篆隷万象名義:日本最古の漢字字書が伝える悠久の知の遺産

京都市の北西部、深い山林に包まれた世界遺産・高山寺に、日本の知の歴史を語る上で欠かすことのできない国宝が静かに守り継がれています。それが「篆隷万象名義」(てんれいばんしょうめいぎ)——弘法大師空海が830年頃に編纂した、日本に現存する最古の漢字字書です。

この書は単なる辞書にとどまらず、中国で失われた古代の名字書「玉篇」の内容を今に伝える、東アジア文字文化史における比類なき資料です。言語、書道、仏教文化に関心をお持ちの方にとって、篆隷万象名義は平安時代初期の知的世界への特別な入口となるでしょう。

篆隷万象名義とは

篆隷万象名義は、全30巻・6帖からなる漢字字書です。「篆隷万象名義」という書名は、「篆書と隷書により、万象(あらゆる事物)の名義(名称と意味)を示す」という意味を持っています。

本書は約16,000字の漢字を542の部首に分類して掲出し、各漢字について上段に古代の篆書(てんしょ)の字形を、下段に隷書(れいしょ、実際には楷書に近い字形)を記し、反切(はんせつ)による字音と簡略な字義を注記しています。ただし、篆書が記されている箇所は全体の一部にとどまります。和訓(日本語の読み)は含まれておらず、あくまでも中国の漢字字書として編まれた書物です。

本書は、中国・梁の顧野王が543年頃に撰した字書「玉篇」(ぎょくへん)を底本とし、その内容を抜き書きして節略したものです。空海が804〜806年の入唐の際に持ち帰った玉篇の原本に基づいており、大部な玉篇をより使いやすくする目的で編まれたと考えられています。

なぜ国宝に指定されたのか

高山寺に伝わる篆隷万象名義は、1952年(昭和27年)11月22日に国宝に指定されました。その文化的価値は、以下の点に集約されます。

第一に、日本で編纂された現存最古の字書であることです。高山寺本は永久2年(1114年)に書写された唯一の古写本であり、江戸時代以降の写本はすべてこの高山寺本に由来します。日本の辞書史・文字文化史の原点というべき存在です。

第二に、失われた原本「玉篇」の内容を伝える貴重な資料であることです。原本玉篇は中国では早くに散逸してしまいましたが、篆隷万象名義にはその構成・字音・字義が忠実に保存されています。中国の言語学・文字学研究にとっても極めて重要な一次資料です。

第三に、篆隷万象名義に収められた反切(字音注)は、6世紀中頃の南朝梁の標準的な読書音を反映すると考えられており、古代中国語の音韻研究にとって不可欠な資料として高く評価されています。

空海——字書の編纂者

篆隷万象名義の編纂者である空海(774〜835年、諡号「弘法大師」)は、真言宗の開祖として、また書道の達人「三筆」の一人として広く知られています。774年に讃岐国(現在の香川県)に生まれ、804年に遣唐使の一員として唐に渡り、密教・梵語・書道・漢籍など幅広い学問を修めました。

空海は806年に帰国する際、膨大な経典・書籍・法具を持ち帰りました。その中には玉篇や説文解字(後漢の許慎が121年に著した字書)の写本も含まれていました。これらの中国の字書を基に、空海は天長7年(830年)以降に篆隷万象名義を編纂したと考えられています。

学者の間では、全6帖のうち前半の第1〜4帖は空海自身の撰述であり、後半の第5・6帖は別人による続撰と考えられています。第1帖の冒頭には「東大寺沙門大僧都空海撰」と明記されています。

高山寺本——唯一の古写本

高山寺に伝わる篆隷万象名義は、紙本墨書の6冊(帖)で構成され、各冊の寸法は縦約26.8cm、横約14.6cmです。第6帖の末尾には「永久二年(1114年)六月、以て敦文王の本を書写し了ぬ」という奥書があり、平安時代後期に書写されたことが明らかです。

空海の原本から約300年を隔てた写本ではありますが、この高山寺本が唯一の古写本であり、学術的に代替不可能な資料です。江戸時代になって本書が学者の間に知られるようになると、幕末に清の楊守敬がこの写本の重要性を中国に紹介し、日中両国の学術界で高く評価されるようになりました。

魅力・見どころ

二つの書体が織りなす文字の歴史:篆書と隷書(楷書)を並記するという独特の形式は、漢字の字形が数千年の間にどのように変遷してきたかを一目で感じ取れるものです。古代の曲線的な篆書と、現代の文字に近い直線的な楷書が並ぶ様子は、文字文化の壮大な流れを視覚的に体験させてくれます。

失われた知識への窓:中国で散逸してしまった原本玉篇の内容を間接的に伝えるという事実は、この書が単なる日本国内の文化財にとどまらず、東アジア全体の文字文化史における貴重な証拠であることを意味しています。

空海の知的世界:篆隷万象名義を通じて、9世紀初頭の日本——仏教僧が学者・言語学者・文化の仲介者として活躍した時代——の知的世界を垣間見ることができます。

なお、篆隷万象名義は繊細な古写本であるため、常時公開はされていません。特別展などでの公開機会については、高山寺や京都国立博物館・東京国立博物館の展覧会情報をご確認ください。

高山寺——篆隷万象名義の守り手

篆隷万象名義を所蔵する高山寺(こうさんじ、正式名称:栂尾山高山寺)は、京都市右京区の栂尾(とがのお)に位置する真言宗系の古刹です。1994年に「古都京都の文化財」の一つとしてユネスコ世界文化遺産に登録されました。

