の文化を日本に移植した功績は計り知れません。貞和4年(1348年)、57歳で示寂しました。

書風は北宋の書家・黄庭堅の系譜を受け、堂々として勁直、伸びやかな横画と重厚な縦画が織りなす独特のリズムを特徴とします。現存する墨蹟の多くが「威風堂々たる大墨跡」と評される、その代表的な書家のひとりです。

古林清茂とは

古林清茂は、中峰明本と並び称された元代中期禅林の巨匠です。温州の出身で、横川如珙の法嗣。「茂古林(むくりん)」と通称され、「金剛幢(こんごうとう)」「休居叟(きゅうきょそう)」などとも号しました。仏性禅師の諡号を贈られています。彼の保寧寺の会下には、日本から渡海した僧で参じない者はいないとまで言われたほどの高僧で、その法嗣には、了庵清欲のほか、来日した竺仙梵僊、日本僧の月林道皎・石室善玖らが連なります。

本作が長福寺に伝わる理由は、この古林の法系と長福寺との深い関わりに由来します。

なぜ長福寺に伝わるのか

暦応2年(1339年)に長福寺を臨済宗寺院として中興した月林道皎は、中国・保寧寺において古林清茂のもとで8年間参禅した、紛れもない古林門下の高弟でした。つまり月林道皎と竺仙梵僊は、同じ古林清茂を師と仰ぐ法兄弟(兄弟弟子)の関係にあります。元徳2年(1330年)に帰朝した月林が、梅津氏の帰依を受けて長福寺に入り中興開山となったとき、彼は古林の法脈と、亡き師への深い思慕を、この寺院にもたらしました。

このような縁から、長福寺には師・古林清茂が月林道皎へ与えた「月林」の道号を記す墨蹟(国宝)と、法兄弟である竺仙梵僊が同じ師を追慕して書いた本作(重要文化財)が、共に伝来しているのです。「師から弟子へ授けられた一幅」と「弟子の兄弟弟子が師を偲んだ一幅」――この二つが一つの寺院に並んで遺るという稀有な事実は、中世の禅林における師弟の絆と法脈の重みを、今日に静かに語り続けています。

重要文化財に指定された理由

本作は昭和35年6月9日付で重要文化財に指定されました。その価値は複数の層から成り立っています。

第一に、紀年銘を伴う竺仙梵僊の確実な真跡であること。来日した元代禅僧の中でも、日本禅林に決定的な影響を与え、五山文学の祖と仰がれる竺仙の年代の明らかな自筆作は決して多くなく、貴重な作例です。

第二に、第一級の歴史史料であること。本文は、元代禅林の巨匠・古林清茂を顕彰する碑文であり、その内容自体が古林の生涯と禅風、ひいては元代禅林の精神世界を伝える一次資料です。書として鑑賞されるとともに、文献学的にも極めて高い価値をもちます。

第三に、書としての完成度。黄庭堅の書風を継ぐ竺仙の典型的な筆致が遺憾なく発揮されており、五山文化が範とした宋元書法の高峰を体現しています。

そして第四に、伝来の確かさ。法兄弟である月林道皎が中興した長福寺に納められて以来、寺外に流出することなく今日に至る伝来の経緯は、本作を単なる書跡を超えた歴史的記念碑たらしめています。

見どころ

本作を実見する機会――それは多くの場合、博物館での特別展覧会に限られますが――に恵まれた折には、次のような点に注目してご鑑賞ください。

第一に、書風そのものです。竺仙梵僊が範とした北宋の黄庭堅の書風は、横画を長く伸ばし、縦画に重みを置く独特のリズムを生み出します。豪放と端正、奔放と均衡が同居する筆遣いは、彼の精神世界の表れとも評されます。

第二に、文の格調です。碑文という形式は、中国の伝統的な追悼文の最も格式高い様式の一つで、被追悼者の生涯と業績、徳と教えを叙する厳粛な文章です。この一文を通じて、海を隔てた日本から、亡き師の人柄と教えを再構成しようとした竺仙の心情を窺うことができます。

そして第三に、人間ドラマです。すでに齢五十を超え、日本の名刹を歴住する高僧となっていた竺仙が、はるか異国の地で、生前に直接見送ることのできなかった師を追慕して筆を執る――この一幅には、禅林における師弟の絆の深さと、海を越えてなお続く宗教的伝承の重みが凝縮されています。

長福寺について

長福寺(山号・大梅山)は、京都市右京区梅津中村町に位置する、桂川にほど近い静かな住宅地に佇む臨済宗南禅寺派の寺院です。縁起によれば、仁安4年(1169年)、梅津庄の開発領主・梅津氏出身の尼僧・真理尼によって創建されたのに始まると伝えられ、当初は天台宗に属していました。暦応2年(1339年)、梅津氏の帰依を得た月林道皎が入寺し、臨済宗寺院として中興。観応元年(1350年)には北朝・光厳天皇の勅願所に列せられています。

応仁の乱で堂宇の多くを失いましたが、山名宗全により再興。文禄元年(1592年)には諸山に列し、江戸時代には南禅寺末として350石の寺領を有し、塔頭28か寺を擁する大寺となりました。

現在の境内には、仏殿・方丈・鐘楼・表門が伝わり、いずれも京都市指定有形文化財に指定されています。本作のほか、紙本著色花園天皇像〈豪信筆〉および古林清茂墨蹟〈月林道号〉という二件の国宝、さらに花園天皇宸翰の数々をはじめ、絹本著色仏涅槃図、紺紙金字金光明経、長福寺縁起など、夥しい重要文化財を伝える文化財の宝庫です。

