臨時祭試楽調楽〈藤原定家筆〉― 鎌倉の歌人が書きとめた宮廷祭祀の稽古

平安以来、賀茂や石清水で営まれた臨時祭の前には、勅使に従う舞人と楽人が定められ、歌と舞の稽古が重ねられた。その準備の様子を書き記した一帖が、鎌倉時代の歌人・藤原定家(1162〜1241)の筆で今に残る。小倉百人一首の撰者として知られる、あの定家である。

本書は一帖からなる。表題の「臨時祭試楽調楽」は、臨時祭に向けた二段階の準備を指している。調楽は、舞人・楽人が定まったのちに楽所で行う歌舞の稽古であり、試楽は祭の直前に営まれる試演である。室町期の有職書『公事根源』は、試楽を調楽ともいい、音楽をまだ整えぬうちに試みる意である、と説明する。

原本を編んだ人物や成立の年代は明らかでない。現に伝わるのは、定家が鎌倉時代に書写したこの一帖である。文化庁の区分では書跡・典籍に属し、内容のうえでは雅楽に関する音楽書として扱われている。

重要文化財に指定された理由

本書は昭和30年(1955)2月2日に重要文化財へ指定された。その価値は、一帖のうちに二つの性格が重なる点にある。

第一は、書き手である。定家は九条家に家司として仕え、数多くの公事の現場に立ち会いながら、儀式の先例を扱う有職故実の知識を深めていった。生涯にわたって書き継いだ日記『明月記』は国宝に指定されている。祭祀の楽の実際を定家が書きとめた本書は、その筆跡の遺品としても、儀礼の世界に対する定家の理解を示す資料としても重い意味をもつ。

第二は、内容である。宮廷の祭礼における楽の稽古を細かく記した資料は多くない。耳と身体によって受け継がれてきた歌舞の手順を文字に定着させ、しかも早い時期の書写によってそれを残した点に、雅楽史や東遊の研究上の価値がある。

この一帖の見どころ

定家の書は、後世に「定家様」と呼ばれるほど個性が際立つ。筆の運びは太い線と細い線の落差が大きく、字は傾き、寄り合い、一見すると無造作にさえ映る。定家自身は『明月記』のなかで、自らの字を鬼のようだと書いた。ところが、その荒削りなところが好まれ、のちの歌人や茶人、さらには商家の看板にまで、定家の筆跡をまねる流行が生まれた。

文字の背後にある楽は、今も生きている。東遊はもともと東国の風俗歌舞で、9世紀の末に賀茂祭で奉納されたのを早い例として宮廷の祭祀に取り入れられた。その中心をなすのが駿河舞と求子であり、舞人は冠に季節の花を挿し、太刀を帯びた装束で舞う。伴奏の楽人は陪従と呼ばれ、和琴・高麗笛・篳篥を奏で、笏拍子で拍を取った。同じ時代に筆を執った清少納言は、舞のなかでも駿河舞と求子をとりわけ趣深いものとして書きとめている。

本書を読むことは、鎌倉時代の公家が一つの演目の骨格を書き起こしていく手もとをのぞき込むことに近い。誰がどこに立ち、何を歌い、どの順で進めるのか。絵画や刀剣の傍らでは見過ごされがちな静かな一帖だが、失われた宮廷の年中行事の手ざわりがそこに残されている。

定家の世界に触れる

本書は個人の所蔵であり、常時の公開はないため、原本を見る予定を立てることはできない。ただし定家の筆跡そのものは、ほかの場所でも出会える。東京国立博物館は『明月記』の自筆部分や定家筆の文書を所蔵し、随時展示しており、京都国立博物館も名高い一巻を所蔵する。いずれも、あの「鬼」のような書を実見できる場である。

本書が記す楽を味わうなら、生きた祭礼をたどるのが確かである。5月半ばの葵祭では、勅使が下鴨・上賀茂の両社に至り、東遊が奉納される。舞人は緋色の袍、楽人は紫色の袍をまとい、太刀を差した武官の姿で舞うのが葵祭の特色である。北の祭と南の祭という古い対をなしたもう一方、石清水八幡宮は京都府八幡市にある。同じ歌舞は奈良の春日若宮おん祭や日光東照宮の大祭でも見られ、定家が書きとめた歌舞は、今も一年のうちのどこかで響いている。

Q&A

Q原本を見ることはできますか。
A原則として見られません。個人の所蔵で、常設の公開はありません。定家筆の作品は、東京国立博物館や京都国立博物館で随時展示されることがあります。
Q「試楽」と「調楽」とは何ですか。
Aどちらも祭礼の歌舞の稽古を指します。調楽は舞人・楽人が定まったのち楽所で行う稽古、試楽は祭の直前に営む試演で、しばしば天皇が出御しました。
Q藤原定家とはどのような人物ですか。
A平安末から鎌倉初期にかけての代表的な歌人で公家です。勅撰和歌集の撰者を務め、小倉百人一首を撰し、長期にわたる日記『明月記』を残しました。
Qこの一帖はどの楽に関わるものですか。
A宮廷の祭祀に取り入れられた東遊に関わります。その中心をなす駿河舞と求子は、賀茂・石清水の臨時祭で奉納されました。
Qこの楽は今どこで見られますか。
A東遊は、5月の京都・葵祭、石清水八幡宮のほか、奈良の春日若宮おん祭や日光東照宮の祭礼などで、今も奉納されています。

基本情報

名称臨時祭試楽調楽〈藤原定家筆〉
指定区分重要文化財(書跡・典籍/雅楽の音楽書)
指定年月日昭和30年(1955)2月2日
員数1帖
時代鎌倉時代(13世紀)
筆者藤原定家(1162〜1241)。原本の作者・成立年代は未詳
所在地京都府
所有者個人
公開状況常時の公開はなし

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/8315
臨時祭試楽調楽〈藤原定家筆/〉 ― ジャパンサーチ/文化遺産オンライン
https://jpsearch.go.jp/item/bunka-133647
東遊 ― 文化デジタルライブラリー(日本芸術文化振興会)
https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc22/sakuhin/utamai/s1.html
藤原定家 ―『明月記』とその書― ― 東京国立博物館
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2610&lang=ja
藤原定家の日記『明月記』 ― 京都国立博物館
https://www.kyohaku.go.jp/jp/learn/home/dictio/shoseki/sadaie/

最終更新日: 2026.06.13