建永元年(1206年)、明恵上人(1173〜1232年)が後鳥羽上皇より寺域を賜り再興した寺で、国宝8件、重要文化財1万点以上を所蔵する日本屈指の文化財の宝庫です。中でも「鳥獣人物戯画」は「日本最古の漫画」として世界的に知られています。

境内は深い山林に囲まれ、参道には杉の巨木が立ち並び、苔むした石段が幽玄な雰囲気を醸し出します。国宝の石水院(せきすいいん)からは清滝川の渓谷を望む絶景が広がり、特に紅葉の季節は息をのむ美しさです。

また、高山寺は日本最古の茶園があることでも有名です。明恵上人が栄西禅師から譲り受けた茶種を栽培したのが始まりで、ここから宇治茶の歴史が開けたとされています。

周辺情報

高山寺が位置する高雄地区は「三尾(さんび)」と呼ばれ、高雄・槇尾・栂尾の三つの寺院エリアからなる京都屈指の紅葉名所です。高山寺と合わせて訪れたい周辺スポットをご紹介します。

  • 神護寺(じんごじ):空海や最澄とゆかりの深い真言宗の古刹。山上の劇的な立地と、厄除けの「かわらけ投げ」で有名です。高山寺から徒歩約30分。
  • 西明寺(さいみょうじ):槇尾にたたずむ静かな寺院。四季折々の自然の美しさを楽しめます。高山寺から徒歩約10分。
  • 嵐山:竹林の小径、天龍寺、渡月橋など京都を代表する景勝地。高雄からバスでアクセスできます。
  • 京都国立博物館・東京国立博物館:高山寺の主要な寺宝の多くは、これらの博物館に寄託されています。鳥獣人物戯画をはじめとする国宝の展示機会については、各博物館のスケジュールをご確認ください。

Q&A

Q篆隷万象名義は高山寺で見ることができますか?
A篆隷万象名義は繊細な古写本のため、常時公開はされていません。特別展や期間限定の公開で展示される場合がありますので、高山寺の公式サイトや、京都国立博物館・東京国立博物館の展覧会情報をご確認の上、お出かけください。
Q高山寺へのアクセス方法を教えてください。
AJR京都駅からJRバス高雄・京北線「栂ノ尾」行きに乗車し、「栂ノ尾」バス停で下車(約55分)、徒歩約5分です。地下鉄四条駅からは市バス8系統「高雄・栂ノ尾」行きでも行くことができます(約50分)。
Q拝観料はいくらですか?
A国宝・石水院の拝観料は大人1,000円、小学生500円です。秋の紅葉シーズン(例年10月〜12月頃)には別途入山料500円が必要です。秋季以外は境内の散策は無料です。
Qおすすめの訪問時期はいつですか?
A紅葉の名所として特に11月中旬〜12月初旬が人気ですが、新緑の美しい春〜夏も静かで瞑想的な雰囲気を味わえます。混雑を避けたい方は紅葉シーズン以外がおすすめです。
Q篆隷万象名義の「篆隷」とは何ですか?
A「篆」は篆書(てんしょ)、「隷」は隷書(れいしょ)という、漢字の二つの古い書体を指します。篆書は象形文字に近い曲線的な書体、隷書は直線を多用した現代の楷書に近い書体です。本書ではこの二つの書体を並べて漢字を示すことからこの名がつけられました。

基本情報

名称 篆隷万象名義(てんれいばんしょうめいぎ)
指定区分 国宝(1952年〈昭和27年〉11月22日指定)
種別 書跡・典籍
編纂者 空海(第1〜4帖、天長7年〈830年〉頃)/後半第5・6帖は別人による続撰
書写年 永久2年(1114年)6月
形態 紙本墨書 6冊(帖)、各縦約26.8cm×横約14.6cm
収録文字数 約16,000字(542部首に分類)
所有者 宗教法人高山寺
所在地 〒616-8295 京都市右京区梅ヶ畑栂尾町8
拝観時間 8:30〜17:00
拝観料 石水院:大人1,000円/小学生500円(秋季は別途入山料500円)
アクセス JR京都駅よりJRバス高雄・京北線「栂ノ尾」下車(約55分)/地下鉄四条駅より市バス8系統「栂ノ尾」下車(約50分)
電話番号 075-861-4204
公式サイト https://kosanji.com/

参考文献

篆隷万象名義 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%86%E9%9A%B7%E4%B8%87%E8%B1%A1%E5%90%8D%E7%BE%A9
篆隷万象名義 – 高山寺(公式)
https://kyoto-kosanji.jp/treasure/07/
高山寺について 国宝・重要文化財 – 世界遺産 栂尾山 高山寺 公式ホームページ
https://kosanji.com/about/national_treasure/
国宝-書跡典籍|篆隷万象名義[高山寺/京都] – WANDER 国宝
https://wanderkokuho.com/201-00672/
篆隷万象名義(テンレイバンショウメイギ) – コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E7%AF%86%E9%9A%B7%E4%B8%87%E8%B1%A1%E5%90%8D%E7%BE%A9-102891
A Database for Tenrei-Bansho-Meigi – HDIC
https://hdic.jp/rose/shikeda/kkg178.html
Tenrei Banshō Meigi – Wikipedia (English)
https://en.wikipedia.org/wiki/Tenrei_Bansh%C5%8D_Meigi
拝観・境内のご案内 – 世界遺産 栂尾山 高山寺 公式ホームページ
https://kosanji.com/guide/
高山寺 – 京都の拝観情報(公式)
https://kyoto-kosanji.jp/info/
Kōzan-ji – Wikipedia (English)
https://en.wikipedia.org/wiki/K%C5%8Dzan-ji

最終更新日: 2026.03.19