拝観について

長福寺は通常一般には公開されていない寺院です。現役の修行寺院であり、また極めて貴重な文化財を多数所蔵する関係から、観光目的での参拝はお断りしており、境内で本墨蹟を見学することはできません。本作を含む寺宝は、各地の博物館で開催される禅林墨蹟関連の特別展や、日中禅林交流をテーマとした展覧会において、限られた機会に貸出展示されることがあります。

関連作品の鑑賞をご希望の方には、京都国立博物館平成知新館の書跡・典籍コーナーが、墨蹟をはじめとする禅僧の書を定期的に展示しており、お薦めです。東京国立博物館や根津美術館でも、五山禅林の墨蹟を所蔵しており、展覧会情報を事前に確認されることをお勧めします。

なお、寺院の静謐な環境保護のため、突然の訪問やお電話でのお問い合わせはご遠慮くださいますようお願い申し上げます。

周辺の見どころ

梅津エリアは、観光地としてはあまり知られていない静かな町並みですが、その周辺には魅力的な見どころが点在しています。

南へ少し足を延ばせば、酒造の神として名高い松尾大社が鎮座し、古来より信仰を集めてきた古社の佇まいと、磐座(いわくら)の伝統を今に伝えるご神域を訪ねることができます。さらに阪急嵐山線で数分も西に進めば、嵐山・嵯峨野エリアに到達。渡月橋・竹林の小径・天龍寺など、京都を代表する名勝が広がります。なかでも天龍寺は、長福寺が臨済宗に改められたのとほぼ同時代に、夢窓疎石によって創建された禅刹であり、本作品とも時代精神を共有する場所と言えるでしょう。

禅と五山文化に関心のある方には、京都市中心部の臨済宗大本山――南禅寺・相国寺・大徳寺など――を巡る一日もお薦めです。とりわけ南禅寺は、竺仙梵僊自身が1340年代に住持を務めた寺院で、本作が書かれた頃にちょうど縁の深かった霊地です。

Q&A

Q長福寺で実物を見ることはできますか?
Aいいえ。長福寺は一般には公開されておらず、本作も寺内で常時拝観することはできません。禅林墨蹟や日中仏教交流をテーマにした特別展などで、博物館に貸出展示される機会が稀にあります。京都国立博物館をはじめとする主要美術館・博物館の展覧会情報をご確認いただくことが、実見の最も確実な方法です。
Q「墨蹟」とはどのような書ですか?
A「墨蹟(ぼくせき)」は文字通り「墨の跡」を意味し、本来は真跡一般を指す中国語でしたが、日本では特に禅僧の真筆を指す言葉として用いられてきました。印可状・字号・法語・偈頌・遺偈・尺牘など、形式はさまざまです。茶道において特に尊ばれ、日本書道史における最も格の高いジャンルの一つとして位置づけられています。
Q竺仙梵僊はなぜ日本に来たのですか?
A元徳元年(1329年)、豊後の守護大名・大友貞宗の招請を受けて、先輩格の明極楚俊に従って来日しました。当時、日本側からの強い招請と、元朝末期の政治的混乱を背景として、元代を代表する禅僧の渡来が相次いだ時期にあたります。竺仙はその代表的な来朝僧のひとりに位置づけられます。
Q碑文の対象となった人物は誰ですか?
A中国・元代の禅匠、古林清茂(1262~1329年)です。竺仙梵僊が金陵保寧寺で師事した直接の師にあたります。古林は、竺仙が日本へ渡る年と同じ1329年に示寂しており、本作はその17年後の1346年に、日本に住む竺仙が亡き師を追慕して書いた追悼の文章です。
Q竺仙梵僊と長福寺との直接の関係はあるのですか?
A竺仙梵僊自身が長福寺の住持を務めた事実は伝わっていません。しかし、暦応2年(1339年)に長福寺を臨済宗寺院として中興した月林道皎が、竺仙と同じ古林清茂の法嗣であった、つまり兄弟弟子の関係にあったことから、共通の師を追慕する本作が長福寺に伝来するに至ったと考えられています。

基本情報

名称 竺仙梵僊墨蹟〈古林和尚碑文〉(じくせんぼんせんぼくせき〈くりんおしょうひぶん〉)
指定区分 重要文化財
指定年月日 昭和35年(1960年)6月9日
指定番号 01998-00
種別 書跡・典籍
時代 南北朝時代(1346年)
員数 1幅
筆者 竺仙梵僊(1292~1348年)
所有者 長福寺
所在地 京都府京都市右京区梅津中村町37
宗派・山号 臨済宗南禅寺派(山号・大梅山)
アクセス 阪急電鉄嵐山線「松尾大社」駅より徒歩約29分。※長福寺は一般非公開のため、寺院での拝観はできません。

参考文献

文化遺産オンライン「竺仙梵僊墨蹟〈古林和尚碑文/〉」
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/197036
国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/8564
Wikipedia「竺仙梵僊」
https://ja.wikipedia.org/wiki/竺仙梵僊
Wikipedia「長福寺 (京都市右京区梅津)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/長福寺_(京都市右京区梅津)
Wikipedia「禅林墨跡」
https://ja.wikipedia.org/wiki/禅林墨跡
コトバンク「竺仙梵僊」(日本大百科全書ほか)
https://kotobank.jp/word/竺仙梵僊-1079914
京都国立博物館「古林清茂墨跡『月林』道号 長福寺」(関連作品)
https://www.kyohaku.go.jp/old/jp/theme/floor1_3/f1_3_koremade/syoseki_20150102.html
京都ガイド「長福寺」
https://kyototravel.info/choufukuji

最終更新日: 2026.05.14