新修本草〈巻第四、第五、第十二/第十七、第十九〉――仁和寺に伝わる世界最古の勅撰薬学書
京都・仁和寺の霊宝館に、東アジア医学の知の歴史を今に伝える五巻の貴重な巻子本が伝来しています。『新修本草(しんしゅうほんぞう)』は、唐の高宗によって編纂が命じられた中国最古の勅撰本草書であり、世界で最も早い時期の国家公認薬学書とされる稀代の典籍です。中国本土では原本がすでに失われていますが、日本では遣唐使によって早くから伝えられ、平安・鎌倉と書写を重ねながら大切に伝えられてきました。仁和寺に残るこの五巻は、現存する『新修本草』のなかでも最古に近い書写本であり、昭和27年(1952年)に国宝に指定されました。
『新修本草』とは何か
『新修本草』は、唐の顕慶四年(659年)、高宗の勅命によって編纂された全二十巻の本草書です。編纂を主導したのは李勣(りせき)・蘇敬(そけい)らの学者たちで、それ以前に陶弘景(とうこうけい)が著した『神農本草経集注』を増補・改訂し、新たな知識を加えて成立しました。本草とは医薬として用いる植物・動物・鉱物を指し、その性質や用法を体系的に記録した学問です。
この書物の歴史的意義は、皇帝の名のもとに国家事業として編纂された点にあります。それ以前の本草書はおおむね個人の医家による私撰でしたが、『新修本草』は唐帝国全土の医師が参照すべき公式の標準書として位置づけられました。多くの医学史研究者がこれを「世界初の国家薬局方」と評するのもこのためで、ヨーロッパで類似の薬局方が現れるおよそ千年も前のことです。
また本書は、唐の国際性を映し出す資料でもあります。新たに加えられた115種の新附品のなかには、阿魏(あぎ/ペルシア由来)、訶梨勒(かりろく/インド由来)、胡椒(東南アジア由来)、底野迦(ていやか/地中海起源のテリアカ)など、シルクロード交易によってもたらされた西域の薬物が多数含まれています。一冊の薬学書がユーラシア大陸の医薬交流を物語っているのです。
日本への伝来とその後
『新修本草』はきわめて早い時期に日本へ伝えられました。奈良時代には遣唐使によって写本が将来され、典薬寮(てんやくりょう)の医学生のための必修テキストとして採用されました。『続日本紀』延暦六年(787年)の条には典薬寮が『新修本草』をテキストとして上奏したことが記され、『日本後紀』延暦十八年(799年)には和気広世が弘文院で本書を講じたとの記録があります。さらに『日本紀略』弘仁十一年(820年)には『新修本草』を講読させる勅が下され、『延喜式』(927年)には「新修本草三百十日」という修学期間まで定められています。
一方、中国本土では北宋初期の開宝六年(973年)に『開宝本草』が新たに編纂・印刷されると、『新修本草』はその内容を吸収されるかたちで次第に用いられなくなり、ついには原本も失われてしまいました。結果として、日本に伝えられた写本系統こそが、この貴重な典籍の主たる伝承ルートとなったのです。
国宝に指定された理由
仁和寺所蔵の本書五巻は、昭和27年(1952年)3月29日に国宝に指定されました。その学術的・歴史的価値はきわめて高く、いくつかの観点から特筆されます。
第一に、本書は唐代の原本がすでに失われた典籍の最古に近い写本を伝えているという点です。仁和寺本は鎌倉時代前期に日本で書写されたものですが、唐代に成立した本来の姿を忠実に伝えており、東アジア医学史研究にとって代替不可能な根本資料となっています。
第二に、いわゆる「朱墨雑書(しゅぼくざっしょ)」と呼ばれる独特な書写形式を保持している点です。古い『神農本草経』の本文を朱字で、後代の注釈を墨字で書き分けることで、本草知識が世代を超えて積み重なってきた過程を視覚的に再現しています。この形式は、本文の歴史的層序を読み解くための貴重な手がかりです。
第三に、仁和寺本五巻は、武田科学振興財団の杏雨書屋(きょううしょおく)が所蔵する巻第十五(同じく国宝)と僚巻の関係にあり、両者を合わせて鎌倉時代前期書写の最古写本群を構成します。これらは世界でも最も古態をよく伝える『新修本草』の写本として、東洋医学史上きわめて貴重な存在です。
魅力と見どころ
本書は仁和寺霊宝館でのテーマ展示の際に公開されることがあり、公開時には次のような点に注目するとより深く鑑賞できます。
まず、書物の形式そのものが見どころです。冊子本ではなく巻子本(かんすぼん)として伝わっており、巻末に巻緒、巻首の覆紙に一紙が貼り継がれた本格的な装丁が残されています。料紙には楮紙が用いられ、一紙十七行、一行十七字から二十七字ほどで丁寧に書写されています。
本文を見ると、朱字と墨字の使い分けが鮮やかに映ります。古層を成す『神農本草経』の本文が朱で、唐代に加えられた「唐本注」以下の注釈が墨で記されており、千数百年にわたる医薬知識の堆積が一覧できる構造になっています。
収録される薬物の内容も興味深いものです。巻第四・第五は鉱物(玉石部)、巻第十二は木部、巻第十七・第十九は草本類を扱い、人参、桂皮、各種の樹脂など、現代の漢方薬にも通じる薬物が古代の視点で解説されています。
霊宝館には本書のほかにも、創建当時の本尊である阿弥陀三尊像(国宝)をはじめ、仏画、書跡、工芸品など、千百年を超える仁和寺の歴史を物語る名宝が多数収蔵されています。
仁和寺について
仁和寺は仁和四年(888年)、宇多天皇によって創建された真言宗御室派の総本山です。明治維新に至るまで歴代の門跡(住職)に皇族が就いた門跡寺院の筆頭格であり、「御室御所(おむろごしょ)」とも呼ばれました。平成6年(1994年)には「古都京都の文化財」の構成資産として世界遺産に登録されています。
霊宝館は春・秋を中心に期間限定で公開され、テーマに応じて展示内容が入れ替わります。『新修本草』は常時公開ではありませんので、訪問前には仁和寺公式ウェブサイトで展示テーマと公開対象を確認することをおすすめします。
たとえ巻物そのものを見られない時期であっても、境内には見どころが豊富にあります。京都三大門のひとつである二王門、国宝の金堂(京都御所の紫宸殿を移築したもの)、重要文化財の五重塔、御室桜で名高い庭園、そして優美な御殿(宸殿・白書院・黒書院)などが、皇室ゆかりの寺院ならではの気品ある景観をつくり出しています。
周辺情報
仁和寺の周辺は京都屈指の文化財密集地帯であり、徒歩や嵐電(京福電鉄)を使って一日でいくつもの名所を巡ることができます。
- 龍安寺――石庭で名高い世界遺産。仁和寺から徒歩約15分
- 金閣寺(鹿苑寺)――黄金に輝く舎利殿で知られる世界遺産
- 妙心寺――広大な伽藍を擁する臨済宗妙心寺派の大本山
- 等持院――足利尊氏ゆかりの落ち着いた庭園を持つ古刹
- 嵐山――嵐電に乗って西へ。竹林の小径や天龍寺(世界遺産)へ至る
嵐電は古くからの住宅街を縫うように走る趣のある路面電車で、車窓から眺める京都の風景も旅の楽しみのひとつです。
Q&A
- 仁和寺を訪ねればいつでも『新修本草』を見られますか。
- いいえ、常時公開ではありません。本書は霊宝館でテーマを設けた期間限定の名宝展で公開されることがあり、展示替えによって出展品が変わります。訪問前に仁和寺公式サイトで展示テーマと出展品をご確認ください。
- この典籍がなぜそれほど重要視されているのですか。
- 『新修本草』は唐の高宗の勅命によって編まれた、世界最古とされる国家編纂の薬学書です。中国では原本が失われたため、仁和寺本と武田科学振興財団所蔵の巻第十五(ともに国宝)が、現存する最古層の写本として東洋医学史上きわめて貴重な存在となっています。
- 本文は日本語ですか、それとも中国語ですか。
- 本文は前近代東アジアの学術言語である漢文で書かれています。当時の日本の医家や学者は漢文をそのまま読むことができ、この典籍を直接学習しました。写本そのものは、鎌倉時代の日本の書写者によって書き写されたものです。
- 京都中心部から仁和寺へはどのように行けますか。
- 京都駅から市バス26番に乗車し「御室仁和寺」バス停で下車する方法(約40分)、または嵐電(京福電鉄)の「御室仁和寺駅」で下車し徒歩約3分で到着する方法が便利です。
- 霊宝館内での写真撮影は可能ですか。
- 脆弱な典籍や美術品を保護するため、霊宝館内での写真撮影は基本的に禁じられています。スタッフの案内や館内表示に従ってご鑑賞ください。
基本情報
| 名称 | 新修本草〈巻第四、第五、第十二/第十七、第十九〉 |
|---|---|
| 指定区分 | 国宝(書跡・典籍の部) |
| 指定年月日 | 昭和27年(1952年)3月29日 |
| 形態 | 巻子本5巻、料紙は楮紙 |
| 時代 | 鎌倉時代前期書写(唐・顕慶四年〈659年〉編纂の原典の写本) |
| 所有者 | 仁和寺 |
| 所在地 | 京都府京都市右京区御室大内33 仁和寺 |
| 展示場所 | 仁和寺 霊宝館(期間限定公開) |
| 霊宝館拝観料 | 500円(御殿との共通券あり) |
| 拝観時間 | 3月~11月 9:00~17:00/12月~2月 9:00~16:30(受付終了は閉門30分前) |
| アクセス | 市バス26番「御室仁和寺」下車すぐ/嵐電「御室仁和寺駅」下車徒歩約3分 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース 新修本草〈巻第四、第五、第十二/第十七、第十九〉
- https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/00098
- 文化遺産オンライン 新修本草巻第十五(武田科学振興財団蔵)
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/216280
- 世界遺産 真言宗御室派総本山 仁和寺 公式サイト
- https://ninnaji.jp/
- 仁和寺 ウィキペディア
- https://ja.wikipedia.org/wiki/仁和寺
- 真柳誠「目でみる漢方史料館(95)国宝、『新修本草』仁和寺本」『漢方の臨床』43巻4号
- https://square.umin.ac.jp/mayanagi/paper04/shiryoukan/me095.html
- コトバンク(日本大百科全書) 新修本草
- https://kotobank.jp/word/新修本草-1547110
最終更新日: 2026.05.15